信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-35.手のひらふたつ分だけ携えて/ What We Hold True -2

 

 選抜レースは、早くも終盤にさしかかっていた。

 

「はっ――、はっ――、はっ――、はっ――」

 

 平坦な第4コーナーを内ラチ沿いに回る。

 点々と蹄跡が刻まれたダートの路面が、眼前に緩く弧を描いている。

 行く手のコース脇にハロン棒が突き立っていて、そこがゴールまで残り400m地点であることを示していた。

 通り過ぎたところでいよいよ始まるのが最後の障害、高低差2.4mの坂だ。

 長さがある分、勾配はそこまでキツくない。

 けれど、先頭で足を使った状態でいざそれを目の前にしてみると、ほとんど壁みたいに見えた。

 

 前回の選抜レースを思い出す。

 芝コースにも同じような位置に坂はあったけれど、あちらのほうが短くて高低差も低め。

 それでも途中でスタミナの限界が来てしまって、登りきった先の直線ではラストスパートと呼ぶには烏滸(おこ)がましいくらいへろへろの走りしかできなかったっけ。

 

「はっ――――、はっ――――、はっ――――」

 

 ぬかるむ足元の感触を確かめながら、ほんの少しだけ息を整える。

 跳ね回る心臓の鼓動に引きずられ、体内時計はもう誤差の帳尻なんて合いっこないくらいに崩れてしまっていた。

 ラップタイムがいくつかなんて、もう自分では分からない。

 それでも3コーナーのスパイラルカーブからここまで、気持ち抑えめに走ったお陰だろうか。

 両足に感じる疲労感にはまだ余裕があって、身体の外側に意識を向けられるくらい、頭の中もきりりと澄み渡っている。

 

『仕掛けるタイミングは、君の感覚に任せる』

 

 コースの構造と、レースに出走するライバルたちの情報をおさらいした後で、トレーナーさんはそう言った。

 

『自分自身の足を信じて大きく踏み出せる位置が、きっと君にとって理想のスパート地点だから』

 

 記憶を呼び起こしながら、顔に打ち付ける細かい雨滴を手首で拭って払う。

 

『逃げウマ娘の君に、切れ味はいらない』

 

 泥濘(でいねい)を跳ね飛ばす足音の波は、まだ後ろに。

 けれど、そろそろ無視できないくらいの距離まで近づいてきた。

 

『上がり最速もいらない』

 

 コーナーが終わる。

 直線へ踏み出す。

 それまで弧線をなぞっていた隊列が、最内から大外までぱっと花開く。

 遠くで響いていた遠雷が、空を()って稲光を撒き散らし、やがて驟雨(しゅうう)を運んでくるように。

 

『ただ、我慢強く、諦め悪く、最後の瞬間まで――』

 

 靴底を通して感じる路面の抵抗が、斜め方向の反発に変わったとき。

 石段に差し掛けた一歩目の踏み上げを思い描いて、叫びとともに最後のスタミナを火にくべた。

 

「前へ――!」

 

 ――私自身を信じて進む。それで、良いんですよね?

 

 問いかけは届くはずなくて、答える声だってもちろん聞こえるはずないけれど。

 送り出してくれた時と同じように、きっとあの丘の向こう側で、待っていてくれるはずだから。

 

 

 走る。

 走る。

 駆ける。

 駆ける。

 斜度のある路面に爪先を()じ込んで。

 体重を掛けて体を持ち上げる。

 その繰り返しを規則正しく、リズムだけは跳ね上げて。

 登坂のキモはピッチ走法。

 私はもともと上背がそれほど高くない。

 当然歩幅も人並みだから、普段から一完歩よりも足の回転で距離を稼いでいる。

 それをちょっとアレンジするだけ……、に思えたけれど、思っていたよりも加速が乗らない。

 

「くっー―」

 

 踏み込んだ蹄鉄を、ぬかるみがずぶりと音を立てて飲み込む。

 練習では何度も駆けたコースのはずだけれど、いつもより足に加わる抵抗はずっと強かった。

 でもそれは、なにも私だけに降りかかる災難じゃない。

 東京レース場を模した長いホームストレッチを舞台に、後ろから直線一気の勝負をかけようとする末脚自慢たちにとっては、ずっと重たい足枷になる。

 序盤に開いたリードを縮めるのにも相当苦労するはず。

 だから一番警戒するべきは――。

 

