信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
トレセン学園は全寮制だ。
学生は栗東と美浦のふたつの寮に別れ、二人一組の相部屋で寝食を共にする。
学生たちの生い立ちはさまざまで、名家のお嬢様から一般家庭出身、私のように奨学金をもらいながらだったり、アルバイトをして実家に仕送りをしながら通う苦学生まで幅広くを受け入れている。
家庭環境が安定している子もいれば、そうでない子もいる。親族まわりの関係が一般家庭のソレとは異なる子もいる。
改めて論じるまでもなく、教会育ちの私はいわゆる"特殊例"に該当するらしい。
"特殊例"の子と同室になる相手には、寮長の裁量で"特殊"の内容が少しだけ明かされるのだという。
不用意な発言から両者の関係が
「あんたがあの子を抱きしめた時、最初はただびっくりして、すげー奴だなーって思ってた。同じことをしろって言われてもアタシには無理だったし」
昔を懐かしむかのようにエトは言って、でも、と言葉を切る。
何かを決意したような表情でペットボトルの水を飲み干してから、告げた。
「別の日にフジさんから話を――あんたがトレセンに入る前のことを聞いて、そうじゃなかったんだって後から分かった」
「――っ」
どこから、どこまで?
胸の中に浮かび上がった問いかけは、何故か外に飛び出してはいかずに、私の思考だけをその場に縛り付けた。
フジ先輩の
『トレセンに入る前のこと』に話が及んだとき、私が引き合いにだすのは、いつも、育った場所がどのあたりのエリアかだとか、
とにかく、私はこの子に、具体的な身の上を明かしたことは一度もなかった。
だって。
私なんかの事情で、この子が変に気を煩わせるようなことがあってはいけないから。
だって。
曖昧に微笑んではぐらかしていれば、優しいこの子は深入りせずに、そっとしておいてくれるから。
だって。
エトは他人の様子を見て、自分を引っ込めることが得意な子だから。
そうだと、思っていた。
全てを上手く隠し通して、普通のヒトらしく生きられていると、思っていた。
今日の今日までそうだと思いこんで。
私はずっと、この子の好意に甘え続けていた。
「ずっと黙っててごめん」
私が言葉を返せずに居るのを、不愉快に思っていると、怒っていると思ったのだろうか。
謝るべきはどう考えても私のほうなのに、エトは私にまっすぐ向き直って頭を下げた。
そして、その時から考え続けていたことがあると、彼女は言った。
「あの時のミサキちゃん――あれはクレディ、あんた自身だったんじゃないの? ……違うわね。あんたは、きっと今も――」
「……そうだね」
探るようなエトの言葉に導かれるようにして、白状する。
細かいやりとりはさておき、私もその日のことを、おぼろげながら思い出してきた。
泣きじゃくる女の子と、耳を押さえつけながらオロオロするエトの姿を見て、これは他人事にしておいちゃいけないって、頭で考えるよりも先に身体が動いたのだっけか。
あの時、あの瞬間、咄嗟にそうしたのは。
教会に居た頃、事あるごとに私の後にくっついて回っていた
あの子達が日々過ごす中で触れていたはずの心細さは、私自身が普段世界を見て感じていたものと、きっと同じもので。
それと同質のものを、あの女の子の姿にも、見出してしまったから。
私は
翻って、今は。
トレセンにいるウマ娘は、みんな強い。
誰もが自分の足で立って、目標に向かって前へと走っている。
持たざるもの同士、寒さの中で身を寄せ合うように背中合わせに固まって、外に向けて精一杯虚勢を張っている子なんてどこにもいない。
お姉さん役なんて、誰も必要としていない。
だから。
役割と、後ろに匿う
かつてよりも幼く、弱くなったのだろう。
ここ最近の自分の姿を振り返ってみる。
エトが病院に運ばれたと聞いて学園を飛び出した後の私。
選抜レースで大負けして、その場を逃げるように立ち去った私。
夜の神社でトレーナーさんに向かって泣き喚いていた私。
どれも、やることなすこと理屈を通さずに、感情のまま突っ走る駄々っ子みたい。
それなのに。
