信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「サブトレーナー! ウォームアップのメニュー、済ませて来ました!」
荷物を積んだ台車をゴロゴロ押しながらレースコースへ踏み入れると、こちらの姿を認めてウマ娘がひとり駆け寄ってきた。
「お疲れ様、アル。……それじゃあ、そろそろ今日のメインに移ろうか」
「わかりました! っと、そちら、今日のトレーニングで使う道具ですか? 運びましょうか?」
「んー、君たちの力なら運べるとは思うけど、気をつけないと腰痛めそうだから大丈夫。
僕の答えに彼女は「はい!」と居住まいを正し、静かに"休め"の姿勢をとる。
ハキハキと歯切れのよい物言いが示すとおり、彼女はチーム・ピクシスいち体育会系な気っ風の子だった。
「ほーい、それじゃトレーニングの説明をするから、ピクシス集合!」
呼びかけに応じて、コース周囲に散っていった他のチームメンバーも足早に集まってくる。
その中にひとり、おっかなびっくり混ざっている風の黒鹿毛のウマ娘を出迎えて、僕は小声で囁きかけた。
「来てくれてありがとう」
「……別に。エトのためですから」
「あらどうも。優しいのね、クレディ」
クレディカイゼリンは僕の顔を見上げた後でしれっとそう言ってのけたが、すぐ後ろからプリマエトワールがつっけんどんに噛みついた。
二人の間にある薄らヒリついた空気感はいつぞやのファミレスでも感じたソレと同じものだ。
君たちさぁ……と、苦言を呈しかけたが、二人の背後からにょきっと腕が伸びてきてそれぞれの頭を抑え込む。
「はいはい、二人とも、そうツンケンしない」
父親が子供にするように、黒鹿毛と鹿毛をワシャワシャと手荒く撫でつけて割って入ったのは、チーム・ピクシスの最年長ウマ娘、サーマルソアラだ。
「エトから話は聞いてるよ。今日はよろしくね」
「ええ……こちらこそ」
少し垂れた目元からこぼれる柔らかそうな眼差しと柔和な笑みを向けられて、クレディは一瞬だけ気圧されたような顔をしたあとでぎこちなく頷いた。
図書館で僕と彼女が思いがけず邂逅してから三日後。
この日、クレディは体験入部という体でチームピクシスの練習に飛び入り参加していた。
「彼女は前回の選抜レースでちょっと成績が奮わなかったんだ。次に向けて目下自主トレ中なんだけど、レース戦術を身につけるためにベテランの力を借りたいってさ」
「……おおむねそんな感じです」
僕のざっくばらんな説明にクレディは頷く。ただしその顔には「そうなんだけどそうじゃない」という内心のボヤきが浮かんでいた。
口ぶりを聞く限りでは本人には色々と思うところがありそうだが、ひとまず僕の誘いを受けてくれた形ではあるらしい。
「へぇ、それでいきなり道場破りなんて、なかなかのチャレンジャーだなぁ!」
「どっ――いえ私は……」
「前目につける走りをする子だから、君の走りが参考になるかもしれない。よろしく頼むよ、ソアラ」
「りょうかい!」
細かい事情はもちろん知らないサーマルソアラは、最後にポンと下級生二人の肩を叩いたあとで、少し離れたところにある自分のスポーツバッグの方へと鼻歌混じりに歩いていった。
「ソアラ先輩、いつもよりちょっとテンション高めね」
「そうなの?」
機嫌良さそうに揺れている黒鹿毛の尻尾を目で負いながらエトワールが興味深そうに言う。
クレディは乱れてしまった前髪を指で払いながら聞き返していた。
「自由人って言えば聞こえはいいけど、たまに練習の途中で突然
「えぇ……」
説明を聞いて、クレディは唖然とした顔を浮かべる。
練習でも学業でも、真面目という概念が服を着て歩いているような彼女にとっては、いっそ身勝手にも見える練習風景はいささかカルチャーショックだったのかもしれない。
「とても良くわかる。何を隠そう僕だって最初は信じられなかった。鬼教官のチームにあんなにフリーダムな子がいるなんてね」
「はぁ……」
ソアラは既に現役を退いてドリームトロフィーリーグに籍を移した身だった。
身体を追い込んで自己の限界を突破することに
けれどチームメイトに対する面倒見はいい。普段の練習では同じ先行脚質であるエトワールとよく並走していて、先達のひとりとして手取り足取りノウハウを伝授していることも多かった。
その延長で、今日はクレディの練習にも胸を借してもらおうという魂胆である。
「ま、あんな感じでソアラの方はウェルカムらしいから、遠慮なく相談してみて。レースのことも、それ以外のこともね」
今日は水分補給だけ済ませて
「今回だけで時間が足りなければ、また後日の練習に来てくれてもいい」