「っしゃぁあ――――!」

「りゃぁあァッ――――!」

 

 気合一声。

 勝負を掛けてきたのは、案の定番手以降の位置でレースを進めていた先行勢だった。

 彼女たちから見れば、私が持つリードもせいぜい3、4バ身にすぎない。

 少し足に発破を掛けるだけで、容易(たやす)く尻尾を掴める距離だから。

 先頭を行く私には、少しの躊躇(ためら)いも、逡巡(まよい)も許されない。

 

「――――」

 

 (はや)く。

 もっと(はや)く!

 心の叫ぶままに、両の足を突き動かす。

 前半で飛ばしたぶんだけ、既に疲労がきつく絡みついている。

 重力に抗って身体を押し上げるたび、後から後から鉛の重りを巻き付けられるように倦怠感が積み上がっていく。

 悲鳴を上げ始めた裏腿(うらもも)の筋肉に鞭を打ち、水気が染み込んで重たくなったシューズの爪先を遮二無二に踏みしめて、坂の残り50mを一息に登り切る。

 

「――――っぁ」

 

 頭ひとつ出して覗き込んだ、坂の頂上。

 一気に開けた視界の先にゴール板が見えた。

 

 けれど――遠い。

 

 残りたったの200m。

 ウマ娘の襲歩(ギャロップ)なら15秒とかからない距離。

 ずしりと重くなった両足には、それが果てしなく遠い道のりのように思えて、難所を制した達成感が、ひと呼吸置いて及び腰に変わった。

 そうなってはいけないはずだったのに、行き足が鈍る。

 まずい、と思い直したときには、耳元すぐ近くにぬかるみを蹴立てる蹄鉄の音が聞こえていた。

 

 ほんの少しだけ後ろに振り向けた視界の端に、ゼッケン番号が映り込む。

 酸欠でチカチカと明滅する思考の狭間を手繰って、記憶と照らし合わせる。

 彼女たちが背負う番号のもとには、順当に1、2、3番と上位人気が集まっていた。

 突出しすぎず、展開に遅れず、重馬場に(すく)われて行き足の鈍るリスクも少なくて、手堅く勝ちを狙えるはず。

 そんな人気――つまり、信任の証。

 

 羨む気持ちがないと言えば嘘になる。

 けれど、名前も顔もわからない多くのヒトたちから、一方的に期待を預けられたとしたら。

 私はきっと、重み(おそれ)に押しつぶされてしまうだろう。

 けれど――。

 

『クレディカイゼリン――!』

 

 声が聞こえる。

 他でもない自分の名前を呼ぶ声が。

 実況音声にしてはよく耳に馴染んだその音色が、風切り音を叩き割って飛び込んできて。

 萎えかけた闘争心に再び火が灯った。

 

 まだ走れる。

 まだ進める。

 交わした約束と同じ分だけ。

 私が預けて、私が貰った信頼と同じ分だけ。

 他のウマ娘が負うものに比べたら、ほんの些細な重さなのかも知れないけれど。

 一欠片たりとも両手から取りこぼさないように、ゴールまできっちり持って還る。

 

 それが、私がやるべきこと。

 それこそが、今私にできる走り。

 

 だから――。

 

 スタミナはとっくに使い果たしていて、根性もついさっき灰に変わった。

 

 それでも最後に残った意地だけを片っ端からかき集め。

 

 白く、白く、真っ白に焼き尽くして。

 

「ッ、やあああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ――――!」

 

 声の続く限り、私は前へ駆け続けた。

 

 

 

 

『大接戦で今、ゴールイン! 判定は――――わずかにクビ差凌ぎ切って、クレディカイゼリン勝利です! 9番人気を覆し、見事な逃亡劇を見せました!』

 

 

 

 

 

 

  

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 白く染まった視界が、まだらな灰色に色づいていく。

 はね飛ぶように打ち続けていた心臓が、ゆっくりと普段のペースを取り戻してくる。

 息せき切った呼吸を整えようとして、大きく息を吸う。

 吸って、吐いて、また吸って。

 すると息継ぎの合間に雨垂れが飛びこんで喉奥を打った。

 そのせいで、大きく()せてしまう。

 

