信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-34.雨粒の先に烟る路 / What We Hold True -1

 

 

 ゲートの中が、私は好きだった。

 

 ……いや、()()とはちょっと違うか。

 足を踏み入れるたび私が思い出すのは、今となっては遠く過ぎ去った、幼い頃の一幕だ。

 大好きな姉弟や友達と喧嘩をしたとき。

 仲の悪い同級生に意地悪をされたとき。

 ふとした拍子に寂しさで胸が一杯になったとき。

 苦しい世界を見たくなくなったとき、私はいつも教会の告解室に駆け込んでいた。

 

 カーテンを閉めて、四方をきっちり囲いきって、ひんやりと冷たい木の机に突っ伏せば、ちょっとやそっとベソを掻いても恥ずかしい思いはしないから。

 ひとりで涙を零しているうちに、決まって"先生"が私のことを見つけてくれて、静かに私の言葉に耳を傾けてくれるから。

 広くて、大きくて、酷薄な世界が、私ひとりを収められるだけの小さな(ハコ)にきゅっと窄まって。

 私が一番に信じられるヒトの声だけを聞いていられる、そんな場所だったから。

 

「……」

 

 あの時と同じように、静かに瞳を閉じる。

 ひんやりとした冷気を纏った鉄枠にぐるり囲まれて、鳥籠めいた窮屈さのあるゲートを嫌うウマ娘は多いらしいけれど。

 ウマ娘ちょうど一人分に切り詰められたその空間(ハコ)は、走る足以外に何も持たない私が収まるのに、窮屈すぎず広すぎず。

 そう。()()()()()()()()っていうのが正しいのだろう。

 

 ただひとつ。

 暖かさと優しさに満ちた"先生"の声が聞こえないことだけが、心残りだった。

 

『――枠入りは順調に進んでいます。9番カサブランカレディに続いて、4番アナザーデイ、ゲートに入りました――』

 

 静かに降りしきる雨足を押し抜けるように、遠く観戦スタンドの側から実況のアナウンスが響いてくる。

 "先生"の声が暗闇の中で揺れる小さな灯火(ともしび)だとしたら、聞くもの全てを興奮に駆り立てるように鋭く響くそれは、闇夜を赫々(かくかく)と切り裂く篝火(かがりび)のよう。

 彼方からチリチリと照りつける熱量にあてられたのか、私の周りに居る何人かのウマ娘が、少しだけ居心地悪そうに身動(みじろ)ぎする気配がした。

 

 頬を流れ落ちる雨粒の冷たさを感じながら、肺に溜め込んだ空気をゆっくりと吐き出す。

 水底深くへ潜るように、大きく吸って。

 意識を薄めて溶かすように、細く、長く吐き出す。

 

『最後に11番テクノポリスがゲート入りして、選抜第3レース、ダート1400m。全ウマ娘、体勢整いました』

 

 アナウンスに導かれるように目を開き、左足を引いて半身に構え、重心を落とす。

 最後に一息大きく吸って、半呼吸分吐いたところで、止める。

 実況の声がすぅ、と遠ざかり。

 雨音が消え失せ。

 ライバルたちの息遣いも、自分の鼓動も聞こえなくなったとき。

 

『自分が一番楽しかったって思える走りを思い出して、走るんだ』

 

 頭の中で声が響いた。

 ゲートインに向かう途中の私を呼び止めて、そう最後のアドバイスをくれたヒトは、ここから1400m離れた篝火のたもとに居る。

 瞬きの一瞬、まぶたの裏に見えたのは、夕焼けに赤く滲んだウッドチップコース。

 あいにくの天気で、お日様は陰も形も見えないけれど。

 あの時みたいに(あか)く燃えるような熱の中で、白く、まばゆく()け落ちるような走りができたなら。

 それはきっと、とても楽しいに違いない。

 

『行ってらっしゃい、クレディ』

 

