信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-36.明日を信じる手の中に / What We Hold True -3

 

 

「すぅ……、はぁ……」

 

 どくどくと耳元で鳴る鼓動を(なだ)めようとして、ゆっくり深呼吸する。

 

 薄目を開けた私の前には、羅針盤がひとつ掲げられている。

 文字盤には方位を示す記号を持たないかわりに、レース場のゴール板が突き立っていて。

 疾走するウマ娘の姿を(かたど)ったシルエットが、一直線にゴールを目指す指針になっていた。

 イラストの上には『新入部員大歓迎!』と大書きにされたメッセージ。

 真下には、それを掲げるグループの名前が添えられている。

 

 ―― チーム・ピクシス(Pyxis)

 

 その部室の入り口扉の前で、私はひとり足を止めていた。

 雨粒と汗に濡れそぼった身体を清め、身支度を整えて来たというのに、握り込んだ掌の中はしっとり湿り気を帯びていた。

 生唾をごくりと飲み込みながら、掌を開いて空気に晒し、また握る。

 扉の表面に突き出したL字型のノブにゆっくりと手を伸ばしながら、私はチーム練習へ厄介になった最初の日のことを思い返した。

 

 上級生たちと、そして同室との実力の差をまざまざと見せつけられたあの日のことを。

 心の中にあった劣等感も焦燥も、ひとつまとめに焼き()かした、燃えるように赤い夕焼けを。

 突然に始まったささやかなバースデーパーティと、祝福の声を乗せた温かな拍手を。

 

 そして。

 暗闇の中で揺れるロウソクの明かりの向こう側に見た、過ぎ去りし日の思い出を。

 

「……っ」

 

 ――もし、あの時と同じように、また失ってしまうとしたら。

 

 (くら)い想像が胸の中で鎌首をもたげて、私はドアノブにかけようとしていた手を引っ込めた。

 熱いほどのシャワーを当てて身も心も十分に温まったはずなのに、胸元に寄せた両手だけが、まるで寒空の下に置かれていたかのように冷え冷えとしている。

 指先を揉み込むようにこすり合わせているうちに、いつのまにか私は手と手を向かい合わせていた。

 

 もう一度、静かに目を閉じて、祈る。

 

「……大丈夫」

 

 私がここに、居たいと望むのなら。

 きっとここは、そんな未来を迎えるはずない。

 教会を飛び出してそれっきりだった不信心者が、今更どの面下げて、って自分でも思うけれど。

 私ひとりの決心だけじゃ、いつまでたってもこの扉は開きそうになかったから。

 

 ――だから今だけ、ほんの少しだけ勇気を下さい。

 

 最後にぎゅうと拳を握って、今度こそドアノブに手を掛けた。

 蝶番が擦れる音だけを微かに響かせて、扉が開く。

 結局、掛けた力は拍子抜けしてしまうほど軽かった。

 

「待ってたわよ、早く入って!」

「あっ、ちょっ――」

 

 開き始めた扉の隙間から、部屋の中の景色が見えるか見えないか。

 待ち構えていたようなタイミングで、つんのめりかけた私の手を捕まえる子がいた。

 ドアを押し開いた勢いそのままに、私の同室――エトは私のことを部屋の真ん中まで引っ張り込んだ。

 目を白黒させていると、左右から割れんばかりの拍手の雨が降り注いできた。

 

「一着おめでとう! いい逃げっぷりだったね!」 

「お疲れ様でした~♪ 重馬場の中良く頑張りましたね~♫」

「同じダートウマ娘として励みになる、本当に素晴らしい走りでしたよ!」

 

 泡を食ったまま部室の中をぐるり見回す私の前で、ピクシスの先輩ウマ娘たち三人が口々に祝福の言葉を告げる。

 部屋の奥、窓際にある机の向こう側では、二人のトレーナーが目配せしあって満足げに頷いた。

 

 私がようやく掴んだ勝利を、私の走りを、この場にいる皆が認めてくれている。

 祝福のひと言ひと言が胸を一杯にして、今日になって何度目かもう分からないけれど、涙が溢れ出そうになる。

 

「今日勝てたのは、ほかでもない皆さんのお陰です……! 未熟な私に付き合って、走りを鍛えていただいて……!本当にありがとうございました!」

 

