信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「
「や、いつかぶりだね」
そう言って片手を掲げてみせた僕の顔を見て、――自分にとっても同じことだったが――予期せぬ遭遇に、黒鹿毛のウマ娘は目を丸くした。
出入り口の自動ドアがゆっくりと閉まっていき、背後の雑踏からこの空間を隔離する。
妙にしん、と静まり返った部屋の中、無機質なオフホワイトの壁に掲げられた時計が時を刻む音だけがやたらと大きく響いた。
「選抜レースに出てると聞いてたんだけど、予定違い?」
虚を突かれたようにぽかんとした顔で立ち尽くしているところを見て助け舟を出すと、体操服の上に赤白のジャージ一枚を引っ掛けた格好の彼女は「あっ」という顔をして二の句をついだ。
「い、いえ……その予定だったんですけど、同室の子が怪我をしたって聞いて、飛んできました」
「あれま、奇遇だね。こっちは授業中に怪我をした子がいて、その
説明しつつ、スマートフォンを取り出して画像フォルダを漁る。
つい先日保存した出走表のスクショを探し当て、そこに載せられた画像と少女の姿形を照らし合わせた。
ベースの黒鹿毛が襟足に向かうごとに少し
内心の落ち着かなさを表すかのように、頭の上でぴこぴこと細かく傾きを変える笹葉形の耳。
右耳の根本には紅白の
顔立ちの輪郭は丸めであどけなさが残るが、少しつり気味の
こちらを見据える双眸には、不甲斐ない姿を晒した自分をどやしつけてトレーニングに戻る直前に見たものと同じ、
優美な弧線を描く
「えっと……先日は名乗りもせず立ち去ってしまって、ごめんなさい。私は――」
言葉を遮るように、スマホの画面をその子の方に向ける。
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4月9日 選抜レース ダート1200m右 第4R
6枠⑫番
学年 中等部3年
所属寮 栗東寮
誕生日 4月27日
耳飾 右耳一ツ結黄帯
毛色 黒鹿毛/額小星
バ体重 微減
間隔 初出走
脚質 逃げ・先行
所属 なし
名――
「
「――もうご存知、でしたか」
「いやはや、まさかこんな形で会えるとは思わなかったよ」
つい先日まで身元の情報すら分からなかった相手と、特に示し合わせたわけでもなく学園の外でたまたま再開するなんて。
奇妙な偶然もあるものだ。
不思議半分、驚き半分の感想を抱きつつ、とはいえ状況が状況だけになんとなく
「えっ、なになに? 知り合いだったの、二人共!?」
曖昧な笑みを顔に貼り付けたままでいる両者の中間地点で、この思いがけない
◆
事の次第を説明するには、時間を
勤務初日のように集団授業の教官補佐をしたり、学園から割り当てられた事務仕事を済ませたり、その合間に選抜レースへ出走する選手たちの情報を集めたり。
新人トレーナーとして勤務し始めた最初の一週間は、諸々のタスクに追われるうち、息つく暇もなく過ぎていった。
迎えたこの日の朝。出勤した途端、トレーナー室全体を包むソワソワした雰囲気が嫌でも目についた。
コーヒーサーバー前の立ち合いに、コピー機の順番待ちの最中、果てはトイレへの道行きに至るまで、同僚たちが落ち着きなく議論を戦わせている。
今日は一年に計4回行われる選抜レースの開催期間が始まる日。それも年度が切り替わって"学年"としての世代交代があった直後のタイミングだった。
「よう。今日の芝レース、どう見る? 俺はやっぱり彼女を――」
「……ハープアルファ、お前もやっぱり目を付けてたか――」
やれ何レースに出る誰々の走りがどうとか、やれあのレース展開はこうなるだろうとか、そんな会話が四方八方から漏れ聞こえてくる。
同僚であると同時に互いが互いにとってのライバル関係にあるトレーナーたちのやり取りは、新たな英才を先んじて囲い込むための情報戦を呈していた。
こちらも負けじと、ぶら下がり取材の記者よろしくベテラントレーナーにくっついて口々に質問を飛ばしている新人の輪にまぎれこんだり、手前で集めた情報を小出しにして未知のネタを引き出したりと、あちこち駆けずり回った。
同じウマ娘、同じレースについて語っていても、一人ひとりがそれぞれ違う切り口で分析している。