「ちょっとちょっと、こんなところで横にならない! びしょ濡れじゃないの、アンタ!」

 

 咳き込んでいると、びちゃびちゃと水たまりを蹴立てる足音が、怒気をまとった声を運んでやってきた。

 ひょい、と覗き込んできた顔は、汗だか雨粒だかで(にじ)んでクッキリとした像を結ばない。

 青いレインコートを被っているせいもあって、なおさら正体が分からなかった。

 

「う――ん……」

 

 私を抱き起こそうとしゃがみ込む拍子に、レインコートの首元からもみあげの髪束が左右二筋滑り出る。

 それを辿っていくと、奥にはくりんとしたシニヨンが揺れていて。

 私を見つめる一対の瞳は、宵空を思い出させる、赤紫寄りの深い(あお)

 その中に一点、一番星のように輝く光の粒。

 

「……エト?」

「――以外に誰が居るっていうのよ。疲れたのは分かるけど……ほら、気をつけて立って」

 

 今のあんた、なかなか扇情的(せくすぃー)な格好になってるから。

 そんな言葉とともに、ジャージのジャケットが体操服の上から被せられる。

 腕を引かれるまま姿勢を起こし、周囲を見回してみると、どうやらコースの外の芝生に倒れ込んでいたみたい。

 意識朦朧状態にもかかわらず、泥濘(でいねい)のど真ん中に顔面ダイビングなんて真似をしなかったあたり、なるほど、案外私にも年頃の女の子(花のトレセン中等部)のイメージを守ろうとする本能はあるらしい。

 

 ジャージジャケットに袖を通しながら、そんな風にまとまらない考えをツギハギして立ち上がる。

 足早に観客席のほうへと私を引っ張り出そうとするエトに連れられて、重たい足を引きずりながらコースの外ラチ側へ歩いていく。

 すると――、

 

「君、ちょっといい? さっきの走りは見事だったわ。ぜひスカウトを――」

「ぜひうちのチームに迎え入れたい。君の走りをもっと磨いていこう――」

「専属トレーナーとして立候補させてくれ! 君ならこの先ダート三冠も――」

 

 コースの外へ出かかった私に向けて、いくつもの呼び声と、キラキラとした期待に満ちた視線が押し寄せる。

 クリップボードを携えたキャリアウーマン然としたトレーナー。

 ロマンスグレーの髪を丁寧に整えた初老のトレーナー。

 ツンツンと跳ねた頭のやんちゃそうな若手のトレーナー。

 後ろにも何人か、胸元にトレーナーバッジを光らせた大人たちが控えている。

 思わず、同じレースを走った他の面々のほうをとっさに目で追ってみると、扱いは別格と言っていいほどだ。

 結果ひとつでこうも変わるものか、という驚きと。

 "私"という一人の存在が、ほんの少しだけ世界に受け入れられたような気がして、胸の中がほんのり温かくなった。

 

 けれど、深く頭を下げてその全てを謝絶する。

 私が帰らなくちゃいけない場所は、(かえ)さなくちゃいけない場所は、ココじゃないから。

 

「ごめんなさい、先約があるんです」

「ああっ、待って――」

 

 慌てた声が追いかけてくるのを背中で跳ね除けて、エトが避けてくれた人波をかいくぐって進む。

 人波の一粒ひと粒は学生服の上にレインコートを着たウマ娘たちで、通りがかりに両サイドから口々に労いと称賛の言葉が投げかけられた。

 一つひとつに頭を下げ返し、ようやくの思いで切り抜けたその先には、同じくレインコート姿のヒトが待っていて。

 ()は私たちを出迎えると、そっと頭上に傘を差し掛けてきた。

 

「お疲れ様。一着おめでとう。君ならやれるって信じてたよ」

 

 そう言ってトレーナーさんは柔らかく微笑んだ。

 掛けられた言葉が、心の奥底で重く冷え固まっていた感情を温め、融かしていく。

 

 ここまでさんざん足踏みをして。

 回り道をして。

 ひとりで突っ走って。

 

 それでもそんな私のことを見放さずにここまで付いて来てくれたヒト。

 

 私はようやく、期待に――信頼に答えられたんだ。

 