 それをぐっとこらえ、言葉を詰まらせながら精一杯のお辞儀をすると、一際大きな拍手の渦が部室の中を満たして、私の身体をすっぽり包みこんだ。

 祝福の残響がひとしきり行き過ぎた後で、背中にそっと触れる掌の感触がある。

 

「――それで? 今日はお礼を言いにきただけじゃないんでしょ?」

 

 確かめるようなエトの視線に頷き返して、私はもう一度居住まいを正して先輩たちに向き直った。

 もう後戻りはできないんだって、まだ少しだけ心の片隅に怖さが残っていたけれど。

 これまでも、そしてきっとこれから先も、その()()は私が自分の手で抱えて行かなきゃいけないはずだから。

 その事実を一から教えてくれた、かけがえのない先輩たちに真正面から向き合って、決意を胸に抱きながら、私は宣言した。

 

「改めて――クレディカイゼリンです。今日からチーム・ピクシスの一員として……、どうか……よ、よろしくお願いします!」

「いよっ!」

「待ってました!!」

「いらっしゃいませ~♬ 後輩ちゃんげっとぉ~、やったぁ~♪」

「全く、ほんと――どれだけ待たせるのよ!」

 

 どすんと背中にかかる体重に押されて、つんのめるように踏み出した私の身体は、大きく広げられたノートさんの腕の中へと迎え入れられた。

 背中を押した両手が、そのまま身体の両脇に回されて、二人のウマ娘は前と後ろから私の体を挟み込むように抱きしめる。

 

 とくん、とくん、と脈打つ心臓の鼓動。

 ノートさんの胸板に押し当てた耳を通して聞こえたそれは、柱時計が刻むリズムのようにゆったりとしていて。

 一定のリズムで脈打つ鼓動に、思わず目を閉じて聴き()れてしまいそうになったところで、はっとして拳をぎゅうと握り込む。

 身体の前と後ろから、じんわりと伝播した温もりが、胸から、背中から身体の奥深くまで()みわたっていく。

 そうしていつの間にか、ほんの少し前まで氷のように冷たかったはずの手足の隅々まで、まるで火を入れられたかのように、熱い血潮が巡っていた。

 

 

「――それじゃ、折角だしアタシたちも改めて自己紹介しよっか」

 

 ぱん、と掌を打ち合わせる音が、部室の空気を入れ替えた。

 言葉に頷き合って、チームピクシスのウマ娘が四人、眼の前で横並びになる。

 ソアラさんが私の前へまっすぐ右手を差し出して、気ままな猫を思わせる、それでいて不思議と人好きするにこやかな笑みを浮かべてみせた。

 

「サーマルソアラだよ。マイルのレースのことならちょっと心得があるから、これからも気になることはいつでも聞いてね」

「はい! よろしくお願いします。ソアラ――先輩!」

 

 差し伸べられた手を取って、ふたりで固く握手を交わす。

 ウマ娘誰もが心の内に重さ――怖さを抱えながら前に進んでいることを私に教えてくれた人の手は、少しだけ骨張っていて力強かった。

 

「一応ピクシスのチームリーダーってことになってるけど、仕切ったり指図したりはあんまアテにしないで? 柄じゃないし、そういうのはぜんぶチーフに投げてるから」

「おい、聞こえてるぞソアラ」

 

 あっけらかんと言ってのけた先輩だったけれど、部屋の奥から声が聞こえた瞬間、笑顔を強張らせて、あらぬ方向に目を泳がせる。

 布施田チーフトレーナーが背後でにやりと歯を見せて笑いながら、先輩に釘を刺した。

 

「なら、お望み通り来週からお前の並走相手はルーキー二人に増やしてやる。そうすりゃその放浪癖も少しはマシになるだろうからな」

「……わーん、ブラックトレーナーが休ませてくれないよー、鬼ぃ、悪魔ぁ、山賊顔ぉー、うぇぇーん」

「おい」

 

 ソアラ先輩は棒読みセリフを吐きながら虚泣(うそな)きに濡れたかと思うと、一段トーンの落ちた布施田チーフの声に背を向けたまま、ひょうきんな顔でてへぺろと舌を出して見せる。