私のたった一人の同室は、遠回りに遠回りを重ねた先の、こんな所まで付いて来てくれていた。
"特殊例"という枠組みに甘んじて癇癪を振り回してばかりいる私のことなんて、どこかで放り捨ててしまっても、誰もこの子を責めたりなんかしないのに。
その事実を改めて目の前に突きつけられて、申し訳なさで頭が一杯になる。
この場からすぐにでも走り出して、消えてしまいたいくらいに。
「……さっきも言ったけどさ、アタシにはあの時のあんたと同じことは、多分できない。でも、――」
エトは私の肩に右腕を回して、膝の上に置いた私の手に被せるように自分の手を置いた。
私を隣に引き留めるかのように。
私が勝手に居なくならないように。
「こうやって、気長に話を聞いてあげることはできる。たった一人の同室なんだから、色々手伝ってあげたいとも思う」
肩を抱く腕から、重なった掌から、エトの温もりが伝わる。
冷え切っていた手のひらから腕へ、腕から背中へと熱が伝わって、震え、揺れていた鼓動がだんだんと落ち着きを取り戻していく。
「だからさ、クレディ。ちょっとずつでいいから吐き出しなよ。あんたにはあんたの考えがあって、あんたの言葉で思いを伝えられるんだから。……アタシだって言ってくれなきゃ、分からないことも沢山あるんだから」
肩に回された腕に一瞬だけ強く力が込められた。
私が距離を離そうとしても、エトはそれを静かに拒んだ。
小さく、頷き返す。
エトは横目に分かるくらい少しだけ口角を引き揚げて、いつもするように私の後ろ髪を
そうしているうちに、ベンチの上の私達の距離はいつの間にかゼロに縮まっていた。
「正直さ、あんたと一緒に走らなくなってから、どうやって付き合っていけばいいのか、よく分からない時もあったんだ」
露骨に練習時間が被らないようにするし、どことなく余所余所しくなるし。
ふぅと一息ついて、少しだけ不満げな声色を滲ませながら、指を一本、二本と立てながら挙げてくるエトに、私は何も言い返せずに縮こまった。
よっぽど私が居心地悪くしているように見えたのか、少しだけ溜飲を下げたような面持ちで、彼女は言う。
「でも、ちょっと考えれば分かるコトだった。『もしアタシだったら、どうしてもらいたいか』――あの時のあんたとミサキちゃんよ、そう言う風に考えればいいって教えてくれたのは」
そして、優しく微笑んだ。
その温かさに身を委ねてしまいたくなる。甘えてしまいたくなる。
けれど私はもういちど、私の中でわだかまる後悔に目を向けて、首を横に振った。
「……でも、結局私はあなたに思いやってもらうばっかりで、何ひとつ返せてない。……何ひとつ、あなたのことを助けられないじゃない」
エトは、私がトレセンに来た理由――私が走る理由を知って、私と同じ目線に立とうとしてくれて。
何度私が厚意を撥ねつけるような真似をしても、変わらず手を伸ばそうとしてくれている。
それに引き換え、私はそんなかけがえのない信頼を、勝手に使い込むようなことばかりしているのだから。
それこそもう愛想なんて尽きているものだとばかり、思っていた。
「何言ってんの。もう助けてもらってるじゃん」
だから、あっけらかんとエトが答えたとき、私は首を傾げることしかできなかった。
今日は記憶をひっくり返してばかりだな、なんて自嘲しながら思い返してみるけれど、心当たりはやっぱり無い。
視線を上げると、心底不思議そうな、キョトンとしたエトの顔がそこにある。
「……何、を?」
「だってほら、……アタシたち、いくら走れてもペーパーテストの結果がゴミじゃあ出走停止だし?」
予想だにしない言葉が返ってきて、思いがけず思考がフリーズした。
理解するのにたっぷり十秒ほど間が空いて、聞き間違いかな、と思い直しながら問い直す。
「……ええっと、何て?」
「レース関係のことじゃなくて驚いた? でもさ、アタシたち勉強ダメ勢にとってみたらワリと切実よ? もちろん、それだけじゃないけどね」
そう言って、ウィンクを一つ。
何やら含みを持たせた物言いは、冗談なのか、本心なのか、なんとも判断が付きづらくて。
「……私としては
「ま、それはまた今度ってことで。女の子にはヒミツのひとつやふたつあるもんでしょ?