 ぽん、と軽く私を推す手のひらの感覚が背中の真ん中にあって。

 

「行ってきます――」

 

 ゲートが開く音と同時に、私は(ハコ)から飛び出した。

 

『スタートしま――』

 

 実況は尻切れトンボに、風切音の向こうへと消え失せた。

 しっとりと水を含んだ砂地は柔らかくて、力の限り踏みしめた蹄鉄を粘っこく咥えようとするけれど。

 足を取られるよりも先に、膝を引き抜くように前へ突き出して、いつものように脇目も振らずハナを目指した。

 

 ひゅるり、と耳元で甲高い風切り音が唸る。

 最初のコーナーまで400mと少し。

 その半分は緩やかに下る直線区間だから、私ひとりが先走らなくても序盤のペースは早くなる。

 だからまずは、私の持ち味を最大限活かして加速に乗る。

 きつい登りは最終直線の入口に控えていて、あまつさえ今日はこんな不良馬場だから、末脚の切れ味に賭けている後ろの子たちは、序盤の行き足を抑えるはず。

 

 作戦会議で聞いたそんな分析を頭に思い描きながら、200m地点のハロン棒を通り過ぎた時。

 頭の中で秒数を数えていると、半分水音が混ざった蹄鉄の音が、斜め後方から競り掛けて来た。

 

「シッ――――」

 

 斬りつけるような息遣いと、ジリジリ照りつけるような熱を帯びたプレッシャー。

 きっとハナを取りたがっている。

 それか、動揺を誘って行き足を乱すつもり。

 私が逃げようとすれば、きっと11人のうち誰かはそれに乗ってくる。

 そんな展開も、あらかじめあのヒトから示されていたものだったから。

 速度を速めも遅めもせず、足音の方を振り返る素振りすら見せずに、それまでと同じペースで足を進める。

 するとその()はすごすごと位置を下げて何バ身か離れた後方に陣取った。

 

 ――そうそう。それでよし。

 

 安堵した胸の内が脚色に滲み出さないよう気に留めながら、少しだけ呼吸のリズムを緩めた。

 トレーナーさんが私に叩き込もうとしてくれている体内時計はまだまだポンコツで、一レースごとにうるう秒が必要になるくらいズレるけれど。

 このバ場状態、この距離にあって、今の私のペースはかなり無理をしているように映るだろう。

 バテるまで好き勝手に逃げさせておけと、皆がそう考えるはず。

 今日の私は、12人中9番人気。

 残念な記録を持つ私だから、ライバルの記憶に残らない私だから。

 だから、こんなわがまま放題の単騎駆けも多めに見て、見逃して貰える。

 最終ミーティングで聞いた、トレーナーさんの展開予想はこんな感じだった。

 

 もちろん、予想は予想に過ぎなくて。

 一人ライバルを追い返したかと思ったら、今度は内側から、さっきよりいくらか軽めの蹄鉄の音が響いてくる。

 彼我の距離を慎重に測りながら、私はひとつ前のレースで刻まれたらしい蹄跡に足先を突っ込んだ。

 お椀型に凹んだ水たまりの(ふち)をすくい上げるように、目一杯の力を込めて後方に蹴りつける。

 一瞬遅れて、真後ろから切羽詰まった息遣いが耳に届いて。

 ぐい、と加速する自分の身体と反発するように、足音が一バ身ほど距離を離したのが気配で分かった。

 

 ――貴女の気持ちも分かるけど、ごめんなさい。

 

 私達、ウマ娘である以前に女の子な訳だから。キックバックを正面からぶち撒けられて、気分良いわけないんですよね。

 泥パックと笑って受け流すには、ちょっとワイルドすぎると思うし。

 そんな、他人の拒否感に付込むような走りをする自分のことを顧みて、少しだけ醒めた気持ちで嘆息する。

 

 ――トレーナーさん。

 

 やっぱり私、真面目でも、優しい子でもないですよ。

 だって、ちっともお行儀良く走るつもりなんてない。

 折り合いをつけるとか、控えて走るとか。そんな要領の良さ、私にはない。

 意地汚く、惨めったらしく、代わり映えなく。

 バカのひとつ覚えみたいに、ココじゃないどこかに向けて突っ走ることしか知らない。

 

 それでも。

 そうだとしても。

 貴方が示してくれた道を、私に走らせてくれますか?