 気ままで奔放な振る舞いは、選抜レースに向けて幾度も重ねた並走で感じたと同じもの。

 息もつかせないその走りには、何度も裏をかかれ、翻弄されたっけ。

 苦笑いしながら思い返していると、ノート先輩が私の右手をそっと取り上げて、優しい手つきで包みこんだ。

 

「クレディちゃん! 改めまして、リーウェイノートですぅ〜。これからどうぞよろしくね~♬」

「こののほほーんとした感じ見て? いかにもステイヤーって感じでしょ?」

「さ、流石にそれは世間の長距離ウマ娘の皆さんに失礼じゃないかな……」

「あ〜、先に言われちゃったぁ〜♫ 長距離の駆け引きならお任せあれ~。距離延長のトレーニングだって、きっとお手伝いできるわ~♪」

 

 エトの雑な紹介にも表情ひとつ崩すことなく、ノートさんはタレ目を細めて微笑んでいた。

 ぽやぽやした雰囲気をまとってはいるけれど、ここぞという時の末脚爆発力はチーム随一だ。

 ゴールの間際まで迫った頃に、視界の外からいきなり飛んでくるから本当に恐ろしい。

 ラストスパートまで先頭近くに立って、前を向き続けなきゃいけない私のようなウマ娘にとって、決して油断なんてできない人だ。

 

 しっかり握手を結んだ後で、白魚のような繊細な手が順番を譲る。

 入れ替わるように、白いアームカバーを纏った右手が私の前に差し出された。

 

「――改めて、カミーノアルアンダ。専門はダートの中距離。脚質は得意も不得意もあるけど、逃げ以外は一応できます。今後とも、よろしく」

「アル――先輩、……えっ、別のかた!?」

 

 とっさに顔を上げてまじまじと相手の顔を見る。

 アースグリーンの瞳が輝くきりりとした精悍な顔立ちに、スッパリと切り揃えられた栗毛のひとつ結び。もちろん、見ず知らずのウマ娘が化けたりなんてしていない。

 練習の時に聞いたのと同じ丁寧な言葉遣いだけど、そこに乗った空気感は全く真逆。剃刀(かみそり)の刃を思わせるような(いかめ)しいトーンだったから、思わずそう聞き返してしまった。

 

「アレは()()()()()()。チームの中じゃこっちが素だから。アンタもミルフィーユ食べた時に見たじゃん」

「そういうことです。ピクシスの正規メンバーになったということは、今後遠慮はナシ。後ろからガンガン追ってやるから覚悟しなさい」

 

 いかにも体育会系って感じ。と小声で補足したエトの脳天を上からぐいと抑え付けながら、アルさんは告げた。

 表情は笑っているけれど、目に映る光は全然穏やかじゃない。

 

「はっ――、はいっ!」

 

 思いがけずぎゅうと手を握りしめてしまったけれど、先輩も返す刀で私の手を握り込んだ。

 言葉の鋭さとは真逆のにこやかな笑顔を浮かべて、「いい返事」と満足そうに頷いてみせる。

 

 そして――、

 

「アタシのことは、言うまでも無いでしょ?」

「ふふっ……。うん。もちろん!」

 

 エト ――プリマエトワール。

 私の寮の同室。

 一緒におんなじ夢を、小さいけれど大切な未来を叶えようとしている、私の()()

 私がそう在り続けられるように、この子にそう在り続けてもらえるように。

 これからもしっかり前を向いて、走っていかなきゃ。

 

「――さて。メンバーも定数そろったわけだし、これでピクシスも正式に再始動だね」

「そういうことだ。クレディカイゼリン、まずはチーム存続の危機を救ってくれたことに礼を言おう。……有難うな」

 

 ウマ娘たちの自己紹介が済んだところで、ソアラ先輩から水を向けられた布施田チーフトレーナーが私たちの前に進み出る。

 どんな言葉をいただくのかと思って身構えていたら、いきなりバンダナ頭をまっすぐ下げて来たもだから、私はびっくりして慌てて頭を下げ返した。

 

