信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「よし、今日はこれで仕舞いだ。各自、練習後のクールダウンは怠るなよ。お疲れさん!」
「「ありがとうございましたー!」」
「お疲れ様でした」
チーム・ピクシスのチーフトレーナーこと、布施田トレーナーが胴間声で締め、この日のチーム練習は終わりを告げた。
「やー、今日も走った走った。――どんどん手強い走りをするようになってきたね、クレディ」
「お疲れ様でした。クレディちゃん、こんどの選抜レース頑張って下さいね〜♪」
「こちらこそ、色々ご指導ありがとうございました。ソアラさん、ノートさん」
「当日は私も応援に行きます。ぜひ悔いのない走りをして下さい」
「ありがとうございます、アルさん」
練習を終えてそれぞれに寮に戻っていく先輩方にお礼を伝え、朗らかに談笑しながら小さくなっていく背中を見送る。
その後でコースの方を振り返って、今日使った練習道具を台車に詰め込んでいるポロシャツの背中に向けて呼びかけた。
「トレーナーさん」
私が声をかけたのは、ピクシスのサブトレーナー――小椋トレーナーのほうだ。
チームに同じ役職の人が二人居るものだから、ちょっと紛らわしい。
他のチームメンバーがするように呼び習わそうとしても、一度身についた習慣はなかなか直らなかった。
当の本人は、『
ともあれ、両手で掴み上げた三角コーンをぽすんぽすんとリズミカルに積み重ねながら、トレーナーさんはこちらを振り返った。
「もう少し、走って来ても良いですか?」
「ん……いつものやつ?」
問い返されて私は頷く。私とトレーナーさんの間、具体的な内容はその一言だけで通じる。
――いいえ。
通じる、というより通じるようになってしまった、と言う方が正しいのか。
「もう少し自分を追い込みたいんです。もちろん、足に負担をかけない範囲で」
私がそう意見すると、彼は少しだけ眉根を寄せて思案顔を浮かべた。
選抜レースまであと4日に迫っている。
明日はオフを挟んで、
『ピーキング』――ハードトレーニングの後、筋肉疲労からの回復のタイミングを試合当日にピッタリ合わせることで、最良のパフォーマンスを生む手法。
自分でも指南書を読み解いて、理屈はだいたい分かったけれど、いざ本番を目前にしてみるとどうしても気持ちが落ち着かない。
頭では理解できても、レースの直前、なんだったらそれこそ当日の朝まで鍛錬を積み上げることのほうが、勝利への近道のような気がしてしまう。
私が抱くそんな不安も、衝動も、トレーナーさんはきっと織り込んだ上でスケジュールを組んでくれているはずなのだけれど。
高強度の練習は今日が最後になるから、自分自身を納得させるために走り尽くしたかった。
「一応聞くけど、足の違和感は無いね?」
問われて頷く。けれどつい先日のこともあるから念のため、その場で膝の屈伸や足関節の曲げ伸ばし、股関節伸ばし、と順々に試してみる。
チーム練習を終えた後で、体全体に気だるい疲れは感じるけれど、筋や関節には特に気になることはなかった。
「大丈夫そうです」
「む……それじゃ、いつもより距離は控えめで、特に――」
「アタシも行く」
詳しくルートを指定するトレーナーさんの指示に耳を傾けていると、私達の横合いからエトが声を上げた。
「エトワール、いいのか?」
「もうちょっと走りたい気分だから。それに、クレディにはお目付け役が必要でしょ?」
「ま、それはそうだね」
「……」
「ビミョーな顔してもダメ。あんた前科があるんだから」
「……その節は本当に、反省してます」
返す言葉もありません。
前科、というのは他でもない。私が故障で休養するきっかけになったあの日の出来事のことだ。