「……それはトレーニングの内容次第で――わ、ぷっ!」
それとなく探りを入れた僕の物言いが気に障ったのか、クレディは少しだけ語気を強めて言い返そうとする。
が、その言葉は半ばで横合いから押し流されてしまった。
浮遊感のあるミディアムボブカットのウマ娘が、クレディの頭を自身の豊かな胸元へと抱き込んだのだ。
「そのままピクシスの子になってもいいんですよ~? 可愛い後輩が増えるのは大歓迎ですから~♪」
のんびりした声色でクレディに誘い掛けているそのウマ娘の体躯は、クレディよりも頭ひとつ分はでかかった。
何なら一応日本人男性の平均身長はあるはずの僕よりも(一応ウマ耳込みで)背が高いという恵体だ。
「ふぁっ、……ふぁんふぁえておひまふっ!」
「何て?」
「『考えておきます』じゃぁないですか?」
鍛えられた胸板とふくよかにそびえる双丘が形作る窮屈な空間の中に囚われて、クレディはモゴモゴと声にならない声を上げていた。
両手を真横に振りかざして、いかにも自分の頭の後ろに回された手を払い
それでも手首を掴んで止めるといった実力行使に出ないあたり、遠慮しいというか、人が良いというか……。
「……ノート先輩、そのくらいにしておいてください。その子、大人しそうな顔してひねくれてますから、猫っ可愛がりするといつの間にか逃げちゃいますよ」
「あらら、それは残念~♪」
見かねたエトワールが止めに入って、ようやくふわふわボブカットのウマ娘はクレディを解放した。
したのだが、マリンブルーの瞳は相変わらず、揉みくちゃにされた後でゼイゼイと荒く息を吐くクレディの方へと熱っぽく注がれている。
「……名残惜しそうな顔してもダメだぞ、ノート」
「いえそんな。えへへ……」
「笑って誤魔化すんじゃない」
小言とともに、おでこに向けて軽く空手チョップをくれてやる。
この子の名はリーウェイノート。
ソアラに続くピクシスの古株で、見るものの毒気を片っ端から無毒化するようなほんわかした笑顔が特徴のウマ娘だ。
実は中央トレセンの中でも紛れもない上澄み級の実力者なのだが、ソアラとはまた違うベクトルで「気分屋」なところが玉に瑕である。
具体的には、合間合間で練習相手を可愛がり過ぎるのだ。後輩先輩やチーム内外の別なく、それも自分の練習に支障が出るレベルで。
最初にチーフ――布施田トレーナーから紹介された時は、体育会系運動部特有の「可愛がり」=「シゴキ」と理解して、あんな穏やかな雰囲気なのに中身は……いやはや人(ウマ娘だが)は見かけによらぬものだとビビり倒したが、実際は想像と真逆だった。
一部界隈で耳目を集めそうな微笑ましい光景ではあるが、練習中に本人の注意が散漫になるのは大変よろしくない。
何よりチーム練習の緊張感が良い塩梅に仕上がったところでしばしば水を差してしまうので、指導者的には頭の痛い問題だった。
「あの、サブトレーナー、そろそろ練習を始めませんか?」
「とっとと、危ない危ない。流されるところだった」
アルがおずおずと声をかけてきて、僕の意識を現実に引き戻す。
歯切れのよい訴えと、一本筋の通った立ち居振る舞いはついつい脱線しがちな空気を引き締めるのに一役買っていた。
チーフ――布施田トレーナーが僕達に見せていた指導教官としての顔を考えたら、彼が率いるチームもさぞストイックなメンツだろうと思っていたけれど、想像通りのキャラだったのは彼女くらいのものだ。
個性派揃いのピクシスの練習は、アルのように場を引き締めてくれる子がいないと、どうにも迷走して困る。
はてさて。
「それで、小椋トレーナー、今日はどんなメニュー?」
「いつもとはちょっと趣向を変えて――インターバル走の形式で、さらにちょっとアレンジを入れようか」
気を取り直し、説明用に作ったスライドショーをタブレット端末に映し出して、ウマ娘たちの眼の前に広げた。
インターバル走――速いペースで走るスピードランの区間と、ペースを落としてゆっくり走るジョグの区間を交互に繰り返すトレーニング方法だ。
もともとはヒトの中長距離走トレーニングメニューとして生み出されたもので、スピード、スタミナ、乳酸による筋肉疲労への耐性などなど、様々な能力を引き上げることができる。
「まず、スタートから最初の半周はスタートダッシュ。本番のレースとおんなじ様に、みんなの得意な脚質に合わせて位置取ってみて」
説明を加えながら、タブレット端末のページを送る。
ゆるいタッチをした独特のイラストで描かれたウマ娘のキャラクターが、僕の説明に合わせて楕円型をしたコースの模式図の上を駆け出す。
「スタートダッシュ区間を終えてからは