「えっ、あっ……、はい!? こちらこそ、体験入部の時からご指導いただいて、本当にありがとうございました」

「まぁ、そう固くなるな。お前さんの相方――小椋(おむら)とは、ヒヨッ子どころかタマゴの頃からの付き合いだ。ヒヨッ子ウマ娘が追加でもう一人増えるくらい、どうってこたぁない」

 

 思わず声を裏返しながら答えた私に、チーフはガハハ、と豪放磊落に笑って見せた。

 

「相方の相マ眼(そうまがん)に間違いはなさそうだが、まだまだ頭の殻が外れきってねぇ未熟モンだ。お前さんの走りも、選抜レースを見て、伸ばし甲斐のあるところ、叩き直さにゃならんところがよく分かった。指導と走りとで俺から教えることは違うが……、お前達はさしずめ兄妹弟子(きょうだいでし)というやつだな」

 

 兄妹弟子。

 その言葉を聞いて、はっと思い出す。

 "先生"のもとに集った、私と同じように寄る辺を持たない子どもたちのことを。

 物心つく頃まで"先生"から色々なものごとを教わって、温かい思い出も、厳しい教訓も、その全てを血肉にして育った()()()()()たちのことを。

 

「あー確かに。言われてみれば、そうなりますか」

 

 チーフの言葉を聞いて、何の気なしに、得心が行ったように、トレーナーさんは呟いた。

 そんな彼が私にくれた指導にも、チーフからの薫陶というものが息づいているはずだった。

 幼い日々に"先生"から聞いた言いつけを折につけて思い返しながら、私が日々の生活を送っているように。

 

「俺はこのピクシスのチーフトレーナーとして、メンバー全員に目を配りながら指導する。相方共々みっちりトゥインクルシリーズのイロハを叩き込んでやるから、そのつもりで着いてこい」

 

 静かに耳を傾ける私を前に、それまでの笑顔を引っ込ませて鬼瓦の鬼のような厳格さで表情を引き締めながら、チーフは告げた。

 トレーナーさんが私にくれた沢山の指導に。先輩たちやエトの走りに。

 ピクシス(Pyxis)――羅針盤として、進むべき方角を一番最初に示してみせたのは、きっと他でもないチーフその人だったのだろう。

 

「ただし、他の四人と違ってお前さんは小椋とマンツーマンだ。トレーニングメニューやら出走レースやらの細かい方針については、お前さんと相方の合意に一任する。どういう選択をしても構わんが、自分自身で納得がいくようにキャリアを積んでいけ。いいな?」

「――わかりました!」

 

 トレーナーさんと一瞬だけ目を合わせて、お互いに頷き合う。

 胸の前で拳を握り、授けられた教示をぐっと胸の中に押し込んで、私は応えた。

 チーフは満足そうに頷いて、今度はトレーナーさんのほうに向き直る。

 

「小椋、お前もだ。覚悟は前にも聞いたが、それが言葉だけでない事を実績で示してみせろ」

「ええ。言われるまでもありません」

「いい返事だ。……あともうひとつ、スカウトがあるからお前に回す仕事は控えてたが、これからはサブトレーナーとして相応の配牌を充てがってやる。研修生時代に戻ったつもりで、キリキリ働いてもらうぞ?」

 

 告げるだけ告げて、鬼瓦のような表情は崩さないまま、そんな凄みとともにニタリと笑った。

 おおよそ堅気のヒトらしからぬ口角を引き裂くような笑みは、なるほど確かに……ソアラさんが山賊と呼ぶのも納得かも。

 こわい。

 トレーナーさんは目を見開いて驚愕の表情を浮かべ、絶句した。

 

「は、――控えて、いた……あれで!?」

「なんだ、不服か?」

「……イイエ、ビリョクヲツクシマス」

「ビビっちゃって片言になってるよ」

 

 ソアラさんが横から茶々を入れ、続いてチーフの豪傑笑いが響いた。

 つられて私たちウマ娘もくすくす、けらけらと声を上げて笑い出していて、しまいにはトレーナーさん自身も困ったような苦笑いを浮かべていた。

 

「よし、それじゃぁソアラ、締めろ」

「はいはーい。それじゃあ新メンバーも加わったところでいつもの奴、やっとく?」

「いつもの奴ね~♪」

 