テキストではどうやっても手に入らない発見を、目からウロコが落ちるような思いとともに受け入れながら、答えの出ない問いを前に異なる意見がぶつかりあう渦中に身をおいてみるのも、案外楽しく感じるのだった。
そうこうしているうちに午後の課業の時間になった。
二時過ぎからはぼちぼちレーストレーニングやダンスレッスンなど実技系の授業がある。
自分をはじめ、トレーナー皆が待ち望んでやまない選抜レースは正課が終わったあとの課外活動だった。
同僚たちは三々五々校内に散っていく。
僕も一旦頭を切り替えて、割り当てられたお仕事――学生の授業補助のためグラウンドに向かった。
トレセンの体育の授業というと陸上競争のイメージがどうしても先立ってしまうが、普通の中学・高等学校とおなじ英数国理社の一般座学があるように、教養科目として器械体操や球技、武道といったカリキュラムも設けられている。
そんなわけで、この日僕が担当するのは中等部の球技の監督だった。
体育館横のグラウンドに出てみると、一クラス分の生徒たちが小グループに別れてフットサル、バスケットボール、バレーボールなんかに興じている。
そんな中、ソフトテニスのラケットは握ったものの手持ち無沙汰そうにしていたウマ娘たちが居るので声を掛けてみた。
「いやぁ、アタシら走るのはともかく、面と向かって経験者とコートで打ち合えるほど得意じゃなくってですね」
そのうちの鹿毛の一人――ナイスネイチャはラケットでポンポンと肩を叩きながらそうボヤいた。
授業の一環として練習する意欲はあるけど、かといって経験者をわざわざ付き合わせるのはちょっと抵抗があるし……という。
そんな競技スポーツ全般にありがちな悩みを吐露した彼女たちに僕は提案を持ちかけた。
「それじゃあフォーム確認しながら壁打ち練習でもする?」
提案してみると結構乗り気だったので、体育館の壁際に場所を移った。
フォアハンド、バックハンド、フォアボレー、バックボレー、サーブ、スマッシュ。
ウマ娘とヒトとでは基礎体力のスペックが大きく違うので、使用する器具からルールまで色々専用にチューニングされているが、体そのものの構造や可動域がそう異なるわけではない。なので、基本動作に関して言えばヒト学生に教えるのと大差なかった。
教科書的な範囲で正しいフォームとスタンスの取り方を教えた後で、三人を代わる代わる壁前へ誘い出してゴムボールをトスし、打たせていく。
最初こそボヤき口調だったが、次第に気合いが入ってきたのか真剣な眼差しで黙々とボールを打ち返す、赤地に緑リボンのメンコともふもふのツインテールが特徴のウマ娘、ナイスネイチャ。
えい、むん! とへんな掛け声を上げながらも、スタミナには余裕があるのか息を荒くする様子ひとつなくラケットを振るう、キャスケットを右耳に引っ掛けた栗毛のウマ娘、マチカネタンホイザ。
同じく経験者ではないとのことだが、三人の中では頭一つ抜けて整ったフォームを見せつつ機敏に立ち回る、栗毛に三つ編みボブカットのウマ娘、イクノディクタス。
三者三様だが流石はみんなスポーツ専門学校に通う生徒たちだ。体を動かすことには慣れているようで、基本的な打ち方はわりかしスムーズにマスターしたようだった。
それじゃもう少し実戦ぽくしてみようかと、二人ずつペアを組んでスカッシュ(もどき)の形式で壁打ち練習をしてみることにした。
「行きます。――それっ!」
イクノディクタスのサーブが壁に突き刺さる。
「ほあっ!」
床面で一度バウンドしたボールを、マチカネタンホイザがすくい上げるようにフォアハンドで返す。
「やっ!」
鋭く反発し背中側に回ろうとする弾道をイクノディクタスがバックハンドで受ける。
「えいっ!」
「ふっ!」
その後も、ぺしん、ぺしんとラケットの音がリズミカルにラリーを続けている。
正直なところ、あんまり自分が指導することなんて無いんじゃないかと、そんなふうに考えていた時期もありました。
「むんっ!」
甘く上がった打球を好機と見たか、マチカネタンホイザが頭上からラケットを打ち下ろすようにスマッシュ。
壁と床面が構成する角っこに勢いよく吸い込まれたゴムボールは、その反発力を遺憾なく発揮して一八〇度反発して。
