信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-5.真っ直ぐではいられない / Irregulars

 

 

 

 シャツの下に気持ちの悪い汗が伝うのを感じながら、左手に巻いたスマートウォッチの液晶を指で弾いた。

 

 室温は二三度。

 "春の陽気のもと、東京の最高気温は夏日に達する見込み"と天気予報が伝える今日、天井からエアコンが吹き下ろすのは冷房の涼風であるはずなのだが、それでも空気は首筋にまとわりつくように重く、じっとりとした熱を帯びている。

 最上までボタンを留めたワイシャツの襟首を引っ張ってみるが、息苦しさを緩和するには力不足だ。

 それもそのはず。その熱は他ならぬ自分自身の中から発しているのだから。

 

 大勝負に挑もうという状況下で、まさかネクタイを緩めるわけにもいかない。こんなことなら通販じゃなくてビジネスファッションの店できちんと試着すれば良かった。

 そう周囲に気取られぬよう嘆息したが、後の祭りだった。

 

 ここはトレセン学園内のとある会議室。

 部屋の中央ではすでに参加者たちが長机を囲んで席についている。

 

 長机の端、いわゆるお誕生日席に陣取ったトレセン学園理事長・秋川やよい嬢は、年若ながら役職上こういった場の雰囲気には慣れているらしく、傍らに控える秘書のたづなさんとともに学園運営に関わるらしい会話を小声で交わしている。

 たづなさんの真向かいで、腕組みしながら静かに瞑目(めいもく)しているメガネの男性が、学内で開催される公式レースを統括する『競技課』の課長。

 更にそれを横目に見る位置には、プリマエトワールの怪我の対応にあたってくれた養護教諭がいる。ミネラルウォーターのボトルを片手に椅子に掛ける姿には、昨日のような慌ただしさは見えなかった。

 

 そんなトレセン学園の中枢を担うと言っても過言ではない錚々(そうそう)たるメンツが揃った一番下手(しもて)側に、入職一週間ちょっというミジンコみたいなキャリアの青二才がポツンと一匹紛れ込んでいると、まあそんな状況だった。

 正直場違い感が凄くて若干めまいを(おぼ)えつつ、僕は自前で持ち込んだ資料の束を読み直して気を紛らわせていた。

 ことここに及んで紙面に誤字脱字を見つけようとも、それこそ後の祭りに他ならないのだが。

 

 会議の開会予定時刻から少々時はすぎ、時計の針が午後三時五〇分を差したところで、入口の扉が開いた。

 

「お待たせしました、皆さん。講義が少々長引きました。遅くなり申し訳ありません」

 

 ウマ娘がたおやかに一礼する。

 艷やかな鹿毛を獅子の(たてがみ)のようになびかせて、三日月を思わせる伸びやかな白い流星を額に宿した彼女は、トレセン学園生徒会長にして『三冠ウマ娘』の一人である"皇帝"・シンボリルドルフだ。

 トレセン研修生として過ごした月日もそう短い期間ではないので、行事のたびに壇上で威厳たっぷりにスピーチする彼女の姿は度々目にしているのだが、こうして直接顔を合わせるのは始めてだった。

 

 長机の一番下手側、ちょうど僕の対面の席につく直前、彼女は居並ぶ面々を上手側から順に睥睨(へいげい)する。

 ぐるりと巡らされた視線が一瞬だけ交錯したその時、僕は思わず生唾を呑み込んだ。

 未だ学生の身分であるはずの彼女の内からは、『貫禄がある』などという生易しい表現だけでは表しきれない――なんというか、生物種としての強大さが奥底からにじみ出るかのような、不可視のプレッシャーが放たれていた。

 当てられて早くも『帰りてぇ……』という弱音を吐き始めた本能のケツを強引に理性でぶっ叩いている己をよそに、たづなさんが口火を切る。

 

「それでは、メンバーも揃いましたので、始めさせていただきます。司会と議事録作成は私、駿川(はやかわ)たづなが務めます。どうぞよろしくお願いいたします」

『「よろしくお願いします」』

 

