信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-24.風向きの変わる時 / Something in the Air-2

 

 

『距離を詰めないと』

 

 ソアラから受け取った助言を頭の中でこねくり回し、色々とクレディへのアプローチを考えてみたがどれもしっくりこなかった。

 借りた、というより押し付けられた漫画に、もしかしたら何かヒントが隠されているのかと思って読み通してみたけれど、コレといって掴めるものはなかった。

 詩的で夢想的で独創的な語り口に、不思議と惹かれるものがあって自分用のをUmazonでポチったのだけど、それはさておき。

 ソアラからしたら、ただ単に逃亡劇の最中に折角の新刊を汚損したくなかったというだけなのかもしれなかった。

 

 そうこうしているうちに、翌日――練習日が訪れた。

 来ちゃったもんは仕方ない、と心を決めて(ひらきなおって)、僕はクレディに直接真意を問うてみることにした。

 彼女は僕の問いかけに少しだけ目を泳がせたのち、躊躇(ためら)う素振りもなく黙って頭を下げた。

 

「試験勉強に時間をあてたくて……、練習の機会を頂いたのに、申し訳ありません」

「そうは言うけどさぁ、アンタいつも成績順じゃ上の方から数えた方が早いじゃない」

「だからって、対策しない訳には行かないでしょう」

 

 脇からそんな注釈をつけてくるエトワールにそう言い返しながら、彼女はもう一度バカ丁寧に頭を下げて(60度の最敬礼を)よこした。

 

「ごめんごめん、怒ってるわけじゃないんだ。ただ、事情を聞きたかっただけで……」

 

 答えを聞いて申し訳無い気持ちで一杯になりながら、頭を上げてもらえるよう促す。

 ソアラからスケジュールを聞いた時に、もしや、と想定回答には入れていたが、実際本当にその通りだとは思わなかった。

 こうも深々と頭を下げられては、僕の立つ瀬が無くなってしまう。

 何せ、学生たちの試験期間の存在が頭からすっぽ抜けていたのはこちらの落ち度なのだ。

 学生の本分といえば勉強であるし、走りを一旦脇に置いて専念しようとする本人の意向を無視する訳にはいかない。

 それならそうと言ってくれればよかったのに、と残念に思わないではないが、相手は普段から引っ込み思案なクレディだ。

 なにせ指導し始めてから3週目にして、ようやく交換できたLANEだけが彼女と細く繋がる連絡線という有り様だった。お互いメッセージのやりとりさえ言葉足らずになってしまうのは、現状無理からぬことだった。

 

「流石にそのコミュ障じゃ、これから先が思いやられるわ……」

「うぅ……」

「まぁまぁ、それなら尚更時間がもったいないし、早速いつも通りの内容でやろう。――折角ウォームアップした身体が鈍っちゃうぞ?」

 

 エトワールの辛口な指摘には言い返せない様子で、クレディは尚も申し訳なさそうに耳を萎れさせていたけれど。

 僕がそう言い添えると、はっとした顔を挟んだのち眼差しに真剣さが戻る。

 ことレースのことになると切り替えがハッキリしているのは誇るべき彼女の美点だった。

 やる気のスイッチが独特な子だなぁ、とは思わなくもないが。

 

 ともあれ、まずは自主トレの成果を見せて貰おうか。

 週の真ん中水曜日の練習は、毎度ダート1400mのタイムトライアルから始めることにしていた。

 

「用意。――スタート!」

 

 号令とともに海老茶色のジャージがスタートラインを飛び出す。

 地点・速度ゼロから一完歩ごとにぐんぐん加速していく出足の速さは、相変わらず見ていて気持ちが良いくらいの軽やかさだ。

 走行姿勢の一挙手一投足に目を配りつつ区間ラップタイムを記録していくと、

 

「これは……!」

 

 明け方に通り雨が降った後ということもあり、天候は晴れながらダートコースのバ場はしっとり湿っている。

 良い時計が出やすい条件が整っているのは確かだが、それを差し引いてもこれまでのベストを上回るラップタイム。

 このままのペースなら……、と頭の中でそろばんを弾いて確信を得た僕は、反射的にメガホンを手に取った。

 終盤のコーナーを回り終えて最終直線へと走り込んできたクレディへ叫ぶ。

 