ひとしきり話し終えてからチームメンバーの面持ちを端から端まで眺めてみる。
こちらの意図を判ってくれていそうな者と、頭の上でクエスチョンマークを浮かべている者がだいたい半々くらいといったところ。
いざ口頭で説明してみると、自分でも直感的には分かりづらいな。
各人の手元にタブレットを回して、スライドに目を通してもらいながら説明を加えることにした。
「コレを君たちの体力が続く限りやる。実際のレースと同じように順位もつけるぞ。ウッドチップコースは全周1200m,これを二周で2400m、クラシックディスタンスだ。ソアラやデビュー前の二人には、ちょっと長すぎる距離だと思うけど……」
「スプリント――『ダッシュ』は最初と最後の600mでしょ? 間で一周流すなら息は入るし、アタシはいいよ」
「しかし……何セットもやるなら中長距離適性の私やノート先輩が有利な条件になりそうですが?」
面白そうじゃん、と喜色を浮かべながらタブレットを返してくるソアラ。
一方で、そんな彼女の方をちらりと見て、アルは疑問をこぼした。
実はこれ、事前の打ち合わせでチーフ――布施田トレーナーから突っ込まれていたポイントでもあった。
「そう言うと思って、ちゃんと対策は考えてある。ま、コレについては後のお楽しみ」
最初の1セットは、段取りの確認も兼ねて普通に走ってもらう。
このトレーニングの原案は専門書に載っていたメニューだが、僕なりにアレンジを加えている。
どこかしらで予期せぬ問題が起きるとしても、実際にやってみなければ分からなかった。
「どうせならもっと雰囲気を出してみましょ」
というエトワールのアイデアをその場で採用し、あみだくじで決めた枠番に従って、ウマ娘たちがスタートラインに並ぶ。
URAのレース実施規定における最少
内枠・外枠の有利不利もへったくれもなさそうだが、一応枠順としては内から順に1番・カミーノアルアンダ、2番・プリマエトワール、3番・クレディカイゼリン、4番・サーマルソアラ、5番・リーウェイノートという具合だった。
スターター用の黄旗を取り出しつつ、一同の横顔を端から眺めて声を張り上げる。
「まずは素の実力勝負だ。それぞれ自分の強みを出し尽くすつもりで走れ! ……よーい! ――スタート!!」
黄旗を振り下ろす。
鋭く
解き放たれた矢の飛翔を思わせる甲高い風切り音を残して、ウマ娘たちの姿は僕の眼前から掻き消えた。
◆
『スタート!』
号令。
天を差していた黄旗がつるべ落としに落ちていくのを、視界の端に見た。
バサリという風切り音を引き連れて、旗竿が地面と平行になるその直前。
鋭く息を吸い込む。
肩口から地面に体落としを加えるように上体を引き倒して、
「――――ッァ!」
声にならない気合いだけをスタートラインに置き去りにして。
重力に引かれ始めた体に先んじるように、足を前へと送り出す。
でも――、蹄鉄に込めた力が走り慣れないウッドチップに吸われて、加速が遅れる。
「っく!」
大丈夫。
これはレースじゃない。レース形式の、トレーニング。
最近はやっていなかったけど、競争相手を脇に置いた並走と変わらない。
そう念じて、焦りから先走ろうとする心をなだめながら、1、2、3、4、と矢継ぎ早に脚を繰り出す。
トップスピードに乗るまでに、肌感覚よりも数割分、余計に時間と
いつもより余計に足首のスナップを効かせながらでないと、
頭の片隅に浮かんだその予感が、また世界から置いてきぼりを食ってしまう自分の姿を、ありありと描き出していたから。
昂りそうなる呼吸を必死の思いで制御下において、腕を振り、足を後ろへと投げ出す。
「フッ――、フッ――、フッ――!」
蹴り出すごとに乾いた響きが響く。
ジャージの衣擦れに混じって聞こえる、自分自身の荒い息遣い。
そのすぐ背後では、ドクドクと脈打つ心音が、なまくらな足運びよりも格段に早いビートを刻んでいた。
ホームストレッチの終端を超えてコースはゆるりと右へ曲がり始める。
重心をインに倒し、アウト側の左足に意識を向けながら、爪先の蹄鉄に荷重を掛ける。
目に映るのは左手側に流れるラチと、コースを埋め尽くす一面の木片だけ。
「ッ――はッ、――はッ、――!」
第2コーナーを過ぎて、コースは徐々に上り勾配をとり始める。
どのくらいの勾配かは覚えていないけれど、ここの高低差はそれほど大きくないはずだった。
知識にあるその"はず"に従って、地表に蹄鉄を突き入れるようにして足を繰り出す。
けれど、足裏に感じるのは慣れ親しんだ大地の硬さじゃない。
空回る心をせせら笑うかのように、体重をかけたところからザラザラ崩れていく木片の折り重なりだった。
(――っ、走りにくい!)
