信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-28.深淵に触れる / What Remains Owed -1

 時速60km以上で疾駆するウマ娘の足周りは、ヒトとは比べ物にならないほど強固だ。

 

 筋肉という強靭なバネと、それによって駆動される大腿骨、脛骨、腓骨といった下肢の骨格。

 その他にも腱や靭帯といった支持組織が発達し、時として体重の5倍に及ぶ接地衝撃をいなして推進力に変換する。

 先に挙げた骨は、いずれもちょうど両端が膨れた鉄アレイ(ダンベル)形をしていて、成長期には両端にある骨端軟骨が増殖し、カルシウムを原料にレンガ積みの壁を積み上げていくようにして徐々に伸びていく。

 この骨端軟骨に圧迫負荷がかかりすぎるとどうなるか。

 セメントが固まっていないレンガ積みに不用意に衝撃を加えた時のことを想像してみれば、あえて結論を述べるまでもない。

 

 クレディの身に起きたのは、おそらく脛骨骨端炎。

 急速に発達する筋肉や骨の発達に軟骨組織の充実が追いつかない、本格化を迎えたばかりのウマ娘に多い故障だ。

 

「――今度こそ、安静にしておいてくれよ?」

「……はい」

 

 応急処置を終えて念押すように告げると、クレディはしゅんとした面持ちで小さく頷いた。

 ジャージズボンの右足だけを太もも上まで(まく)り上げ、膝裏に保冷バッグを充てがって包帯で巻いてある。

 なんとか歩けるくらいであれば一応軽症の部類だと思うけれど、油断は禁物。

 休日夜間だと込み入った検査はできないだろうし、週明け月曜日にお休みをもらって病院を受診するしかあるまい。正確な診断と治療期間はそこで決まるはずだ。

 そう説明すると、クレディはちらりとこちらを見上げ、上目遣いに尋ねてきた。

 

「なぜ――」

「ん?」

「なぜ、私がここに居るって、分かったんですか?」

「……分かった上で、来たわけじゃない。君を見つけられたのは、ほとんど偶然だった」

 

 蹄鉄シューズがなくなっていることを見(とが)めたエトワールがほうぼうに聞いて回ったところ、クレディが寮を出ていく様子をたまたま見ていた寮生がいた。

 ロードワークのルートと、クレディが一周に掛けている時間は僕もおおまかに知っていた。

 彼女が寮を出てからの時間経過を考えれば、その途上にいるであろうことは絞り込めた。

 

「君が走るはずのルートを、逆からなぞってくるくらいしか、思いつかなくてね」

 

 足の不調を気して、途中で切り上げて寮に帰ってくるならば、それはそれでよし。

 無理して走り続けてていたとしても、途中で拾って帰れれば御の字。

 あれこれ考えてみたけれど、結局それ以外の手立てにはたどり着かずじまいだった。

 

 学園を出て、町中を走り抜け、遊歩道のダラダラ続く上り坂を、登坂に向かない折りたたみ自転車でえっちらおっちら登りきり。

 そうして息を切らせながらようやく神社の境内にたどり着いたと思ったら、眼の前で教え子が石段から転げ落ちようとしていた、というわけだった。

 掛け値なしに心臓が止まるかと思った。

 いくらウマ娘が身体能力抜群で、ヒトと比べて物理衝撃に対して頑丈だとは言っても限度がある。

 途中の踊り場まででも高低差は優に五、六メートルはあるし、受け身も取れずに落ちれば命に関わる。もはや選抜レース云々どころの話ではない。

 

「ともあれ……無事で良かった」

 

 張り詰めていた緊張が解けた反動からか、気だるさがどっと襲って来た。

 安堵のため息とともに、クレディの隣に半人分の間隔を開けて腰掛ける。

 カバンからスポーツドリンクのボトルを取り出して手元に握らせると、彼女は視線をボトルのラベルに落としたまま口を開いた。

 

「……怒らないんですか?」

「怒って――叱って君の身の振り方が変わるのなら、そうするさ」

 

 消え入りそうな声に、僕は何の含みもなくそう応じて、ボトルの封を切る。

 運動不足の身で慣れない汗をかいた後だからだろうか、久方ぶりに飲むドリンクの味はすっと通り良く喉を滑り落ちていった。

 ふぅ、と長く息を吐いて空を仰ぐ。

 既に空は宵闇に沈んでいて、満月から少し痩せた姿の月が、雲間から浮かんでいた。

 黙し、俯いたままのクレディの顔は月影の届かないところにあって、どんな面持ちで耳を傾けているのかは分からなかった。

 

「脚のことだけど、水曜日の時点では、多分本当に不調は感じてなかったんだよね。調子が悪くなってきたのは、ここ数日。それでも普通にメニューはこなしてたってエトワールからは聞いた」

 

 ちら、と横目に見て、クレディの素振りを観察する。

 笹葉耳はぺたんと(しお)れたままで、やはり彼女が何か言い出す様子はなかった。

 沈黙を肯定ととるべきか、否定ととるべきかは分からない。

 

「今日も、走りに行こうと思えて、ここまで来られるくらいの痛みだったんだろう。いよいよ立ち行かなくなるくらいまで悪くなったのは、そこの石段を登り始めてからってところかな」