釈然としない思いとともに告げたけれど、返ってきたのはおとぎ話のチェシャ猫みたいな、悪戯っぽい笑み。
彼女の言い草だと、この場で強引に聞き出そうとしても結局良いようにはぐらかされてしまいそうだった。
でも仮に、その言葉が本心から来るものだったとして――、
「ただテスト勉強手伝ってあげることが……、そんなに……?」
「ただって言うな、ただって。こっちゃ自分の地頭の悪さに苦労してんのよ」
エトから受け取った厚意と、私がエトにしてあげたこと。
どう考えても、二人の間で交換した価値はどう考えても釣り合いが取れていない。
たったそれだけの理屈付けで、この子は私がこれまで積み上げてきた不義理を帳消しにでもする気なのか。
いくらなんでも、それは道理が通らない。
私にばっかり都合が良すぎるじゃない。
思わず首を捻った私のこめかみを、人差し指がつんとつついた。
「お陰で中間の世界史も赤点回避できたし。ま、古文と英語と数学と化学は壊滅したけど」
「は……ちょっと――!?」
「このままだとアタシ、夏合宿より先に三者面談かも? やー、まいったな~」
聞き捨てならない発言を流すわけにもいかなくて、私は後ろ髪を引かれながらも頭の中でゆらゆら揺れていた天秤をとりあえず遠くへ押しやる。
「……具体的に、それぞれどんな結果だったか聞いてもいいかしら?」
「えぇー、そんなに言うならしょうがねぇなぁ……」
耳貸して、とエトが私の頭に顔を寄せる。
左耳の毛に吐息が吹き付けるむず痒い感触に、笑い出すまいと神妙な顔をしたのも束の間。
立て続けにお出しされた
ひとしきり情報を吐きだした本人はなにやら清々しい顔でおでこに空のペットボトルを立たせてバランスを取っているけど。
どう考えても、そんな風に黄昏れてる場合じゃない。
まだ納得できたとは言い切れないけれど。
私がエトにとっての支えになっているというのは、どうも本当のことらしい。
「まぁ、アタシの成績なんかこの際どうでも良くて」
「――どうでも、良くない!」
能天気ささえ感じる言葉に対して、
エトはびくりと座面の上で飛び退いて、空のペットボトルが地面のタイルに落ち、からからと乾いた音を立てる。
白いメンコに覆われた耳を反射的に押さえかけた格好で固まったまま、目を丸くしながらこっちを向いた瞳を正面から見据えて。
私は彼女に告げた。
「見に来てもらうんでしょう? 一緒にトゥインクルシリーズを走るところ」
それは私達が一番最初に結んだ約束。
私達の距離が今よりもずっと隔たっていたときに、まだ形の見えない遠い未来の日に向けて刻んだ誓い。
ずっと遠く、思い出の彼方に忘れかけていたけれど、私達のはじまりはきっとあの日のこの公園に違いない。
『君が信じて進めば、後に続く道ができる。そこをみんなが歩き出せば――』
十六夜の月明かりの下で聞いた、トレーナーさんの言葉が蘇る。
いつの間にか、私は進みながら道を創っていたのかもしれない。
自分一人で進んでいたつもりだったけれど、一緒に来てくれる子はもうとっくに、すぐ傍にいた。
目を逸らしていた時間を惜しむより、遠ざかっていた距離を悔いるより。
次の足場に向けて飛び出すよりも、今居るこの道の先を目指してみたいと、望む心の声のほうが大きかった。
「――そうだよ。そう来なくっちゃ」
声に応えるように、エトはにんまり笑って私の肩を叩いた。
タイルの上に転がったペットボトルを拾い上げ、流れるようなフォームで放る。
ボトルは夕焼けをキラキラ反射しながら空中で放物線を描いて、ゴミ箱の中にまっすぐ吸い込まれた。
立ち上がるエトに手を引かれながら、残った水を一息に飲み干す。
ゴミ箱まで駆け寄って空っぽのペットボトルを差し入れると、「まじめねぇー」と声が追いかけてきた。
いつもはつい拒否反応が出そうになるそんな言葉も、今日は不思議とすんなり受け容れられる気がした。
「さ、帰ろっか」
「――ええ、行きましょ」