信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
委員の仕事を片付けて寮に戻ってきたときには、18時を回っていた。
つい最近まで中間試験の期間だったこともあって、原稿の締め切りまでの日数にはまだ少し余裕があったのだけど、結局一息に済ませてしまった。
本当は、ピクシスのチーム練習に遅れて飛び入りすることもできたけれど、正直なところ、気が進まなかった。
ピクシスの練習に厄介になるにつれて、私は先輩たちとエトに正面から向き合えなくなってしまっていた。
私自身を暖かく庇護してくれるその
気遣われるたび、
そのたびに、胸の奥がしん、と寒くなる。
「――ただいま」
応える声はない。
ふう、と大きな息を吐きながら、ベッドに倒れ込む。
制服にシワが寄るから、と良識が小言を言ってくるけれど、かまわずゴロリと掛け布団の上で転がる。
『それだけトレーナーさんのために怒れるンなら、少なくとも悪い人だとは思ってないっしょ?』
「――当たり前じゃないですか」
頭の中に蘇ったナーガさんの言葉に、今更言い返す。
言い返してから、自己嫌悪に顔を覆う。
それを前と向かって言えないから、私はいつまで立っても独りなのだと。
「はぁ……」
何度目か分からないため息を吐いて、目を
――選抜レースという『機会』を手放した事で、私はかけがえのない時間を失った。
決して長いとは言えない競争ウマ娘としてのキャリアの、そのうちたった数ヶ月。
されど先んじて『機会』を掴んだ子たちと比べたときに、明らかなハンデになる数ヶ月。
私が出遅れた分だけ『機会』は遠くに行き去って、手を伸ばさなければならない距離も大きくなる。
その事実と向き合って以来、胸の奥底でチリチリと照りつけるように私を苛立たせるこの感情のことを、きっと、焦燥というのだろう。
1回目の選抜レースの一件のとき、エトは私がそれを感じるはずだと想定してくれていたみたいだけれど。
私がそれに気づいた時には、もう遅すぎた。
『キミの選抜レースのことだけど、やりようによってはまだチャンスがあるかもしれない』
だからこそ、あの日――エトが怪我をして、私が病院に遅れて駆け込んだあの夕方に、トレーナーさんから掛けられた言葉は、私にとって天恵に等しいものだった。
ありがたくて、一も二もなくうなずいた。
でも……時間が経つごとにそれと同じくらい、居心地の悪さも湧き上がってきた。
中央のトレーナーになったばかりで忙しいはずなのに、自分の手間が増えることも厭わず、私のために動いてくれるというのだ。
私との出会いも、再会も、すべて偶然の巡り合わせでしかないというのに。
そんなぬるま湯のような温情に頭の先まで漬かったまま、私は今の今まで彼に甘え続けている。
『試験勉強に時間を宛てたい』なんていうのも、
「……本当に、
最初に会った時が
トレーナーさんの立ち居振る舞いに長く接した今となっては、その印象は正反対に覆っている。
私とエトは、実際のところ今でも薄っすら仲違いしたままでいて。
そんな
投げかけられる言葉は柔らかく、それでいて過ちにはしっかりと釘を刺す厳しさもあって。
私が一番よく知っている大人――"先生"の言葉と、口調も声質も全く違うのに、趣きだけはよく似ていた。
だからきっと、誠実な人だ。
真面目で、融通が利かなさそうなくらい、一本筋の通った、しっかりとした大人。
半端者の私なんかが、そんな彼に、こんなふうに“報いてもらえる”ことが、正しいことだとは思えない。
あまつさえ――その誠実さが、私のせいで傷付くようなことがあれば……。
そこまで思い至った時、そう遠くない過去の光景が蘇った。
西日に照らされながら対峙する、二人のトレーナー。
糾弾と反駁。
二人の大人の向こう側には、自分と同じくゼッケンを付けたウマ娘が居て。