 

 

 

 

 

 

「力み過ぎるなよ、クレディ!」

 

 届かないとは分かっていても、祈らずにはいなかった。

 ストップウォッチが記録したラップは、作戦会議で打ち合わせたものよりもだいぶ早い。

 練習中に記録したベストはこれよりも良い時計ではあったが、コースコンディションがずっと良い条件のときの代物だ。

 間違ってもこんな『足を抜くのに力が居る』バ場じゃあない。

 先頭を走るクレディによって、ウマ娘12人の隊列はばらばらと疎らに引き伸ばされていた。

 当然、後方に控えているライバルの動向が気になって見回していると、横合いから呆れた調子の声が投げかけられる。

 

「どっちよ、力みすぎてるのは」

 

 ほら、手。と、プリマエトワールに促されて自分の手を見る。

 ストップウォッチの側面に刻まれた滑り止めノッチの跡が、親指の付け根にクッキリと浮かび上がっていた。

 

「べつに初めてじゃないでしょ。あの子のレースを見るの」

 

 雨合羽の下で笹葉耳を振るわせて、彼女は続ける。

 ピチャピチャと跳ねる雨垂れの歌に包まれながら、声はくぐもることなくはっきりと僕の耳に届いた。

 

「そうは言うけどさ……」

 

 咄嗟に言い返してはみたものの、直後に続く言葉は繋がらなかった。

 

 クレディは以前のようにひとりで飛び出していくことなく、しっかり『ピーキング』を守った。

 僕は彼女の立ち居振る舞いを、一時期問題のあった膝まわりはもちろん、尻尾の先から頭の天辺まで、見落としがないよう丹念に確認した。

 前回の選抜レースで成績が振るわなかった根本原因――蹄鉄だって新しく打ち直した。

 気休めの言葉しかかけてあげられなかった前回とは違って、ライバルの分析も、レース戦略も、展開予想も事前に詰め切った。

 そして、――彼女はすでに僕達のもとを離れ、ゲートを飛び出した後だった。

 

『ハナを切る3番、クレディカイゼリンが全体を引っ張る展開。3バ身離れてナラガンセット、その外やや後ろに9番シャバランケ、1バ身差デュアリングステラ、アナザーデイと続く――』

 

 今まさに3コーナーに差し掛かろうとするウマ娘たちの足取りを、実況のアナウンスが白熱した声色で叫ぶ。

 幸か不幸か、僕が事前に描いた()()()のとおり、レースは進んでいた。

 

『600m通過タイムは――36秒4!』

 

 ただ一つ、ラップタイムを除いては。

 芝とは真逆で、ダートレースは一般的にバ場が悪いほど走破タイムが縮む。

 水たまりがそこかしこに浮かぶような不良バ場ともなれば、流石にぬかるみに足を取られて遅くはなるけれど。

 それを加味しても、このタイムは選抜レースの平均ペースを軽く上回っていて、最早メイクデビュー戦のソレに近い。

 

 掛かっていやがる。速すぎたんだ。

 歴戦のレースファンならば、彼女の道行きをそう生暖かい視線で一瞥して、ずっと後方、不良バ場に適応しスタミナを温存している子たちに注視先を移すだろう。

 去年までの僕ならば、きっとそう。

 だが今の僕は中央所属のトレーナーで、彼女が自分の走りに掛ける動機を、思いを()っている。

 だから彼女の走りを、最後まで見届ける責務がある。

 