神社でトレーナーさんに拾われて一緒に栗東寮に戻った時、自転車に跨るウマ娘をひと目見て、フジ先輩は物珍しさに苦笑していたけれど。
隣で私の帰りを待っていたエトは、包帯が巻かれた私の足を見てまず顔を真っ青に染めた。
そして顛末を聞いた後には、私の胸ぐらを掴まんばかりの勢いでカンカンに怒り始めた。
トレーナーさんとフジ先輩二人かがりの説得――物理と言葉の両面から――のお陰で、どうにか矛を納めてもらったけれど。
『次におんなじ事やったら、いい加減アタシの愛想も尽きると思いなさい』
背中に般若を背負った射殺すような目でそう釘を刺されて、私は平身低頭謝る以外になかった。
その時のことを思い出して、うなじに冷たいものが走るのを感じながら、私はもう一声念押した。
「何かあれば、すぐに戻ってきます」
「是非ともそうしてちょうだい」
いつもより距離は短く、高低差のあるルートは避けて。
指示に加えて、丁寧にも地図アプリで描かれた経路図まで受け取って、私はエトと一緒に学園外へと走り出した。
6月の中旬。
今日は梅雨の中休みでたまたま晴れ間が覗いているけれど、天気予報いわく明日からまた雨らしい。
選抜レースもきっと、足元の悪い中での出走になるはずだった。
「足は?」
「うん。平気」
赤信号の灯った横断歩道で足を止めるやいなや、エトが尋ねてくる。
自分でも手で触って調子を確かめる。特に気になるところはない。
私の右膝に起きた故障――骨端炎は幸いにも軽症で、一週間ほど安静にしたら症状は落ち着いて、病院の先生からも練習復帰の許可が出た。
とは言っても、『一度はオーバーワークで身体に不調をきたしたことがある』という事実が無くなるわけじゃない。
あの一件以来、エトは一緒に練習をする時から普段の日常生活まで、私がふとした拍子に無茶をしないか徹底的に目を光らせていた。
『信頼っていうのにはプラスだけじゃなくてマイナスの
心配を通り越して過保護なくらいの扱いが居心地悪くて、トレーナーさんに愚痴を零したら、逆にそう
そういうトレーナーさんもまた、あの一件以来、メニューをひとつふたつこなす
怪我はもちろん、ほんの些細な違和感が無いかまで、徹底的に。
「調子が悪ければ即戻るよ。いい加減、本番も近いんだから」
「ええ。今度こそ、ちゃんと結果を出さなきゃいけないから」
自分で蒔いた種と、その報い。
私自身が犯した過ちと、それに対する
その
足場の支えが弱まったような気がして、即座に飛び出していきたくなったけれど。
そんな私の衝動を押し留めたのもまた、トレーナーさんの言葉だった。
『とはいっても、ああいう事の後でもエトワールは君のことを評価軸の上に置いてくれてる。同期で、同室。学園の中、多分一番近くで君を見ながらね』
それは"あの夜"、私が彼に向かって吐露した言葉に対する答えのひとつに違いなくて。
足場から転げ落ちそうになった私を、その場に押し留めた
「行くわよ、クレディ」
呼びかけられて、はっと顔を上げる。
いつの間にか信号は青に変わっていた。
横断歩道の白線2本分先に踏み出したところから、エトは首だけ振り返って私を待っている。
遠くで響く
走る。
家路を急ぐ人々を横目に見ながら大通りを進む。
横断歩道に差し掛かるたびのスタート・ストップも、足元不安のある今だから不調の確認にはちょうどいいけれど。
立ち止まるごとに、焦がれる気持ちが積み重なっていく。
思うまま、足の向くまま。
交通ルールだとか、道行くヒトへの配慮だとか、そんな制約を振り切って、駆け出したくなる。
そしてそれは、エトの方も同じ思いだったみたい。
河川敷に出たところで、私たちはどちらから示し合わせたわけでもなく、姿勢を低く落とした。