「ぶっへぇ!!」
さながら糸でもついて導かれるかのように彼女自身の顔面にめり込んだ。
「タンホイザさん!?」
「だっ、大丈夫か!?」
顔を抑えて地面に倒れ込みジタバタ悶える彼女に慌てて駆け寄る。
「ひぇぇ〜ん」
「あーよしよし、どれどれ見せてごらんなさい……あらあららぁ」
ナイスネイチャが顔を上げさせると、涙声のまざった悲鳴とともに、マチカネタンホイザの鼻筋から赤い液体がボタボタと垂れ落ちる。
「うぉっ! 何か押さえるもの……ハンカチかティッシュは……」
「いやいや、大丈夫ですー。持ってますから」
「そ、そっか。でも直接血液に触れるのは衛生的に良くない――」
「ご心配なく。こんなこともあろうかと、手袋がここに」
言うが早いか、ポリ手袋を両手に装着したイクノディクタスがマチカネタンホイザの鼻先をつまむ。垂れてくる血が抑えられたところで、ナイスネイチャが手早くティッシュを折りたたんで俵型に丸めて詰め物を作る。
「ほれ入れるよー」と気安い調子で、血の滲んでくる鼻の穴にズムリと詰め物を突っ込み、あたりに垂れた血はイクノディクタスが手早く拭き取った。
大人気なく
「っし。こんなもんかな。体操服汚さなくて良かったねぇ」
「二人とも用意がいいなぁ」
「あはは……、タンホイザは昔から何かにつけて鼻血出すんですよ。ぶつけたり、体調悪かったり、ちょっと気持ちが昂ったときとか」
「普段からよく一緒に過ごしているので、私もネイチャさんも対応には慣れたものです」
「ううう……ぐすん。二人とも、いつもごめんね」
「それは言わない約束ですよ」
「良いってこと。しっかし、毎回毎回、一体どんな星のもとに生まれたのかねぇ……? おマチのこれは」
べそをかいているマチカネタンホイザの頭をなでるナイスネイチャの眼差しは慈しみに満ちていて、ちょうど姉か母親のようでなんだか微笑ましい。
鼻の粘膜が乾燥しやすかったり、毛細血管の構造が弱い体質だと鼻血が出やすいらしいが、そういう子なのだろうか。
一応、ボールが直撃したらしい鼻筋以外に、目元や眼球そのものに傷や出血がないかもペンライトで照らしつつ見てみたが、幸い特に問題はなさそうだった。
ナイスネイチャたちが施した応急処置はほぼほぼ適切で、正直自分が出る幕はない感じだったが、助言できるとしたら……。
「あとは一応、氷嚢を当てて冷やしておいたほうが早く止血できるはず」
「それでは私たちは保健室までタンホイザさんを送って――おや? どなたか……」
大事に至らなかったことにほっと胸を撫で下ろしていると、何やら音源を捉えたらしいイクノディクタスの耳が横にひねられる。
音源の主である生徒が姿を現すのと、パタパタと駆け寄ってくるバッシュの足音がヒト耳に聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「あっ、いたいた――すみませんトレーナーさん! バスケ中の子が怪我したみたいです! すぐ来て下さい!」
「Oh……マジか」
つい一瞬前に撫で下ろしたばかりの胸が(悪い意味で)どきりと高鳴った。
「あーららら。悪いことは重なるモンですね……」
「ごめん、『後で別のけが人が行くことになりそう』って保健室の先生に一言入れておいて。二人は彼女を送っていってあげて」
「ら、らいじょうぶれす。あたしは
「タンホイザさんがおっしゃるなら。――確かに。怪我人を保健室に連れてくのも人手が入り用ですからね」
「いやいや、流石に悪いよ」
「どうせならみんなまとめて連れてったほうが、トレーナーさんも説明が楽でしょ。ほら、早く行きましょ」
「む……」
生徒を小間使いみたいに扱うのはどうなのか、という遠慮と、怪我人の正体もわからないし人手は多い方がよいのか、という効率の間に立ってちょっと
結局、彼女たちが簡単な救護処置をソツなく行えることは目の当たりにしたばかりだったので、ありがたく臨時戦力として頼らせて貰うことにした。
「それもそうか――助かる!」
こちらを呼びに来た青鹿毛のウマ娘に連れられて体育館に足を踏み入れると、バスケットゴールの下に人だかりができているのが見えた。
円陣の外縁あたりで前の生徒の肩越しに内部を伺っている生徒に声を掛ける。