 泣いても笑っても、後はクレディ自身がどうレースを走り切るかにかかっている。

 このスタンドから僕が彼女にしてやれることは、もうない。

 分かっている。分かってはいるのだ。

 それなのに――、

 

「大丈夫よ。あの子は、きっと」

 

 ストップウォッチを握る掌に感じる湿り気が、雨粒によるものか冷や汗によるものか分からなくなった、その時。

 エトワールは何を憚る様子もなく、こともなげにそう言った。

 ダートコースを疾走するウマ娘たちに視線は向けたまま、彼女が纏う雰囲気は穏やかで、僕とは違って動揺も緊張も感じられなかった。

 そんな佇まいを見て、つい先日の出来事を思い出す。

 

 彼女がチーム練習の後にクレディと二人連れ立って最後のロードワークに出かけた日の、さらに翌日の出来事。

 レース対策の資料を受け取りに来た二人が見せた、気心の知れた、遠慮のない言葉のぶつけ合いを。

 つい数日前のことだから、忘れるほうが難しいといえばそれまでなのだが。

 ここのところ一歩引いたような態度が目立っていたクレディが、妙に遠慮なく強気に出ていたから、思いのほか記憶に残っていた。

 

『4コーナーを回って後続が距離を詰め始めた! 大きく動いた10番・ジューヌエコール、後方から強気のまくりを見せるか!』

 

 実況音声に一段強く熱量が籠もる。

 スタンドで観戦する学生やトレーナーたちのざわめきが強くなる気配を感じて、僕は先手を打ってエトワールにささやきかけた。

 あの日、二人の間にどんなやり取りがあったのか。

 大人の僕が踏み込むのはちょっと気が引けたけれど、()っておきたい気持ちが抑えられなかった。

 

「んー? 別に」

 

 エトワールは雨粒の浮いたスタンドの手すりを掴んで、足元はつま先立ちになりながら、ぐいぐいと前へ身を乗り出す。

 

「ちょっと、昔話をしただけ」

 

 そう言って、なんでもない日常を噛みしめるように彼女は笑った。

 いよいよ最終直線に差し掛かったウマ娘たちがスタンド目掛けて一気に迫る。

 エトワールは一際声高く、変わらず先頭をゆくウマ娘目掛けて声を張り上げた。

 

 ――クレディカイゼリン。

 

 何かを振り切ったように明るくて、梅雨空さえも吹き飛ばしてしまいそうなほどに晴れやかな声色で。

 そうしてエトワールは、黙ったままで居る僕の顔を、少しだけ怒気を含んだ面持ちで振り仰いだ。

 

「トレーナーが、自分の担当のことを一番に信じてあげなくてどうすんの?」

 

 言葉に続けて、雨合羽の腰元の生地がビョコンと勢いよく跳ね上がる。

 今日がこんな湿気た空模様でなく、彼女がいつもの学生服姿だったとしたら。

 きっと、良くしなる尻尾で脇腹をひっぱたかれていたに違いなかった。

 

「……そうだね」

 

 大人気ない感想だと笑われてしまいそうだけれど。

 僕の知らないクレディの姿を()っている彼女のことを、少しだけ羨ましく思う。

 クレディことを一番近くで見て、一番深く案じているはずの同室に、そんな内心を明かすのは気が引けた。

 

 今更、「まだ担当じゃない」なんて言うのは野暮だろう。

 交わした言葉も、走りに掛ける期待も、フリーのウマ娘ひとりに負わせる重さをとっくに超えてしまっているのだから。

 

 拳の中にストップウォッチを強く握り込んで、自分の胸板を強く叩く。

 鈍く響いた痛みを飲み下し、緊張に高鳴る鼓動をなだめる。

 ゆっくり息を吐いて、画面に映る800m通過のラップを遅ればせながら確認した時。

 おや、と思わず瞬きした。

 

「ペースを、落とした?」

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