頭の中で三拍リズムを刻んで、
だんだんと熱が籠もり、テンポを増していく二人分の呼吸。
だんだんと力強く、地を打つたびに高鳴る蹄鉄。
沈みかけた夕日を背中に受けて、長く細く伸びる影法師。
ストライドの差と同じだけ、ほんの少しずつずれる二人の距離。
どちらからともなく、足運びのピッチを変える。
伸びたり縮んだりする振れ幅を大人しくさせる。
そうしているうちに、私たちの息遣いはだんだん重なって行って。
蹄鉄の音の響き合いも、不協和音の連なりから合唱へと変わっていく。
「はっ――、はっ――、はっ――」
「ふっ――、ふっ――、ふっ――」
こんな風にエトと走るのは
呼吸を、走りを重ねながら、ふとそんなことを考える。
一年前の今頃は、決まって放課後にロードワークに出かけて、どちらか先に音を上げたほうが夕ご飯の席取り担当、なんて決めていたっけ。
思い返して感傷に浸るほど遠い昔の事じゃないはずなのに、ひどく懐かしい気がした。
年の暮れにエトがスカウトされてからは、こんな風に走り合うことなんてなかった。
トレーナーの付いたウマ娘と、スカウト待ちのウマ娘とでは練習時間も内容も違うから。
そんな風に理屈をつけて、納得した気になっていた。
それは思い違いだったと、今なら分かる。
エトが私よりも早く駆け出したのはそのとおりだけど、それ以上に、私が自ら進んで距離を取っていたんだって。
私達二人の間の
顔を背けているうちに、いつの間にかエトの走りは私が
これだけ近くで走っていると、否が応でも目の当たりにするしかなくて、思い知らされる。
懐かしさの上に覆いかぶさるように、胸の中に苦みが押し寄せてきて。
高鳴る心臓の鼓動が、突然震えだした。
「――かはっ」
「っ――あ、やばいやばい」
私が呼吸を乱してフォームを崩した時、エトは焦った様子で
急停止ではなく、なるべく足に負担をかけないように
たまたま近くに生えていた街灯のポールに手を突いて、荒い息を吐きながら、頭に浮かんできた文句をそのまま吐き出した。
「お……お目付け役が、――っはぁ、目を付ける相手よりも暴走して……っ、どうするのっ?」
「や、マジでごめん。久しぶりだったから――」
つい、熱くなっちゃった。
そう言って顔の前で手を合わせ、俯く私に視線を合わせたエトも、肩で大きく息をしていた。
「なに、それ……。あなた、それは私の、……役どころじゃない」
「えぇ……? 自分で言うかぁ? ――ははっ」
「何がおかしいのよ――、ふっ、ふふっ」
息を整えながら、言葉の端に思わず笑い声が漏れた。
だいぶ長い間、私のほうから勝手に離していたはずの二人の距離。
それを私が無遠慮に縮めても、エトは受け容れてくれている。
楽しいと、思ってくれている。
彼女の優しさ――甘さに甘えてはいけないと、頭の片隅で自制心が囁きながらも。
胸の内の苦みはダークモカのコーヒーくらいのホロ苦さまで薄まっていた。
「足、大丈夫?」
「――うん、平気。ちょっと脈が、うるさいだけ」
「じゃあ、公園の方行こ。脱水かもしんないから。水飲まないと、水」
「……そうね」
確かに、掌をすり合わせるとなんだか妙に冷たい。
最近は湿度も高くて熱がこもりやすいから、エトの言うように水分補給が足りないのかもしれなかった。
走るではなく、てくてく歩いて河川敷を離れる。
五分ほど歩いてたどり着いたのは、現代芸術のオブジェみたいな滑り台と、小さなベンチがあるくらいの小さな児童公園だった。
自販機でミネラルウォーターを買ってベンチに腰を下ろす。
冷たい水を口に含みながらちらりと横目で見ると、エトは私との間に半人分の空間を空けてベンチに腰掛けながら、ぶらぶらと両足をぶらつかせていた。