「ちょっと失礼、通るよー。……どういう状況?」
「ボールの競り合いで転んだときに足首を捻ったみたいです」
「なるほど……ちょっと見せてね」
ザザザ、と潮が引くように人だかりが割れた。
生徒たちがおっかなびっくりという様子で見守る中、フローリングの上に座り込み、だらんと左足を投げ出しているシニヨンヘアのウマ娘がいた。
その
額に脂汗を浮かせつつも、無言でコクリと頷いたのを見て運動靴から足を抜いて、ソックスを引き下げる。
「ううぅっ……痛っ」
たったそれだけ刺激でも、彼女の顔は
受傷から時間はそれほど経っていなそうだが、くるぶし周りの皮膚は腫れて赤らんでいるし、手の甲で軽く触れてみるとほんのり熱感もある。
つま先にそっと手を添えて、足関節を軸に軽く動かしてみると――、
「いっ、ひッ――」
言葉にならない悲鳴のような声が食いしばった歯の間から漏れ、慌てて手を話した。
「ごめんごめん。んー……、これはちょっと……」
「……悪いんですか?」
「この感じはしっかり捻挫だね。まずは保健室、だけど正直手に余るかも。今日中に病院にはかかったほうがいい」
痛みの程度から察するに、ただ捻っただけではないかもしれない。靭帯が傷ついていないか確認する必要がある。
それを正直に伝えると、シニヨンのウマ娘は目に見えて顔を青くした。
足の靭帯といえばウマ娘の走りを支える生命線だ。一連のやりとりを見守っていた周囲のウマ娘たちの間にも動揺が広がる。
「あの……練習は?」
「病院の先生の診断次第だけど、多分走るのはだめ。体重を掛けるのも最小限にしたほうがいい。治療中は安静にせざるを得ないよ」
「そう……ですか……」
がっくりと肩を落とすシニヨンのウマ娘。
気持ちは重々わかるが、アスリートとしてのキャリアを考えるとケアを最優先するべき重症度だろうと見立てはついた。
なにはともあれ、まずは応急処置が要る。
ジャージのポケットを漁ってテーピング用のテープを取り出し、患部の固定にかかる。
お手伝いとして付いてきてくれたマチカネタンホイザに――怪我人に手伝わせるのは正直気が引けるのだが、本人がやたら気合十分なので――、つま先を九〇度立てた状態で支えてもらう。
ロールから引き出したテープの始点を内くるぶしに置く。テープでかかとを包みこみ、外くるぶしまでU字型に挟み込んで、まずは一枚。
次は一枚目と平行に、ただ少しつま先側にずらして内くるぶし側から貼り始める。
テンションを掛けながら足裏の土踏まず寄りのところを通し、足の甲側に斜めに引っ張り上げる。
そこからは貼り始めと直行するようにテープを伸ばし、包帯と同じ要領で一枚目のU字型テーピングに重ねて巻き上げ、完成だ。
「一応、こんなところかな」
イクノディクタスがどこからともなく取り出してくれたハサミをお礼とともに返しつつ(本当に用意がいいな……)、仕事用スマホの電話帳を開く。
患部の
外傷応急処置の基本四点だが、テーピングはこのうち安静と圧迫をある程度担ってくれる。
とはいえ、関節部を確実に固定して安静を保つならシーネが要るし、日常生活中は足関節に
現場にある資材でできることは、ひとまずここいらが限界のようだった。
電話帳アプリから教官の連絡先を呼び出しつつ、お手伝い役たちに声を掛ける。
「――ちょっと誰か、彼女を保健室まで
「それでは私が。エトワールさん、さ、こちらへ」
周囲の助けも借りて、シニヨンのウマ娘がイクノディクタスの背中に身体を預ける。
「エト、だいじょぶ?」
「めっちゃめちゃ痛いけど、なんとか……」
「他のみんなはそのまま続けてて。先生には僕から連絡しておくから。ただ、くれぐれも怪我はしないように気を付けること!」
そう言い残して、体育館を後にする。
先導役を買って出たナイスネイチャの後を、プリマエトワール――ようやくそこでシニヨンのウマ娘に名前を聞いた――を背負ったイクノディクタス、マチカネタンホイザが続く。
その最後尾を歩きながら、まずは体育の担当教官に、続いて保健室の先生に連絡を入れる。
「――ええ、その他のケガはありません。それじゃあ救急車? ……あーまぁ適正使用ですからね。仕方ないです。――代わりに学園の車両を? それは助かります」
今向かってます、と最後に言い添えて電話を切る。