 特に特別な前置きもなく切り出された開会の辞ののち、一同はお互いに会釈を交わした。

 

「それではまず、昨日体育館で発生した中等部・体育の課業中の外傷事例について、救護にあたられた両名からのご報告をお願いいたします」

 

 たづなさんに促されて席を立つ。

 この会をセッティングしたのは自分であり、当然のごとく他ならぬ自分のもとに発言のトップバッターが回ってきた。

 プロジェクターのスイッチを入れ、会議資料を壁のスクリーンに投影しつつ、軽く咳払いをひとつ。

 夜なべして朱を入れたお手製のカンペを手に、努めて明朗に聞こえるよう心がけて口を開く。

 

「まず、小椋(おむら)からご報告いたします。時系列をまとめた資料がこちらです。事例発生日時は――」

 

 体育館脇でウマ娘のソフトテニスを指導中に、学生から外傷発生の通報が入り、現場に急行したこと。

 要救護者・プリマエトワールの名前と、現場での応急処置・救護に際して協力を仰いだ、ウマ娘の名前。

 保健室へ搬送後、養護教諭の簡単な診察をうけた後に()用車で病院を受診した顛末。

 おおまかな時間経過や、情報共有を行った関係者の情報も忘れずに言及する。

 

 スポーツ専門学校であるトレセンでは――もちろん起こらないに越したことはないのだが――学生の怪我は日常茶飯事である。

 当然、練習や授業にまつわる事故・怪我が発生した際の報告書はもう出来合いのテンプレートがあるので、報告もその通りに行うだけだった。

 

「迅速な通報と、小椋(おむら)トレーナーはじめ同級学生の参加による救護処置の甲斐あって、可及的速やかな病院受診が行えた事例であったと考えます。一連の活動について、私の立場から特段の瑕疵(かし)は指摘できません」

 

 僕の報告のあとで養護教諭の先生にお鉢が回ったが、特に追加の指摘はなし。

 現場でやれることはやったつもりではいたものの、お小言ぐらい頂戴するんじゃなかろうかと覚悟していたのだったが、予想に反して最後の方の声色は思っていたよりだいぶ柔らかかった。

 ちら、と向けられた視線には労うような温かさが感じられ、僕は「恐縮です」と一言答えて頭を下げた。

 と、「失礼、発言の許可を」とつづいて会場から声が上がる。

 

「競技課長、どうぞ」

「これまでご報告いただいた件に関しましては、学園内で発生した一般的な外傷事例の域を出ません。なにぶん、学内レース中に生じた事故でも、トラックコース内で発生した事故でもありませんから。……当課に声がかかった理由について、ご説明をお願いします」

 

 全く話が読めない、と言いたげな面持ちで、競技課長は問うてくる。

 その言葉を受けて、「さあ来た」と机の下で軽く太ももを叩く。

 

 ここまでは、言ってみれば事実関係の報告に過ぎない。

 本来ならば事故の事次第(エピソード)を紙面にまとめて提出するだけでも済むはずだった。脚色も誇張も、何よりこんな会議を開催する必要もない。

 だが、今回ばかりはあえて通常ならざる(イレギュラー)な手続きを取らなければ話が進まなかった。

 昨晩何度もイメージトレーニングを繰り返した内容を脳裏に浮かべつつ、僕は資料の次ページ――形式外の書式で印字した二枚目の事次第(スライドショー)に踏み込んだ。

 

「それでは、まず最初にクレディカイゼリンというウマ娘の名を挙げさせていただきます。今期の選抜レースに出走登録している、中等部の子です」

「先程の事例報告にはない名前のようですが?」

「直接的に救護活動に参加した訳ではありませんので、そちらでは挙げておりません」

 

 そう前置きしてから、僕は一連の出来事が起こった当日の彼女の動向を(つまび)らかにする。

 