 ひとしきり笑いの渦が収まったところで、チーフとソアラ先輩が声を掛け合った。

 それを皮切りに、なにやらチームメンバー皆が部室の真ん中に集まり出す。

 

 なにごとだろう、とキョロキョロ目配せしているうちに。

 トレーナーさんから始まり、布施田チーフ、ソアラ先輩、ノート先輩、アル先輩、そしてエト。

 六人が順番に肩と肩を組んで、身を寄せ合って。

 ぐるりとまあるい円陣を――ひと繋ぎの()を描き出した。

 

「ほらクレディ、こっちこっち」

 

 手招きするエトとトレーナーさんの間には、ちょうどひとり分の立ち位置が空いていて。

 

「――――はい!」

 

 私は大きく息を吸い込んで、欠落した輪を埋める場所へと滑り込んだ。

 左腕をトレーナーさんの肩へ、右腕をエトの肩に回す。それに応えるように、私の左肩にはエトの腕が、左肩にはトレーナーさんの腕が組み合わされて。

 メンバーみんなが頭を突き合わせ、身を寄せ合ったところでソアラ先輩が音頭をとる。

 

「羅針盤が示す彼方まで――走るよ! ピクシス!」

「「「応っ!」」」

 

 語調も声量もばらばらで、散らばったモザイクタイルを掻き寄せたみたいに、統一感の欠片もない鬨の声。

 それでもその音色の響き合いは、記憶の中にある思い出の一幕と絡み合って。

 輪の一員として迎え入れられる喜びと、もう存在しない輪を想う苦みとが、私の中でほんの一瞬だけ切り結ぶ。

 そうして、苦い思い出だけが素直に身を引いて。

 肩を横切った二人分の体温が、私の心に確信めいた予感を残した。

 

 

 きっとこの輪は、ちょっとやそっとじゃ砕けやしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園、栗東寮。

 既に消灯時間を過ぎた廊下は、夜の静寂に包まれている。

 寮生が眠る二人部屋の扉がいくつも並ぶ中、唐突にそのうちのひとつが静かに開いて、中から水色のパジャマを纏ったウマ娘が、一歩一歩、足音を潜めながら進み出た。

 窓から差し込む月明かりを受けて、黒鹿毛の髪が艷やかな輝きを放つ。

 彼女は薄闇の中に沈む階段の一段一段を確かめるようにしながら一階まで降りて、エントランスホールの一角に置かれた電話機の元へとたどり着いた。

 頭の天辺近くに耳があるウマ娘用に、特別に長く(あつら)えられた受話器を前にして、ごくりと唾を飲む。

 手を伸ばし、一旦逡巡するように引っ込めた後で、深呼吸をひとつ。

 意を決したようにそれを掴み上げ、プッシュボタンに指を走らせる。

 呼び出し音が5回か6回続いたところで、スピーカーから誰何(すいか)の声が返ってきたのを聞いて、彼女は声を吹き込んだ。

 

「……ご無沙汰しています。……私です。クレディ、です。こんな夜更けに、すみません」

 

「今まで全然ご連絡しないで、ご心配おかけしました。……ごめんなさい」

 

「今日は……、ひとつ大きく前に進めたことがあって。……ご報告、しなくちゃって」

 

「私を担当してくれるトレーナーさんと、契約しました。……ええ、その方です」

 

「カード、まだ持っていて下さったんですね。受け取りました」

 

「私はずっと、貴女に気にかけて頂いていたのに……今更、どうお詫びすればいいのか……」

 

「……わかりました。これからは、もう少しマメに近況報告するようにします。……いえ、そうさせてください」

 

「お体にお気をつけて。……はい。おやすみなさい、"先生"」

 

 すう、という息遣いとともに、細く華奢な指先がフックスイッチを押し下げる。

 黒鹿毛のウマ娘はしばらく胸元で受話器を抱きしめたまま、静かに目を瞑った。

 俯いて、二言三言、静謐な響きをもつ呟きを残した後で、彼女はそっと受話器を戻してふたたび自室へと戻っていった。

 暗闇の中を手探りながら、おっかなびっくり歩く少女の道行きを、中天に輝く月だけが静かに眼差していた。

 

 

 

 

 

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