スカウトのことは忘れてほしいと、トレーナーさんは言った。
今更になって、私を練習に誘った理由は、よくわからないけれど。
誰かから与えられた機会を無駄にすることなんて、私には許されない。
何も持たない私が、
他の皆より頭ひとつ先に抜け出して、
だから。
今度こそ。
先に行かなきゃ。
前に進まなくちゃ。
距離を、時間を――。
――
「ッ――はぁっ、――はぁっ、――!」
なのに。
ダートとも、もちろん芝とも違う異質な感触に足を取られて、体は思うように進まず、気持ちだけが空回る。
(このままじゃ――。全然、足りない!)
しゃにむに。がむしゃらに。
前へ、前へと息せき切って背中を推す焦燥感に突き動かされるまま、駆け続けていた、その時だった。
「そんなに急いで
「――っ!!」
耳元で唸りをあげる風切り音に割り込むように、突然頭の中に飛び込んできた
軽やかに、涼やかに。
大気と戯れるように紡がれたそれは、私――クレディカイゼリンの意識を掴み上げて、
次のストライドを踏み出すため肺に吸い込んだはずの空気は、驚きから、わっ、と叫び声に変わった。
ピクシスの最年長。エトの先輩。サーマルソアラ――さんが、私のすぐ隣にピタリと身体を寄せて、顔を覗き込んでいた。
「もう『ダッシュ』はおわり――ほら」
と、後方を示す指先を辿って振り仰いでみると、【⑥】と掲げられたハロン棒が遠ざかっていくのが見える。
事前に説明された位置よりも先まで、私は走り続けてしまっていたらしい。
具体的には、本来『ジョグ』に移るべき地点から、100mほど余計に長く。
「クレディっ、あんたって子は――! 説明聞いてた!?」
「あっ――、わ、私……ご、ごめんなさい!」
「あっははは! まあまあ、そう縮こまらずに。ついアツくなっちゃったんでしょ? よくあるよくある」
「先輩っ!」
四バ身ほど離れた後ろから、すごい顔でエトに睨めつけられた。
前に行かなきゃ、という意識が強すぎて、距離のことが完全に頭から吹き飛んでしまっていた。
遅まきながらやらかしに気づいて、顔から火が出る思いをしながら、最初に受けた説明の通り”軽く流す程度”まで速度を落とす。
「いっつも
「そんなキツく言わない。エトだって直前までスライド見て距離確認してたじゃん」
「なっ……! さ、最初の1セット目なんですから、仕方ないじゃないですか!」
「そうそう。初めてのメニューの1セット目。経験がないのはみんな同じ。だから、仕方ない――」
あっけらかんと。そんな形容がぴったり来る口ぶりでそう告げて、ソアラさんは走る速度をぐっと緩めた。
ヒトのジョギングとそう変わらない足取りは、ウマ娘の走りでいう
当然、五人の中での順位がズルズルと下がって、第3、第4コーナーを過ぎる頃には先輩二人――カミーノアルアンダさんとリーウェイノートさんよりも、さらに遅れた位置まで後退してしまう。
「ソアラ! 『ジョグ』区間では先頭からシンガリまで順番固定だぞ!」
「あぁー! ごめんサブトレーナーさん、忘れてた!」
「いやいやいやいや!?」
案の定、それを見咎めたトレーナーさんからメガホンで注意が飛ぶけれど、ソアラさんは涼しい顔でそれを受け流している。
前だけ見ていても、私の後ろにいるエトが目を白黒させているのは口ぶりからわかった。
「……絶対確信犯だ、あれ」
私が自分のやらかしを気に病まないようにと
申し訳なさが先行するけれど、それ以上にどうしても気持ちが落ち着かなかった。
するりと懐に踏み込んだかと思えば、つむじ風のように相手を翻弄して去っていく。
掴みどころのないそのふるまいは、私が苦手なタイプだと直感が告げる。
言動からは内に秘めた意図の知れないそのあり様は、ひとつ新しいことに踏み出すことにすら躊躇してしまう私の感覚からするとあまりにも異質で、だからこそ拒否感のほうが勝った。
「二周目の向こう正面までは同じペース、先頭が残り600m地点を過ぎたら、どこからでもいい! 『ダッシュ』だ!」