遠間から冷たい瞳でこちらを見つめている。
「――ごめんなさい」
ツンと鼻の奥が塩辛くなって、涙が滲んで、言葉が漏れた。
一体誰に向けた、何に対する謝罪なのか、口にした自分でも分からなかった。
薄暗い部屋の中、ベッドの上からのっそりと身体を起こす。
一昨日は休養日。
昨日のメニューは、トレーナーさんから渡された指示書きの通り、ジムで上半身の筋トレと、プールで心肺機能の引き上げ。
どれも走りを高めるのに必要な行程だと頭では分かっていたけれど、それは気休めにしかならなくて。
『とりあえず、一週間後のトライアルの時までは控えておいてくれないか?』
頭の中で木霊した言葉も、結局、渇いた心を押し留めることはできなかった。
制服を脱いでハンガーにかけ、体操服とジャージに着替えて寮室を出る。
日没を迎えて灯りだした街頭の下でルーチンの準備運動を済ませて、いつものコースに走り出す。
通り雨が降った後だからか、踏み出した脚がかき分ける空気は重たく、湿っていた。
「――はっ、――はっ、――はっ」
走る。
走る。
駆ける。
駆ける。
心臓の鼓動が高まるごとに、余計なことを考える余裕が削ぎ落とされていく。
帰宅ラッシュ
目に入るもの、肌身に気配を感じるもの全てに注意を向けて。
流れに逆らわないように、雑踏を泳ぐ人々の邪魔をしないように。
頭の中で補助線をいくつも交差させながら、細心の注意を胸に走り抜ける。
「――はっ、――はっ、――はっ、――んんっ……」
大通りを出て、河川敷へ出る。人通りが減って、少しだけ自分の身体へ意識を割ける余裕ができた頃。
接地した右膝に、鈍い痛みを感じた。
タイムトライアルの日、トレーナーさんに指摘された時分はなんにも異常無かったはずなのに。
翌日には、日常生活で動かす時の少しの違和感程度だったけれど、それは確かにあって。
今日は午前中のうちから、跳んだり
「……
息継ぎの合間、切れ切れの声で問いかけても、答えてくれるものなどいない。
尋ねようにも連絡手段さえ無い。
間抜けなことに、ジャージのポケットが軽いのに気がついたのは走り出した後になってからだった。
多分、制服から着替えたとき、スマホを寮室に置き忘れてきてしまったのだろう。
切り上げて学園へ戻ろうにも、距離的にはほぼほぼ予定コースの折り返し地点近くまで既に走っていた。
いつもよりもゆっくり目のペースなら、大丈夫か、と。
そんな根拠のない理屈で自分を納得させて、そのまま走り続ける。
気を紛らわせるために視線を横に振ってみると、左手遠くの方に東京レース場が見えた。
見えた、とはいっても大きく前に突き出した
今日は土曜日。未勝利戦や条件戦がいくつも組まれている日だ。
迫る宵闇を押しのけるように、建物全体が人工光によって煌々と照らし出され、浮かび上がっている。
レースそのものはとっくに終わって、今はウイニングライブが行われている時間帯だった。
〘走れ 走れ 誰より速く〙
〘いつか笑える 最高だけ目指して――〙
風に乗ってほんの幽かに届く『Make debut!』のフレーズを、つられるままに口ずさむ。
このまま走り続けていれば。
いつかは私にも、心から笑える日が来るのかな。
なんて、夢見半分に思い描けば、ほんの少しだけ膝の痛みも紛れるような気がしたけれど。
それは自分にとって都合の良すぎる
河川敷を離れて北へ向かう。
東京レース場から届く輝きも歌声も、木の葉のさざめきの中にすっかり沈んで分からなくなったころ、いつもの神社にたどり着いた。
まっすぐに伸びた石段の先にある宵空は、のっぺりと敷き詰められた雲によって隠されている。
星明かりのひとつも漏れて来やしない。
膝の調子は万全じゃないから、少しためらいが先走る。
けれど、ただ立っているだけなら動作には影響しないくらいの痛みだった。
「……大丈夫。行ける――」