「スパートの最後まで脚を緩めるな! 全力で走り切れ!」

「――! ――やあぁぁぁぁッッ!」

 

 僕の声を受けた黒鹿毛の耳がピクリと動くのが見える。

 クレディは渾身の気合いとともに一段と脚を伸ばし、最後の200mを駆け抜けてゴールラインに飛び込んだ。

 

「ゴール! お疲れっ!」

 

 エトワールが大きく旗を掲げた瞬間をマーク。ストップウォッチが刻んだ記録を見て、思わず会心の手応えとともにパチリと指を弾く。

 クレディはさながら武道の残身のごとくフォームを崩さずにしばらく小走りを続けてから、ゆっくりと速度を落として立ち止まった。

 ゴールラインから先に50mほど離れたところで、エトワールがタオルを手渡して労っている。

 

「っ、はぁ……、はぁ……、トレーナーさん、タイムは?」

「3F(ハロン)上がり38.6、タイムは1分26秒8」

「ってことは!」

「自己ベスト更新、かな。ペースも上がりも,今までで一番良い走りだった! 練習の成果だね」

 

 大学ノートのページをペラペラ捲って確認する。これまでに付けた記録と自分の記憶との間にズレはなかった。

 確信を持ってそう伝えると、クレディは荒い息を整えながら、ほっと安堵したような表情を浮かべた。

 

「――ありがとうございます。これからも油断せず、精進します」

「あー、うん。君のことだからその心配はしてないけど、一応、自分の成果も軽視しないでやってくれよ?」

「そうそう。ちゃんと自信持って喜びなさいな。アタシよりも良いタイム叩き出しよってからに……」

「まま、そこは得意距離とバ場条件ってものがあるからね」

 

 うりうり、とエトワールがクレディの脇腹を小突いているのを(たしな)めながら、もう一度「本当に、いい走りだった」と念押すように告げる。

 そうして初めて、彼女は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら、薄く微笑んだ。

 

 大学ノートに今日のタイムを書き留める。

 積み重ねた記録は、紛れもなく彼女の実力が上向いてきていることを示していた。

 フォームを見ても、以前は力みすぎて粗削りだった走りが、次第に無駄なく洗練されてきているのが見て取れる。

 それもこれも、こちらが提案したメニューに妥協せず取り組んでくれている本人の努力あっての成長なのだけど。

 

 本人は、納得してないみたいなんだよなぁ……。

 

 慢心とは無縁なそのメンタリティには感心しつつも、一方で小さな成長の積み重ねを真正面から喜ぶ素振りが見られないのは、見ている側からしたら歯痒いばかりだ。

 彼女のように人一倍自己評価が低い子に、前向きな気付きを得てもらうには。

 やっぱり、いつもの奴しかないんだろう。

 

「それじゃあいつも通り、ここ一週間の練習や、さっきのトライアルを終えて思ったことを教えて欲しい」

 

 レース後のデブリーフィングは、僕達の練習の定型パターンになりつつあった。

 前週のトレーニングと、その時に見出した反省点を取り上げながら、今の走りに不足しているところを洗い出していく。

 裏を返せば、一週間前の彼女自身と比べて、今の彼女がどれだけ成長できのたかを再認識することにも繋がるはずだと信じて。

 

「先週の反省点は、スタートダッシュを終えてから最初のコーナリングに入るあたりの走り方だったけど――」

「そうですね……、今日はできるだけスタート直後のコース取りを外目に――」

「――質問。それだと内に入られたときキツくない?」

「コース条件や展開次第って、答えになるな。例えば――」

 

 先ほどビデオカメラで撮ったばかりの動画記録をタブレットの画面に映し出しながら、3人で額を突き合わせて互いに意見を出し合う。

 最初はぎこちなかったやりとりが(こな)れて来るにつれて、分かってきたことがいくつかある。

 中でも一番重要なのは、クレディは褒められると返って伸び悩む、ということだった。

 ここが良かった、あれが良かったと、具体的に挙げてみせると彼女はときに意固地なほど謙遜して、ともすれば自己否定に入ってしまう。

 あまつさえ、褒めたポイントに意識が割かれるせいか、走り全体がぎこちなくなってしまうのだ。

 