私達がスタート地点を通過するタイミングに合わせて、トレーナーさんが呼びかけてくる。
私にとって、先が見通せない未来はどうしようもなく恐ろしいもの。
語弊を恐れず言えば、『嫌いなもの』。
だから私をこんなウッドチップコースに連れ込んだあのヒトの印象も、どちらかと言えばマイナス寄りではあるけど。
今私がやるべきことを、課題を、はっきり示してくれる。
それ自体は、慣れない練習空間から感じる居心地悪さに比べれば、それほど悪いものじゃなかった。
「ふぅー……、ふぅー……」
長く、深く息を吸い込んで、吐く。
条件は2400m。並走で走ったことがある距離の倍近い。
けれど、こうして息を入れながら走るのなら普段のロードワークのほうがずっと長い。
全力で走って、少し息を整えて、また全力で一着を争う。
変則的だけど、練習形式だけど、レースはレース。
なら、私はゴールに向かってただ走るだけ。
(ベストを、勝利を、掴み取るだけ――!)
二周目の第1、第2コーナーを過ぎて、上り勾配に差し掛かる。
さっき見落としてしまっていた【⑥】のハロン棒を通り過ぎるのに合わせて、鋭く息を詰め、蹄鉄を強く踏みしめて加速する。
二周半走ってみて、ウッドチップの蹴り方もなんとなく掴めてきた。
まだまだ思い通りとは行かないけれど、さっき苦労した坂も、少しは効率よく駆け登れるようになっている、はず。
「たあぁぁぁ――――ッ!」
叩きつけるような足音を伴って、突風が迫りくる。
胸の中にかすかに芽生えていた自信は、それを受けて大きく揺らいだ。
右後ろから沸き起こった気合の声が、鋭いピッチとともにぐいと加速して距離を詰めてくる。
振り返る。
白い耳カバーに、鹿毛のシニヨン。
はっと息を呑んだその瞬間、エトは私の真横をすり抜けて先頭にたち、勢いのまま登り坂の頂点から始まる第3コーナーに突っ込んだ。
速い。
さらに強く足を蹴り出す。
体が更に加速する。足元が不慣れでも、勾配が平坦なら速度は乗りやすい。
だけど、距離が縮まらない。それどころか、エトの背中はじわりじわりと遠ざかっていく。
躍起になって矢継ぎ早に息を吸い込み、足を動かす。
そこまでして、やっと離されず追走できる。
「――っ、ぁあ―――!」
あの子の実力が確かなことは知っていた。
だって、私よりも先に本格化が来て、私よりも先にスカウトされたのだから。
それでも。
分かっていても、恐ろしくなる。
私は、一体いつの間に、こんなにも遅れを取ってしまったのだろう。
第4コーナーから直線入口にかけては下り坂。
体を引きずり降ろそうとする重力が私の足取りをつんのめらせ、それを埋め合わせようと無理なペースで加速したせいで、呼吸が乱れる。
足運びが崩れる。エトの背中がひと回り遠ざかる。
置いて行かれる。
それは駄目。
「待っ――て!」
伸ばした手は空を切る。
だけれどホームストレッチの道半ばで、エトは走り続けながら苦しそうに身をよじった。
祈りが通じた――はずはない。
スタミナを使い果たして一杯になった。レース戦術の知識が、頭の中に答えを囁いてくる。
私の方は――、まだ足は残ってる。まだ、戦える。
ぎり、と強く奥歯を噛み締め、だるさをまとい始めた両足に力を込め直した。その直後だった。
「お先にっ」
再び、ささやき声。
つむじ風を引き連れた軽やかな足取りで、ソアラさんはひと呼吸の間に私と、エトをまとめて抜き去った。
あっ、と声に出す
「おおおぉぉ――――っ!」
「やああぁぁ――――っ!」
「はぁぁぁぁ――――っ!」
三者三様、裂帛の気合が三つ巴にぶつかり合う先輩たちのデッドヒートを、私ははるか後方から眺めることしかできなかった。
ゼイゼイと息を切らせながら走るエトにようやくの思いで追いついた時、ゴールラインでトレーナーさんが黃旗を大きく振った。
「ゴール! 一着、カミーノアルアンダ!!」