 鼻の奥がツンと塩っぱくなる。

 思わず目をつぶって、こみ上げてくる感情の波を押さえつけようとしたその時。

 お向かいから「ぎゃあ!」という悲痛な叫びが聞こえた。

 出かかった嗚咽(おえつ)がするりと胸奥へ引っ込んで、驚きとともに私は目を開ける。

 

「そーんなこと言って、道中じゃあんたが掛かったんじゃないかーってビクビクしてたわよ、このオッサン」

 

 ポロシャツの上からトレーナーさんの脇腹をつまみ上げて、エトはニヤニヤ笑いを浮かべながら混ぜっ返した。

 対するトレーナーさんはというと、そんなエトに怒るでなく、どうにも気まずそうな顔をして直前までの微笑みを強張らせている。

 

「うっ……言うなよ、エトワール。正直、クレディの本番力を侮ってたのは確かだけど――、というか僕ぁまだオッサンじゃない。()()()()です! 君らと干支一周分も変わらんからな!」

「確かに。子供のからかいにムキになるあたりはまだまだよね」

「……抜かしよる」

 

 ひとしきりそうやり合った後で、お互いにガハハ、ニヒヒと笑顔を向け合った。

 

 ……この二人、一体いつの間にこんな風に軽口を叩き合うような仲になったのかしら。

 

 私の知らないところで、何事か色々と腹を割って話したのかもしれない。

 そんな二人の距離感が、温かそうで、羨ましくて。

 そんな二人と同じ場所に居たいと、新しい願いが胸の中に生まれて。

 

「トレーナーさん。――いえ、小椋トレーナー」

 

 願いに押し出されるように発した呼びかけを、トレーナーさんはまっすぐに受け止めて、先を促すように小さく頷いた。

 

「私……、世間知らずで、頑固で、嫌なことから目を逸らしてばっかりで、……走る理由だって、皆に誇れるようなものじゃないですけど」

 

 ふさがりかけたカサブタを抉って傷を開くように。

 これまで見てみぬ振りをして、(ハコ)中へ次々詰め込んで、押しのけてきた良くないモノたちを、一つひとつ取り出して。

 

「それでも、走っていきたい。走って、これから私の生きる道を見つけたい。行けるとこまで。この脚が続くところまで。ですから――」

 

 空っぽに近くなった(ハコ)の底に。

 私がレースの世界に見出した光の残滓――希望が残っていた。

 

「私の専属トレーナーに、なって頂けますか?」

 

 問いかけの形をした、針路を選ぶ意思表示。

 今の私にできる、精一杯の信じ方。

 私が投げかけたそれを受け止めるように、(てのひら)が差し出された。

 

「もちろん。君に信じ続けて貰えるよう、僕も精一杯力を尽くすよ」

 

 トレーナーさんが伸ばした右手と、私の右手を向かい合わせてしっかりと握る。

 温かな熱が(てのひら)を通して伝わって――希望が、形になった気がした。

 

「――やっ! たぁぁああああ!」

 

 隣で見ていたエトは私達が結んだ握手の上から両手を載せて、歓喜の雄叫びとともにブンブンと大きく揺さぶった。

 

「うおっ! 力強っ!?」

「……なんでエトが一番喜んでるのよ」

「それを、あんたが、言わせるかぁ?」

 

 不思議に思って尋ねると、返ってきたのはこめかみをぐりぐりと押し込む人差し指の圧力だった。

 痛い。

 

「ははははっ」

 

 そんな私達のじゃれ合いが可笑しかったのか、トレーナーさんはひとつ大きな肩の荷が降りたように破顔して、纏っていた雰囲気を緩ませた。

 

「だいぶ雨で濡れただろう。身体が冷えない内に、ひとまず身支度をしておいで。……ああそうだ、その前に――」

 

 そうして彼は、私の手を取ったまま、何かを思い出したように言葉を切って。

 咳払いをひとつ挟んでから、私の手をもう一度強く握りなおした。

 

「お帰り、クレディ」

「はい。――ただいま、帰りました!」

 

 大人の男のヒトらしい、節の太くてゴツゴツした手をしっかり握り返しながら。

 私はずいぶん久しぶりに、心の底から笑っていた。

 

 

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