 

 クレディが僕の意に沿わない行いをしたのは事実ではあるけれど、彼女自身が危険の予兆を掴みきれなかったのなら、責を問うのも無理筋だろう。

 "まだ行ける"と"もう危ない"の境目が、想像よりもずっと狭いなんて、本当に危ない目にあってからでないと実感として分からないものだから。

 経験則で身につくはずのそれを、競争ウマ娘のキャリアのごく初めに足を踏み入れたばかりである彼女に求めるのは酷な話だ。

 

「――まぁ、せめて石段チャレンジは見送ってほしかったけど」

「……ごめんなさい」

謝罪(ソレ)は僕じゃなくて、君の身体に向けてくれ。なんなら、僕の方こそ、『控えて』なんて曖昧に濁さずに、『休め』ってハッキリ言うべきだったんだ。……ごめんな」

 

 指導者としての責を果たしきれなかったことに対する悔悟と、大事に至らなかったことへの安堵感。

 相反する感情を手に、俯いたままでいるクレディの黒鹿毛をくしゃりと撫でる。

 笹葉耳が一瞬だけ立ち上がってからまた横倒しに萎れ、細い肩が微かに震えた。

 

「きっと……、トレーナーさんにそう言われていても、私は――」

「……そうかもね」

 

 しっとりと湿り気を帯びた声に、すん、と小さく(はな)をすする音が混ざった。

 最後に黒鹿毛をひと撫ぜしたあとで、ひとまず手に握らせたドリンクを飲むように促して、肩を叩く。

 彼女がそう答えるだろうことは、なんとなく分かっていた。

 

あの子(クレディ)は多分、放っておくと一人で何処までも行っちゃう子だよ』

 

 つい先日、サーマルソアラにそう釘を刺されたのが決定的といえば決定的ではあったのだけど。

 最初の選抜レースをすっぽかした一件からずっと、そんな(さが)の片鱗はそこら中に見え隠れしていたから。

 

「僕がこの場で怒ったところで、多分君は変わらない。君がトレセンに来た理由、――走ることを選んだ理由が、そうさせてると思うから」

 

 話している内に乾いた口にドリンクを一口含んで湿らせる。

 少し遅れて、隣からもちゃぷんと密やかな水音が届いて、鎮守の森の木の葉のさざめきに溶けて消えた。

 クレディの左耳はほんの少しだけ立ち上がっていて、続く僕の言葉を待ち構えている。

 それを横目に見て、僕は話し始めた。

 彼女が心に秘めているものを(つまび)らかにしてもらうためには、絶対に必要なはずだった。

 

「今だから言うけど、君に一度スカウトを断られてから、僕はやっぱり諦められなくてね。結構色んな人に君の人となりを聞いてから、もう一度声を掛けたんだ。……図書館で出会ったのは、本当にたまたまだったんだけど――」

 

 学生資料室に保存されていた資料を紐解いて手に入れた情報。

 クレディを知るクラスメイトや、委員会のメンバー、教職員の名前。

 彼らから見た、クレディカイゼリンというウマ娘の印象や評価について、自分が聞き取ったこと。

 関わった人々全てを余す所なく挙げてみると、両手足の指では効かない数になる。

 

 冷静に考えてみると、なんだかストーカーみたな偏執さだな……。

 そう自分で自分に呆れてしまい、それを当人の前で明かす後ろめたさもあって、ほんの少しだけ言葉は尻すぼみになった。

 

「――ここ2ヶ月くらいかけて、僕が君について知ったのは、だいたいそんなところ」

 

 クレディカイゼリンというウマ娘の人物像を評するとき、皆決まって口を揃えていた。

 "真面目"。

 "優しい"。

 "面倒見がいい"。

 "大人しい"。

 たまに、"意外と我が強くて頑固"、と。

 良くも悪くも個性豊かなウマ娘たちの中にあって、尖ったところのなく純粋(ピュア)なそのパーソナリティは人好きするものだ。

 特に最初の2つに関して言えば、僕自身が彼女と最初に出会って感じた印象そのままであるけれど――、

 

『いえ。違います。断じて……。これは、真面目さなんかじゃ、優しさなんかじゃ、ありません』

 

 初めて会った時、彼女はそんな下バ評を強硬に否定した。

 謙遜するでもなく、面映ゆい顔をするでもなく。

 今なら、その理由が分かる。

 ソレが、彼女が周囲にひた隠しにして止まない"()"の部分の発露なのだろうと。

 痛みを抱えながらも前に進もうとする、二律背反を体現するような走りも、恐らくそこに由来するものなのだろうと。

 

「君の走りを追いかけてきて、そこまでは近づけた。……だけど、まだ足りない」

 

 僕が察して歩み寄れるのはここまでだ。

 ここから先は、彼女の肩を叩いて振り向かせ、本人の口から語って貰わなければならない。

 そうでなければ、この娘は他人の当て推量なんてお構いなしに一人で走り去ってしまう。

 だから僕は、一息に核心まで距離を詰めた。

 

「――クレディ、君は、一体何を目指して走っているの?」

 

 

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