 プリマエトワールが負傷した。

 ()()()として届いたその情報をクレディが耳にしたとき、彼女は既に体操服に着替えてレース用のゼッケン、蹄鉄シューズまで装備済みだったという。

 状況を確認しようとエトワール本人にLANEメッセージを矢のように送りつけるも、なしのつぶて。

 居ても立っても居られなくなった彼女は、タオルや身だしなみの諸々の入った学生カバンすらスタンドの待機席に放りっぱなしのまま、ジャージの上着一枚だけを突っかけた格好で学園を飛び出し、街中(まちなか)を行く乗用車の法定速度と大差ない俊足を遺憾なく発揮して、病院の救急外来へと飛び込んだらしい。

 そしてもれなくエトワール本人から大目玉を食らうことになったのだが、まぁそれはさておき。

 

 幸いなことに、同じレースに出走予定だった別のウマ娘を通じて、レースを『棄権する』というクレディの意向が、選抜レースを統括していた競技課のスタッフには伝わっていた。

 でなければ、きっとこんな()()()()交渉を持ち込むことはできなかった。

 

 そう、『棄権』である。

 

 資料を御覧ください、と一同に促す。

 

「選抜レースの実施要項には、()()のためレース出走を棄権せざるを得なかった場合、同じ実施期間中に出走枠の余りがあれば、追加の出走登録が可能という救済措置があります」

 

 僕がわざわざ拡大複写し下線を引いて強調した実施要項の文面を、競技課長は眉根を寄せながら目でなぞって、不満げに鼻を鳴らした。

 

小椋(おむら)トレーナーの仰ることは、おおよそ想像がつきました。そのクレディカイゼリンというウマ娘の棄権理由を公欠扱いとして、改めて出走登録を行いたい、ということですね」

「その通りです」

 

 眉根を寄せつつ、一言一句確認するように問うてくる渋面をまっすぐに見返して肯定する。

 僕の返答を聞いて競技課長はより一層顔をしかめつつ、語気を強めて反駁した。

 

「条項の拡大解釈です。そもそも公欠の定義に、『同級生の病院受診の付き添い』などという事例が含まれるはずもない!」

「果たしてそうでしょうか。解釈次第によっては、そう断言するのは早計のように思いますが?」

 

 僕の勿体(もったい)ぶるような物言いに、競技課長があからさまに歯噛みするような素振りを見せた。

 

 まあ、我ながらすんなり通るはずもない理屈を押し通そうとしているのは明白なので、この反応はある程度予想済みだ。

 なにせ参考意見を仰いだ先輩トレーナーたちからも、異口同音に『通らねぇよそれは……』と残念なお墨付きを貰っている。

 なので当然、次の一手は用意してある。ここで引き下がるつもりは毛頭無かった。

 

 とはいえ、自分よりふた回り以上は年上であろう社会人の先達に真っ向から拒絶の意をぶつけられては、心安らかに構えて居られるはずもない。

 実は机の下で膝が細かく笑い出している。

 こっちは社会の荒波に漕ぎ出したばかりのひよっ子なのである。少しくらい手加減してくれても良いじゃんね。

 そんな斜に構えた独白も、もし口に出せばきっと声が震えている。

 どこか傍観したような自嘲を絡めておかなければ、とうに戦意喪失していたに違いなかった。

 

「競技課長、僭越(せんえつ)ながら充耳不聞(じゅうじふぶん)は感心致しません。まずは彼の意見を最後まで聞いてみては如何でしょう」

 

 横合いから投げかけられたシンボリルドルフのとりなしが呼び水となって、他の参加者もぼちぼち議論の輪に混ざり始めた。

 

「思案ッ……公欠にあたる例とは、具体的にはどのようなものだったか……? たづな!」

「ええと……本校の学則で具体的に挙げられている事例としては……」

 

 秋川理事長が扇子でぺしりと己の額を叩いて思案顔を浮かべる隣で、たづなさんが机の上に群青色の本を取り出す。

 表紙にトレセン学園の校章があしらわれたそれは、成文化された学則、職員の就業規則など校内にあるルールをひとまとめにした規定集だ。

 ちなみに、学生が持つ生徒手帳は学生生活に関わる条文を抜粋し簡略化したもので、いわばこれのマイナーチェンジ版である。

 たづなさんはそれをペラペラとめくり、該当箇所の条文を指差して読み上げた。

 