ととん、ととん、と足元のタイル張りを靴底がリズミカルに叩く。
ぐいっと一息にペットボトルを煽っても、そのリズムは遅れも乱れもしない。
小休止していても、この子の気持ちはまだどこかを走り続けている。
私と走るうち、つい熱くなってどこまでも加速していけるくらい、『まだ走り足りない』。
そう。この子が自分で言っていたとおり。
私は、走り続けようとするこの子の足を、自分の
いつの間にか手に握ったペットボトルの中身は半分くらいが空になっていた。
腰を落ち着けてからもずっと小走りを続けていた鼓動も、ようやく落ち着きを取り戻してきた。
入れ替わるように、胸の中にはまた苦々しい思いが滲み出して、私はたまらず口を開いた。
「――ごめんなさい」
「しょうがないでしょ。足はウマ娘の命なんだから。気にしすぎるくらいが丁度いいのよ」
「そうじゃなくて――」
前にも、同じようなやり取りをした。
選抜レースの特例出走が決まった当日。私がたまたま朝寝坊して、寮を遅く出てロードワークを済ませて帰った日。
あの時も今と同じようにエトに思いを伝えようとして、気持ちだけが空回りして、一体何から謝ればいいのか、結局分からなかった。
けれど、今なら分かる。
「私は、――ずっと、あなたの思いやりを素直に受け入れたような顔をして、それを自分で良いように受け止めて、あなた自身の気持ちなんて、これっぽっちも考えてなくて」
途中で少しでも言い淀んだら二度と言えなくなると、そんな確信めいた予感があって、私は胸の中にある苦いものを全て吐き出すように、言い切った。
トレーナーさんは、寝ても覚めても"打算"で動く私の在り方を、それでも肯定してくれたけれど。
私の"打算"が、誰かに与えた不利益は、損失は、不満や不快は。
他ならぬ私が責任をもって引き受けなきゃいけないはずだから。
「私は、きっとあなたの同室として、――友達として一緒に付き合っていくべき子じゃない」
言ってしまった、という後悔と。
ようやくけじめが付けられた、という安堵感があった。
木の葉のさざめきも、遠くで鳴きわめく
世界から隔離されたかのように、私たちの間に流れる時は静かに停まった。
「クレディ――」
私の名前を呼ぶ声に、恐る恐る顔を向けた時。
防災無線のチャイムが、唐突に音楽を奏で始めた。
いつか音楽の授業で聞いた曲名。
ドヴォルザーク作、新世界より・第2楽章『家路』。
牧歌的でゆったりとしたその旋律が、夕焼けに染められた公園に響きわたり、二人の間の言葉も、息遣いも、公園にある自然由来の音も、全て塗りつぶしていく。
ほんの一分足らずのその時間が、永遠のように長く感じられた。
電子音声の最後の一音が長く木霊して、ぶつり、とスピーカーの電源が落ちるノイズを最後に、もとの静かな公園が戻ってきたけれど。
ヒト一人分だけ間を空けてベンチに腰掛けた私達は、しばらくの間、お互いに何も言わなかった。
ちゃぷん、と揺れる水音がして、左耳のそばに衝撃を感じる。
見ると、エトがペットボトルのフタ側を握って私の頭を軽く叩いたところだった。
「ここの公園さ、前に二人で来たことあったじゃない?」
出し抜けに、エトはそんなことを言った。
とっさに私は思い出をひっくり返して
「……そう、だっけ?」
「憶えてない? って、あー……ごめん。最初から一緒だったんじゃなくて、たまたまアタシが居たところにあんたが来たんだ」
エトはベンチの上に仰け反って、おでこにミネラルウォーターのボトルを押し当てて、涼しげに目を細める。
そうして、横倒しに揺れる水面の向こう側を透かし見るように、思い出語りを始めた。
「あれは、トレセンに入ってわりとすぐ、ちょうど今頃じゃなかったっけ――」