信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
練習から3日後。
選抜レースのエントリーリストが公示された。
ここから抽選で1レースあたり18人立ての枠にメンバーが振り分けられ、出走表が決まる。
次のレースでクレディのライバルになる相手は、リストの中でもダート1400mにエントリーした子たちのうちの誰かということになる。
そこまで絞られてしまえばしめたもの。ピクシスのチーム練習を終えて時間が空いた僕は、早速ライバル対策のため情報収集に入った。
トレセン学園のデータベースを漁って、ウマ娘たちの情報を片っ端から検索していく。
体力測定のデータに、体育の学科成績、課外活動への参加実績なんかは、ある程度トレーナーが参照できる公開情報になっている。
クレディの
リストに登録しているウマ娘の大半は、ついこの間の4月の選抜レースにも出走していた子たちだからだ。
「この
トレセンのウマ娘たちにとって、選抜レースとはいわば早抜け式の第一関門だ。
早くに好成績を収めてトレーナーに見初められたので出走は一回こっきりという
ごくごく稀に、他のライバルたちの追随を許さない圧倒的な能力を示しながらも、相性の合わないトレーナーからのスカウトを蹴って選抜レースを走り続けるウマ娘も居るとは聞くが……まあ、そんなのはごく僅かな例外だ。
「うわ……この
前回の出走表と今回のエントリーリストとを比べてみると、見かけなくなった名前もあれば、新しい名前もある。
年度が切り替わって6月の選抜レース出走者には、4月に入学・編入したばかりの新入生たちの名前もチラホラ認められた。
ウマ娘の本格化の時期が年齢・学年で見て横並びというわけではないことは頭で理解こそしているが、つい数ヶ月前までランドセルを背負っていたような年頃の
若者の人間離れ――もとよりヒトではないが――、ウマ娘という生き物の神秘である。
真面目な話をすると、そんな大型新人たちに関して言えば、走りの潜在能力を推し量るための過去データが上級生のそれと比べて手薄になる。
学科の授業や体力測定のスケジュールが近々あるようなら、予定を合わせて張り込みに行かねばなるまい。そう行動計画を立てながら、リストの名前に赤ペンでチェックを付けた。
「……こんなところか。あとは本番の出走表が出るまでに、下準備をどこまでするか……」
モニターを見つめ続けて少し乾き始めた両目を閉じ、
椅子の背もたれに体重を預けつつ、頭に描き出すのは、もちろんクレディカイゼリンの走りだ。
居合のような切れ味をもつ出足の速さは特筆すべきものだし、以前からの課題だった上り坂や道悪でも行き足を保てるだけのパワーも養われつつある。
熱くなるとペースが乱れやすいのが玉に瑕だが、これにテコ入れするには少々時間が掛かりそうだった。
「時計はいい。……あとはその場の展開と……」
逃げウマ娘の良いところは、手ひどい出遅れさえしなければ、ライバルから受ける影響の少ないまま、自分の持ち味を活かしたレースをしやすいところだ。
前走が12人立ての7着で、それほど
マークが薄い中、得意のスタートダッシュでハナを勝ち取り、順当に伸ばしたスピード、スタミナ、パワーを武器に、理想とする展開をゴールの瞬間まで相手に押し付ける。
妄想と片付けるにはずっと強く
フロックっぽい評価をされがちな勝ち方ではあるが、前評判通りの固い決着も、予想外の番狂わせもレースには付き物だろう。
一着は一着。それ以上でも以下でもない。
されど、選抜レースにおけるその価値は、もしかしたらそんじょそこらの重賞勝ちよりも重いかもしれない。
何せ、ウマ娘のキャリアさえ左右しうる、担当トレーナーと出会う場なのだから――。
「……」
そこまで思い至って、目を開けてぼんやりと天井を眺める。
選抜レースで結果を出す。
トレーナーのスカウトを受け、担当契約を結ぶ。
そして二人三脚でトゥインクルシリーズに出走する。
トレセンに所属するウマ娘である以上、それが彼女の望みであることは疑いようがない。
トレーナーにとって、ウマ娘の走りの巧拙を見極める根拠がレースの順位だけ、なんてことはもちろんないが、大きなヒントになることは言わずもがなだ。
クレディの走りは、贔屓目に見ても未出走ウマ娘の中では上位のもので、彼女がベストの走りをすれば、きっと中央トレーナー陣の耳目を集めるはずだった。
勝てばきっとスカウトも引く手あまたで、そのほとんどが僕よりも確かな経験と知識を持っていて。
きっと彼女をより
彼女の瞳に映る景色は、きっと前回の選抜レースの後とは全く違った光景になるはずだ。
彼女が己の手で切り開いた未来の真ん中に、駆け出しも良いところのひよっこトレーナーが居る。
――なんて、ひどく手前勝手で虫の良い夢想に思えてくる。
それを
ひょっとすると、彼女の足を案じて掛けたつもりの言葉は、実際のところ、そんな"打算"に根拠を持っていたのではないか。
「……違う」
脳裏にチラついた思考を追い散らすように頭を振る。
そんなはずはない。そう自分に言い聞かせずには居られなかった。
――レーン。
悶々とした思考に頭が囚われそうになったその時、机の上のスマホが通知を吐き出した。
取り上げてみると、プリマエトワールからのLANEが入っている。
《トレーナー、クレディそっちいますか?》
《あの子スマホ置いて出ちゃって、渡しものがあるんだけどどこ行ったかわかんなくてさ》
《クラスの子にもフジさんにもピクシスにも聞いたんだけど》
《みんな知らないって》
文言の気安さはいつもどおりながら、彼女には珍しく挨拶もすっ飛ばして連投されるメッセージの列。
無機質な汎用フォントの裏側に、そこはかとなく焦りの色が浮かんでいるような気がして、即座に返信した。
(ここにはいないよ。そもそも今日は会ってないな)
《マジか。何処に行ったんだか……》
(今日土曜日じゃないか。日用品の買い出しとか、行ってるんじゃない?)