「忌引き、裁判員制度による出頭、骨髄移植のための骨髄液の提供、災害ボランティア活動、教育実習や特別実習などのインターンシップ、公式試合への参加、感染症による出席停止、気象警報や地震などによる通学の困難、そして特別に、その……」

 

 ボーラーハットの下でエメラルドグリーンの瞳が僅かに見開かれ、すぐ隣を気に留めるような素振りをほんの一瞬だけ見せたが、そのまま条文を読み下す。

 

()()()()()()()()()

 

 続いたたづなさんの声は、こぉぉ、と仄かに唸りを上げる空調の音に紛れて消えた。

 一瞬で会議室に満ちた沈黙の中、その文言が意味するところは全員の知識に共有され、当然の帰結として、僕をのぞいた一同の視線が秋川理事長ひとりに注がれた。

 

「この次のスライドでお示しするつもりでしたが、今回議題に挙げさせて頂きたいのは、まさにその条項です」

小椋(おむら)トレーナー、君はひょっとして――」

 

 席を立って、視線を受けてややたじろいだ様子を見せる理事長のもとに近寄り、クリアファイルから追加の書類を取り出す。

 

「いずれ人事課を通じて理事長のもとまで行き着く()()のものですが……」

 

 言い添えて手渡したそれを小さな手が受け取って、紙面の最上部に印字された表題を視線がなぞる。

 

「驚愕ッ! 始末書とはどういうことだろうか!?」

 

 言葉通りの驚きと困惑により見開かれた両の瞳がこちらを見上げてくるのと同時。

 場の空気がざわめき、その場に居た面々がおもむろに立ち上がって書類を覗き込んだ。

 僕は、そのままの意味です、と応じて会議室に詰めた参加者全員を見渡しながら続ける。

 

「クレディカイゼリンの判断は学生内で広まった――言い方としては不適切かもれませんが――流言飛語によって(もたら)されたものであり、大元はといえば、私の不用意な情報発信が発端となっていることは明確です」

 

 席にもどり、スライドショーのページを送る。スクリーンにとある画像が大映しになった。

 スマホのキャプチャ画像を強引に引き伸ばしたせいでドットがガビガビになっているが、内容は救護にあたったウマ娘たちと自分とのグループLANEだ。

 

 ナイスネイチャら三人は、エトワールの要望を受け入れて情報が出回らないよう早々に手を回してくれていた。

 それはいい。

 だが、バスケットボールに参加していた他のクラスメイトにその場で釘をさしそびれたのが不味かった。

 情報の蛇口を中途半端に絞った結果、『怪我をした』という情報が先走って憶測に憶測を呼んだらしい。

 診察を受けて検査を済ませ、診断を聞くまでの三時間なんてメじゃない爆速で、噂だけが一人歩きしていた。

 キャプチャ画像には、予想外に拡散してしまった誤情報の火消しでてんやわんやになっているナイスネイチャたちと自分のシッチャカメッチャカなトークが続いていた。

 

「結局、色々と尾ひれのついた噂だけが当人の耳まで届いてしまった、という訳です。彼女たち二人は栗東寮の同室関係にあります。クレディカイゼリンがレースの『棄権』を選ぶ決心をするのには、十分すぎる事情でしょう」

 

 告げつつ、ばつの悪さからついつい口調が歯切れ悪くなってしまう。

 LANEのトークなどおおよそフォーマルな空間にお出しできるような格式張った会話ではないし、自らの過ちを白状する羞恥は拭いきれない。

 あいにく都合よく記憶を消し飛ばせるような特技も持ち合わせていないことだし、今後十年は寝る前にふと思い出して枕をボコスカぶん殴りたくなるような、トレーナーキャリアにおける黒歴史確定の落ち度だ。