 ゆえに、褒めて伸ばすというよりも、課題を達成できたという事実を確認し、次の課題を示す。

 そっちの方が彼女の指導には向くのだと気付くまで、思い返すたびもったいないほど時間が掛かってしまった。

 

「――そんなところかな。……ほかに質問は?」

「ありません」

「よし、それじゃあ次は並走を見させてほしい。エトワール、今日もよろしく!」

 

 ともあれ、デブリーフィングを前向きな形で締めくくって、エトワールに水を向ける。彼女はラチの横棹に手を突いて、猫のように大きく伸びをしながら息巻いた。

 

「あいさー。試験勉強で(なま)った身体を(ほぐ)すとしましょう!」

「……エト、いつもそんなに机に向かってないじゃない?」

「ただ時間を掛ければいいってもんじゃないでしょ。質が大事なのよ」

「ウマトックを横目に見ながら?」

「じゃかぁしい」

 

 いかにも学生らしい応酬をしつつ、ウマ娘二人は出走前のストレッチを始めた。

 互いに足を向かい合わせ手を取りあって、互い違いに前屈をしている。

 エトワールがえいや、と力を込めて腕を引くと、身体が固めらしいクレディはうめき声とともに顔をしかめた。

 お返しとばかりに抜き打ちテストが始まる。

 

「――痛ッ、……それじゃあ今度の世界史の範囲から、……第3次十字軍を指揮した3人の王様の名前は?」

「あー、んた、アタシが暗記苦手なの知っていながら……えと、あーっと、フィリップ? フリードリヒ? ……あぁー、あと一人出ない!」

「獅子心王・リチャードⅠ世」

「なんで分かるの!?」

「イギリスのレース史じゃ有名なんだ。ウマ娘の賞金レースを史上初めて主催した王様ってことになってる」

「えぇ……何その覚え方……」

「トレーナーさん、博識ですね」

「いやいやごめん。大人気なかったね」

 

 なんでもかんでもレースに結びつけてしまうのはもはや職業病に近い。

 よせば良いのに、記録を整理する傍らつい横から口を出してしまった。

 僕が知識を持ち合わせているのは、ただ単に彼女たちよりも先に人生を始めたというアドバンテージがあるからに過ぎない。

 それにあぐらを掻いて衒学的(げんがくてき)に振る舞うのは、流石に空気が読めなさすぎるというものだ。反省して口を閉じる。

 

 さておき、クレディ本人がチーム練習はともかく同室との並走にはわりあい積極的なのは喜ばしいことだった。

 エトワールにとってみれば、わざわざ自主トレの時間まで割いて付き合ってくれている形になるけれど。

 その動機がただ単に同室の()()()だけではないことは二人の応酬を聞けば分かる。

 僕やピクシスのウマ娘たちを相手にしている時分とは違い、クレディの言葉はほんのり和やかで、打ち解けた声色に聞こえる。

 それを聞きながら、僕は勝手に、少しだけほっと胸をなでおろしていた。

 

「小椋トレーナー、準備いいよ!」

「計測、お願いします」

「おっけー、それじゃ、――用意! スタート!」

 

 準備運動を終えてスタートラインに並んだ二人の横に立ち、黄旗を勢いよく振り下ろす。

 黒鹿毛に黄色リボンと、鹿毛に白い耳カバー(メンコ)のウマ娘が、仲良く揃って、しかし先を争うように飛び出していく。

 

 素早く初期加速を立ち上げて、ハナを獲ったのは案の定クレディだった。

 練習を重ねるごとに、体軸のブレが少なくなりフォームが洗練され、効率的な走りへと磨かれていくのが遠目からも見て取れる。

 ただし今回はトライアルとは違って対戦相手との駆け引きが介在する並走だから、先ほどよりもペースは抑えめだった。

 一方、クレディの後ろ一バ身ほど離れた位置にピッタリ付いたエトワールには、こと本格化に関して一日の長がある。

 彼女は適正こそ芝だが、ピクシスでは負荷トレーニングの一環でダート走もそれなりにメニューに加えていた。

 その経験が生きているのだろう。クレディの陰――スリップストリームの内に潜って空気抵抗を避けつつ、砂を被らない絶妙な距離感を保っている。

 