打ち込みつつ、そういえばあの
指導こそ受けいれてくれるようにはなったが、プライベートを明かして貰えるほどの気の置けない関係にはまだまだ程遠い。
とはいえ、レースウマ娘である以前に年頃の女の子なわけだし、色々と入り用なものはあるだろう。
そう、我ながら理解度の怪しい女学生の生態を頭に思い浮かべながら返信をひり出したのだが……、《ないわー》と即座に否定のコメントが返ってきた。
《流石にクレディでもシューズで買い物はないわー》
(シューズって、革靴?)
《蹄鉄だって。下駄箱に無いのよ》
《選抜レース近いし、どっかで追加トレーニングとかしてるのかと思ったけど、トレーナーの指示じゃないの?》
「違うねぇ!」
チャットの文章に仕立て上げるよりも先に口から声が出た。
ヒト用の金属スパイクシューズを考えれば分かると思うが、蹄鉄シューズもまた床を傷つけるからという理由で屋内では着用禁止だ。
学内の動線を考えれば、ジムで汗を流すにしてもプールで泳ぐにしても、あえて履いて寮を出る理由はない。
日付は……、確認するまでもなく、負荷を控えるようにと約束したはずの期日には至っていない。
考えれば考えるほど、導き出される答えは悪い方向にばかり転がって行って、僕は頭を抱えた。
(君はいま何処に?)
《寮の部屋だけど》
(そのまま部屋に居て、クレディが帰って来るようなら連絡してほしい)
《探しに出るの? 私もいく!》
(入れ違いになるとまずいから)
(僕じゃあの子が戻ってきても分からない。僕らはキミたちの寮に入れないし)
(見つけたらこっちから連絡する)
矢継ぎ早にメッセージを流し込んで席を立つ。
やれやれ、とため息とともに首筋を揉みしだきながら、ポケットに鍵やら財布やらを詰め込んで、カバンを肩にかける。
少なくとも1週間は足に負荷をかけないようにと、そう言い含めたはずだったのだけれど……。
専用のトレーニングメニューを組むにあたって、普段のクレディが自主トレで掛ける身体への負担は当然把握する必要があった。
だから、彼女のロードワークの内容も、トレーニングを見始めた時期に一度確認済みだった。
有酸素運動を効率的に行えるような距離感で、合間に最大速度を出せる直線区間や、コーナリングの練習にもなるゆるいカーブ、地形の起伏を利用した高低差などがバランスよく織り込まれているその
懇意にしてくれている先輩や、クラスメイトたちから勧められたものを彼女なりに切り貼りして
「指示の出し方、あれじゃ不味かったなぁ……」
だが、今回ばかりは彼女の生真面目さが悪い方向に働いている。
つい先日の並走の後、彼女の右足に見えた
彼女の性分だと、自分の身体の不調をどう認識して、どんな風に向き合おうとするだろうか?
……確か、ロードワークの途中には、彼女が言うところの
そんな考えを頭の中で巡らせながらトレーナー室を出ようとして、一旦足を止める。
一旦室内に踵を返し、文書ファイルの中から一枚の紙片を選び出し、カバンに詰め込んでから改めて飛び出した。
「杞憂であれば、いいんだけど……一応ね」
言葉にした独白は、思っていたよりもだいぶ重たい音色で響いた。
もし予想が外れたとして、僕の就寝時間が少し後ろにずれるくらいのものだ。
掻いた汗が徒労に終わってくれるのならば、それに越したことはない。
それを嫌と思う気持ちはつゆほども浮かばない。
この程度の労苦なんて、きっと専属担当を持てばじき日常風景になるはずだから。
選抜レース前の、今日この瞬間に限って言えば、彼女にとってのトレーナーは僕以外にいないのだから。
《学園の中をもう少し探してみる。もう何人か声かけてみるから!》
(分かった。頼むよ。でも君はそのまま居て)
(迷子には、帰る場所が必要だから)
焦るエトワールを宥めようと冗談めかしたメッセージも、タイムラインを上滑りして落ちて行くような気がして、送った後になって後悔がよぎった。
歩き出した身体は、ひとりでに早歩きになり、だんだん小走りに加速していく。
人っ子一人いない廊下に、スニーカーの靴音が甲高くこだまする。