 が、まぁそんなことはこの際どうでもいいのだ。

 自分にとっては忌々しくもある黒歴史だが、意見を仰いだ誰しもから『通らない』と断定されたこの交渉を押し通すための、証拠史料として使うことにこそ価値がある。

 むしろ今日この状況を逃せば使い所など一生来ない。

 

「重ねて申し上げますが、糾弾されるべきは私の不適切な情報管理です。どうか彼女に、今一度選抜レース出走のチャンスを与えてやることはできませんか?」

 

 相変わらず渋面を崩す様子のない競技課長、それに、この議論に裁定を下すキーパーソンである秋川理事長の二人に向けて深く頭を下げて、発言を終える。

 

「いずれにせよ、双方の意見は出揃ったようですね。確かに、お二方のどちらも納得の行く主張ではありますが……」

「うむ、承知。小椋(おむら)トレーナー……君の訴えは良く分かった。だが……この条項が実際に使われたことは、私の知る限り、過去に例がない。そして君の始末書の件も――」

 

 あどけない少女そのものの秋川理事長の顔が、みるみるうちに懊悩(おうのう)に満ちて渋いものに変わっていく。

 その小さな両肩に普段から掛かっている責任の重さ、というものを考えてみると、我ながらなんとも容易には結論の出しづらい議題を持ち込んでしまったものだ。

 

 だいぶ大人げないことをしてしまった。反省。

 とはいえルールに明文化されている以上、最終決定権は理事長その人にあるわけで……。

 

「ううむ……。長考……、皆の意見を聞きたい」

 

 額に手をやり、悩ましげな表情とともに、秋川理事長は傍らのたづなさんと目配せしつつ会場の面々に問いかけた。

 条項を文面通りに解釈すると、理事長の一存でこの議論に決着をつけることも可能ではあるはずだが、流石に今回の議題は特殊事例がすぎるということなのだろう。

 

(さあ、どうだ……?)

 

 こちらは一枚しかない切り札を切ったぞ。

 内心の焦燥を抑えつつ、こっそりと会場全体を見渡す。お世辞にも判読しやすいとは言い難い解像度の証拠画像を、参加者たちは皆目を細めて見つめていた。

 添付資料の紙面と壁面のスライドを見比べるもの、首を傾げつつ考えを巡らすもの、何事か小声で呟きつつ会議資料にペン先を走らせるもの……、それぞれの心中は伺い知れないまま、しばらく時計の秒針がカチコチと時を刻む音のみが響いていた。

 

「……ウマ娘の口に戸は立てられません。みんなお喋り好きですからね。無理もないでしょう」

 

 そして、一番最初に同情的な声色とともに意見を述べたのは、共にプリマエトワールの救護にあたった養護教諭だった。

 

「私は一介の養護教諭ですので、レースそのものについては何とも……。ただ、情状酌量の余地はあるのではないでしょうか。なにぶん、足の怪我というのはウマ娘にとっては競技人生を左右しうるものです。心配するあまり、傍から見れば時に軽率にも見えるような行動に走ってしまうような子もおります。……私自身少なからず身に覚えのあることですし」

 

 苦笑いとともにそう続けた養護教諭は、そう言って小さく肩をすくめてみせた。小さく傾げた頭の左右で、すらりと伸びた()()()が揺れる。

 

()()O()G()()()()()()が仰るのであれば、それは事実ではあるのでしょうが……」

 

 メガネを外して眉根を揉みながら、競技課長が答えた。

 目に優しくないスクショを注視して目が疲れたのだろうか。

 なんだか申し訳ない気持ちになりつつも、トレセンOG(正直初耳の情報だった)から一定の理解が得られたことで議論の流れは少しこちら側に傾いたと見え、すかさず畳み掛ける。

 

「『同級生の病院受診の付き添い』が、一般的に想定される公欠理由に値しないというのは、競技課長のご指摘の通りです。しかし、懸念されているような学則の穴をつく意図など、彼女は一切抱いていませんでした。これは間違いありません」

 