動かせば痛いけれども、きっと成長痛か何かでしょう。
そう自分を納得させて、まずは10段。
大丈夫な方の左足から一歩ずつ、様子を見ながら探り探り登っていく。
右足に荷重をかけるとたしかに痛みはあるけれど、このくらいなら許容範囲。
20段。
ペースを上げる。呼吸が乱れる。
右膝を少しかばいながら登ると、左膝からふくらはぎにかけて、だんだん重たくなっていく。
石段のてっぺんに見える鳥居が、いつもよりやけに遠く感じた。
30段。
「――っく!」
重だるくなった左足を休めるつもりで右足に力を込めると、ビンッ、という神経を爪弾くような痛みが走り、反射的に息がつまった。
今更になってトレーナーさんの言葉が頭をよぎるけど、たたらを踏んで躓きかけた両の足を揃えて、呼吸をもう一度整える。
選抜レースの舞台は学園のダートコース。
東京競馬場とほぼ同じ広さ、起伏をもつコースの1400m左回り。
最後の直線には坂がある。
だから、筋肉疲労のピークで高低差を登り切るパワーと根性を、絶対に身につける必要があった。
こんなところで、立ち止まっていられるはずがない。
再び左から一歩踏み出して、それまでよりもハイペースで足を繰り出す。
40段。
「っあ――、はっ……、いっーー」
蹄鉄を石段に打ち付けられるたび、大地に反発した衝撃がつま先からくるぶし、膝まで駆け上ってくる。
ドクンドクンと耳奥で鼓動がうなり、背中にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
途中だけど、切り上げて学園まで戻ろうか、と後退に傾き始めた気持ちをどやしつけて、漏れる嗚咽を強引に呑み下す。
登りきってしまえば、後に続くのは遊歩道の緩やかな下り道。きっと足にかかる負担も少ないはず。
一歩ごとに痛みを増していく膝を、萎えていく気持ちを、そんな理屈で叱咤しながら、力任せに足を動かす。
50段。
「ふぅ……、はぁ……」
普段使わない筋肉に無理をさせすぎたのか、右膝がかたかたと笑いはじめて、思っていたよりも外側に着地する。
そこから駆け上がる痛みがズキン、ズキンと脈打つほどに強まった頃、長かった石段もようやく終わりに近づいた。
階段の最終段の向こう側、まっすぐ奥に伸びる石畳と拝殿を見通して、ほっと胸をなでおろす。
一歩足を踏み出したその時、キイ、と金属同士が擦れ合うような音が耳に入った。
何の音だろう、と気を取られた瞬間。
踏み出した左足が、抵抗を失った。
「ひゅっ――」
鋭く息を呑む。
底の見えないプールに投げ落とされたかのように、お腹の底がひやりと冷たくなる。
慌てて右足を踏み直そうとしたけれど、膝の軋んだ痛みはそれを許さない。
湿った落ち葉の上で、蹄鉄が滑ったのだと気づいた時にはもう遅かった。
落ちる。
――だめ、いやだ。
不可視の重力の手は、そんな私の気持ちなんかお構いなしに笑い飛ばし、背中を掴んで、引きずり降ろす。
前ではなく、後ろへ。
頼れるもの全てを学園に置いて来た私の背後には、もちろん支えになるものなんて何も無い。
それでも本能は苦し紛れに石段の上に手を差し伸べて――、
「――危ない!」
私の手を、石段の上から伸ばされた手が捕まえた。
後ろに倒れかけた身体が強く引き戻され、今度こそ、左足が石段を捉え直すのが間に合った。
私の右足は相変わらず言うことを聞かなかったけれど、手首を掴みあげる手は力強く、一息に残りの三段を引っ張り上げた。
拝殿に続く石畳の上で、不格好に身を投げ出してしまう。
けれど、結局私が倒れ込んだのは後ろではなく前の方向だった。
「まったく……肝が冷えたよ。大丈夫かい、クレディ?」
「トレーナー……さん?」
私の手を取ったそのヒト――小椋トレーナーは、スラックスが砂埃に汚れるのも構わず私の隣にしゃがみ込んで、大きく安堵のため息を吐いた。