「とりあえず、教官には事情を伝えて、今日の授業は早退扱いにしてくれるって。一旦保健室に寄って、そこから車で病院だね」
最寄りの病院の救急外来には保健室から一報してもらえるらしい。
アスリート養成校の最寄りにある病院だけあって、こちらの到着時刻に間に合うように整形外科の先生がスタンバってくれる
思っていたより早く診察が受けられそうで一安心だが、それを聞いてもプリマエトワールの表情は晴れなかった。
「なんで今日に限ってこうなるのよぉ……」
「もしかして、なにか外せない用事とかあったの?」
「……選抜レース」
先頭から振り返って問いかけたナイスネイチャに、彼女は
一方、それを聞いたマチカネタンホイザは首を傾げた。
「ん……? エトちゃん、
「……アタシのじゃなくて、
絞り出すような声色だった。
それを聞いてほかのウマ娘三人は一様に表情を暗くし、ぺたんと耳を
「応援かぁー、そりゃあキッツイわぁ」
「お気の毒に……」
「そっか……ごめんね、気付かなくて」
イクノディクタス、ナイスネイチャ、マチカネタンホイザの三人とも、それぞれトゥインクルシリーズのクラシック・シニア級の第一線で目下活躍の真っ最中だ。
当然新人トレーナーである僕ですら知っている。
だが、つい数年前までは未出走――つまるところプリマエトワールたちと同じ立場にあったわけで、身につまされるところがあるようだった。
ズン、と空気が密度を増したように重苦しくなるが、無理もない。
レースファンの立場からすれば、メイクデビューや未勝利戦で勝利を収めるか、掲示板に乗るくらいでようやく
だが、当事者であるウマ娘たちにとってはそうではない。
選抜レースこそ、アスリートとしての第一歩を踏み出そうとする未出走ウマ娘にとっての晴れ舞台なのだ。
その晴れ舞台で輝きを纏うことはおろか、舞台に登ることすらままならず、やがて夢破れてトレセンを去る子もいる。
クラシック・ティアラ三冠や春秋の盾なんかをレースキャリアの目標に据え、選抜レースなどただの通過点、と
そんなのはいわゆる『外れ値』というやつで、圧倒的に少数派だ。
そんな共通認識があるものだから、学友同士、それも寮の同室ともなれば、よほど関係性が悪くなければ応援には行くものだ。
願わくばそこで好成績を収めてトレーナーに見初められて欲しいし、新たな門出を祝福してあげたいと思うのが人情、ウマ娘情だろう。
誰だってそうする。自分だって同じ立場ならそうする。
「んぁぁぁぁ、もう……! ヤんなる……」
「心中お察しします……、同室の方にも後ほど状況はお伝えしますので――」
「……いや、それはやめて」
「
「ケガしたなんて聞いたら色々気負い過ぎるから、あの子。だから寮に戻るまでは、耳に入らないようにしなきゃいけない。絶対に」
「ですがそれでは……」
「いや、一理ある」
だからこそ。
親切心から提案したに違いないイクノディクタスの言葉に被せるように、明確に拒否を唱えた彼女の思いも理解できた。
「三人とも、この件については口外禁止。憶測で何か言うような子が居たら、話をややこしくしないよう君たちから釘を差しておいてくれ」
「……承りました。トレーナーさんの指示に従います」
「お口にチャック、わかりました。むん!」
「確かに……言っちゃ悪いけど、あんまり器用そうじゃないもんね、
冗談めかして言ったナイスネイチャの言葉に、思いもよらぬ文言が含まれていて。
「く――――ッ?!」
反射的に飛び出そうになった声をどうにか抑え込むが、あっと思った時にはもう遅く、ナイスネイチャが少々戸惑い気味の面持ちでこちらを見上げていた。
「トレーナーさん……? アタシ、なんかマズいこと言っちゃいました?」
「や、……偶然ってのはあるものだな、と思っただけだよ」
大したことじゃない、と
その頭上で、キーンコーン、と時限の終わりを告げる鐘が鳴った。これで午後の課業も折り返しだ。
ここから病院受診となると、待ち時間や診察・検査にかかる時間を考えても、帰ることには日が暮れているだろう。
何の因果だか知らないが、己のめぐり合わせの悪さをちょっと恨まずには居られなかった。
実際には、この時予期すらしなかった方向に事態が動くことになる。