「そうだぞ二人とも。その調子だ……」

 

 手元のストップウォッチでラップタイムを刻みながら、向こう正面を流れるように駆け抜けて行くウマ娘二人の姿を追い続ける。

 

 エトワールが競りかけて、クレディが加速する。

 

 クレディがペースを緩めると、エトワールがすかさずハナを狙う。

 

 双方の駆け引きは地力(適正)能力(場数)とを掛け合わせて伯仲(イーブン)といったところ。

 そのうえで、お互いに手の内をよく知っている者同士、相手よりも一歩速く、一歩先んじようとする戦意のせめぎ合いが滲むような走りだった。

 

 願わくば。

 二人の走りが、折れず、(こぼ)れず、長く共にあってほしい。

 そう期待せずには居られない。

 トゥインクルシリーズの高みを目指すレースウマ娘同士、という共通点はもちろんあるが。

 それ以前に、たった一度きりの学生時代をともに過ごす同期にほかならないのだから。

 持ちつ持たれつで支え会える相手がいるということは、きっと、あの子(クレディ)の将来のためにも――、 

 

「――?」

 

 そんなことを考えながら、二人の走りを目で追っていたその時。

 3コーナーの中程に差し掛かったクレディの足運びを見て、微かな違和感が頭をよぎった。

 前回の選抜レース――右足の落鉄に印象は似ているが、それよりもずっと曖昧で、根拠らしい根拠を見いだせない。

 その正体が何なのか、僕の頭の中ではっきり決着が付かずにいるうちに、ウマ娘二人はコーナーを回りきって最終直線へと駆け込んできた。

 

 残り2F(ハロン)。タイムを記録。

 エトワールが加速して勝負をかけた。

 クレディも先頭を譲るまいと粘るが、こころなしか最後の伸びが渋い。

 

 残り1F(ハロン)。タイムを記録。

 ついにエトワールがクレディを追い抜き先頭が入れ替わる。

 一バ身半ほど離れた間隔を維持したままゴールラインを駆け抜けて、それがそのまま二人の着差になった。

 

「……うっへぇー、ダートきっつ……。ふくらはぎにクるわぁー」

「……はっ、……はっ、……はっ、……速いね、エト」

「へいへい……。まぁ、芝専の未出走ウマ娘の走りなら、ざっとこんなモンでしょ」

 

 息を整えつつ、ゆったりとした足取りで帰って来るクレディの歩様を見る。

 一歩一歩、歩みを進める細身の体躯。その体軸が、いつもよりほんの僅かに傾いでいるような、そんな気がした。

 

跛行(はこう)、右足――?)

 

 確信は持てない。

 だが第六感の囁きを無視できるほどの経験も、根拠もなかった。

 

「お疲れ様。――タイムは一旦おいといて、クレディ、ちょっといい?」

 

 抑えようとは思ったが、掛けた声には緊張が滲み出してしまう。

 黒鹿毛の笹葉耳がぴくりと反応して、彼女は少しだけ目を見開きながらこちらを見上げた。

 

 訝しげな視線が追いかけてくるのを感じながら、ダートコースの地面に片膝をついてしゃがみ込み、足回りを慎重に観察してみる。

 見たところ関節部の赤らみも腫れもないが、それで安心する訳にはいかない。

 得てして目に見える症状が出たときには炎症が広がった後、ということも多いからだ。

 そうなるより先、前兆の段階で異常を見つけて拾い上げるのが、トレーナーとしての僕の責務だった。

 

「足回りが痛んだりしないかい? 痛みじゃなくても、突っかかりとか熱感とかは?」

「……特に、ありませんけど?」

「アンタねぇ、こんなことろで痩せ我慢してもしょうがないでしょうに」

「ほ、本当に、大丈夫です!」

 