 手元に掴んだ会議資料がくしゃりと音を立てて、思いがけず自分の声に熱が篭っていることに気がついた。

 対する競技課長の顔は涼しげで、眉を少し挙げながら僕の指摘にはやはり真っ向から反論した。

 

「個別の事情として、仰ることの理解はできます。ですが問題はそこではない。競技課としては、今回の特例を仮に認めたとして、今後の選抜レース運営にどのような影響を及ぼすかも考慮しなければなりません。そして一度認めてしまった特例は、もはやその後の世代の生徒たちにとって()()()()()()()()

 

ぎり、と奥歯を噛み締めながら続く言葉を待つ僕の視線の先で、彼は再度メガネを掛け直した。

 

「この制度が救済処置としてでなく悪用された場合、――例えば、競技者にとって不利なライバルと当たってしまった場合にレースを再抽選するようなことも可能になります。著しく公正性を欠いた、()()()()()を作ることになりかねません。それは小椋(おむら)トレーナー一人がこの場で責を負ってどうにかなる問題ではない」

「……前例の善悪はともかく、できますかね? 同じように公欠という制度をハックしようとした場合に、一体どれだけの人数を口裏合わせに巻き込まなきゃいけなくなるか、想像もつきませんけれども」

 

 競技課長の言葉はぐうの音も出ない正論だった。

 ここまで風呂敷を広げておいて今更後には引けないが、緊張でカラカラに舌が乾いている。

 頬の筋肉がこわばり、意識していないと思い描いた言葉が唇の端から溢れて逃げていくような錯覚に陥る。

 その尻尾をどうにか捕まえて意見を突き返すが、その中身はというと揚げ足取りにも近い、苦し紛れの反論にすぎなかった。

 

「近代スポーツの歴史は、逸脱者による違反とルールの改訂とがいたちごっこで繰り返されてきた歴史でもある。中央のトレーナーであるなら、その事実も承知のはずだろう? ルールを創設した時分には想定し得なかったような違反だって、これから先に起こらないとは言えない」

 

 競技課長の声色は、先ほどと比べて当初の高圧的な印象は鳴りを潜めている。むしろ一言一句語りかけてこちらの理解を促そうとするかのようなものだった。

 無論、こちらの要望に対して妥協できるような取っ掛かりが新たに生まれた様子はない。

 それを頑迷と(そし)るのは簡単だ。

 だが、相手はトウィンクルシリーズという世界有数のウマ娘競技において、レギュレーションを遵守すべき立場にいる人物だ。

 一個人の立場はともかくとして、レース界の道義を担う者として譲れない一線というものがあるのだろうということは、流石に僕でも理解はできた。

 

 それきり議論の応酬が途絶え、会議室に沈黙が降りた。

 理屈と理屈のぶつかり合いで突破口は見えず、情という場外戦術も引き合いに出して勝ちの目を探ったのだが。

 結局折り合いがつく目処は見えず、議論は膠着した。

 それからしばらく、その場の誰も手を挙げず、誰も次の言葉を口にしなかった。

 

 パラパラと資料をめくる紙擦れの音。

 時計の秒針が時を刻む音。

 冷風を吐き出す空調の駆動音。

 ガラス窓の向こう側からわずかに漏れ聞こえてくる、ウマ娘たちの掛け声。

 

 静寂によって浮き彫りにされたそれらの環境音の重奏を唐突に突き崩すように、深みのあるアルトの調声が響いた。

 

「もし――――」

 

 沈黙を破ったのは、これまで議論には混ざらずに耳を傾けつづけていた彼女だった。

 

「……もし、この場で前例をつくるのならば、」

 

 控えめで、しかし確固とした信念が込められた声が、全員の耳に届いた。

 

「それは、条項を如何様(いかよう)に解釈するかという“判断”ではなく、当事者たちの“覚悟”によるものでなければならないと思います」

 

 皇帝・シンボリルドルフは、ゆらりと柳のような身のこなしで椅子から立ち上がり、会議室に詰めた全員の視線を静かに受け止めていた。

 

 

 

 




追加出走云々のくだりは筆者のオリジナル設定です。悪しからず。
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