 横からエトワールにせっ突かれてなお、クレディは本当に身に覚えが無さそうな反応をした。

 言うが早いか、その場でトントンと軽くジャンプしたり、膝を屈伸させてみたりする。

 関節の可動域も荷重の掛け方にも、練習を始める前とそう変わった様子はない。

 一応確認したが、蹄鉄シューズの方にも特に問題はなかった。

 本人の訴えと、自分の眼で得た情報、それと今後の練習スケジュールやレースまでの展望なんかを加えて、頭の中で天秤にかける。

 

「……自主練メニューをちょっと変えておこう。念のため」

 

 結局、僕は安全策を取ることに決めた。

 策が決まれば、頭の中では立体パズルがパチパチと解かれるように情報が組み合わされ、取捨選択されていく。

 当座は膝踵へかかる負荷が少ない上半身のウエイトトレーニングと、プールトレーニングを主体にしたメニューが良いだろう。

 もともと予定していたメニューは後ろ倒しにして、本番に間に合わせられるように再構成する必要がある。

 幸い、クレディ本人の実力の伸びは僕の予想よりも上振れていて、時間的に余裕があった。

 ただ――、

 

「それと、いつものロードワークは控えてもらったほうがいいかな。関節の負担になるから」

 

 この子の場合はもうひとつだけ、予防線を張っておくべきだろう。

 そう結論付けて、改めてクレディに面と向き合って告げると、彼女は勢いよく耳を後ろに絞って語気を荒らげた。

 

「そんな! 私は走れます。不調なんて全くありません!」

「……確かに、君自身の感覚はそうなんだろう。言うて僕の判断にも、明確な根拠はない」

「なら……!」

「根拠はないけど、気にしなくて大丈夫と太鼓判を押せるほどじゃない」

 

 そう言って、ノートに記した記録を見せる。

 時計は悪くない。先週の並走よりも上向いている。

 だがラスト1ハロンのラップがラストひとつ前のそれと比べやや延び気味だ。

 加えて、レース後の歩様にぎこちなさがあると来たら、見過ごすわけにはいかない。

 

「小椋トレーナー、別に記録を疑うワケじゃないけど……本当にそこまで気にしなきゃだめ? タイムトライアルの後だし、疲れが出ただけじゃ……?」

 

 エトワールは少しだけ逡巡するような素振りをみせつつも、クレディの側に立って首を傾げた。

 その指摘は何ら飛躍のないものだから、僕としても頷くしかない。

 

「そうだね。明日になれば元通りになってる、かもしれない。だけど、――」

「大丈夫、ですから……」

 

 黄玉色の瞳が不安そうに揺れながら、翻意を求めるようにこちらの顔を見上げてくる。

 それでも心を鬼にして、僕は首を横に振った。

 

「レース直前期に怪我をするわけにはいかないだろう。とりあえず、一週間後のトライアルの時までは控えておいてくれないか?」

「……分かりました」

 

 僕が許せる最大限の譲歩を伝えると、クレディは耳を伏せたまま俯いて、小さくため息を吐いた。

 

「……今の内容を、デブリーフィングに替えさせてほしい。二人とも、今日は早めに上がってゆっくり脚を休めてくれ。アイシングとストレッチは忘れずにね」

 

 なんとかそう絞り出し、少々早めの時間帯ではあるが、練習を切り上げることにした。

 後味の悪い終わり方になってしまったが、この空気の中、お互い冷静になって走りの善し悪しを論ずるのは難しい。

 酷使した脚の筋肉と同じように、レースを想うあまりに昂った気持ちを落ち着けるにはクールタイムが必要なはずだった。

 

「はい。……ご指導、ありがとうございました。お先に失礼します」

「お疲れ様でした。また明日ね、トレーナー」

「うん。お疲れ様」

 

 揃って一礼する二人に僕も頭を下げ返す。

 クレディは口では了承の意を返したものの、笹葉耳はずっと伏せったままでいて、彼女が本心では納得していないことを雄弁に語っていた。

 練習を終えて、寮へと帰路につくその時まで。ずっと。

 

 

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