信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-7.逃げる理由 / Watershed -1

 

 

 好きなもの。

 ときどき厳しいけれど、みんなに優しい"先生"。

 聖餐式(せいさんしき)の甘酸っぱいぶどうジュース。

 ()()()と同じ、孤児の子どもたち。

 そして何より、走ること。

 嫌いなもの。

 怒ると怖い小学校の担任の先生。

 学校の宿題(終わっていないと居残りになる)。

 意地悪な同級生。

 近所のがみがみじいさん。

 そして何より、一人になること。

 

「クレディのお父さんとお母さんは、神様のもとに居るんですよ」

 

 物心付いたころから、"先生"からはそんなふうに聞かされていた。

 無償の愛をうけて、将来への希望とともにこの世に産まれたのだと。

 でも、"神様のもとにいる両親"以外の大人たちにとっては「要らないもの」であることは、自分も、自分以外のほかの孤児の子たちも、なんとなく分かっていた。

 

 孤児院の外で暮らす子どもたちにはみんな父と母がいて、ぐっすり眠れる家があって、自分たちをなんとなく邪魔っけに扱うような大人たちもいない。

 それを羨ましく思う気持ちも、大人たちから向けられる、居心地の悪くなる視線も。

 勢いよく走り出せば、全て忘れてしまうことができていた。

 

 生まれ育った孤児院が支援を打ち切られ、じきに閉鎖されてしまうという話を聞くまでは。

 

 一人ひとり、去っていく孤児(きょうだい)たち。

 一人ひとり、居場所を()()()()()()バラバラになっていく。

 最後の一人になるのが怖くて、たった一人で逃げ出した。

 親のように見守ってくれた"先生"を、信じることができなくて。

 まっくらな未来から逃げたくて。

 走って、走って、走って。

 そうして()()()はたどり着いた。

 

「春の……ファン、感謝……祭?」

 

 赤レンガ造りの門柱から掲げられたのぼりの文字をたどたどしく読み上げる。

 門の周りには大勢の人だかりができていて、中に踏み入っていくヒトたちの声色は期待と熱気に満ちていた。

 

 何の場所だろう。

 ファンって、何の?

 

 寮の談話室のテレビで見たような、芸能人や、アーティストや、スポーツ選手の顔がいくつも浮かんでは消える。

 色とりどりの装飾が施された門のアーチをぼけっと見上げていると、入口に並ぶ人の列を誘導していた緑の服のお姉さんが声をかけてきた。

 

「こんにちは、ご来場いただきありがとうございます。こちら、パンフレットです。お嬢ちゃん、お一人ですか?」

「えっ、あっ、……はい」

 

 差し出された冊子を反射的に受け取ったは良いものの、状況がよく飲み込めずにぼけっとしているわたしに、そのお姉さんは順序立てて注意事項を説明してくれた。

 

()()は広いので、迷子になりそうになったら近くのスタッフに声をかけてくださいね! それでは、どうぞお楽しみください」

 

 柔らかく微笑むお姉さんに背を押されて、次々にアーチをくぐっていく大勢の人波の端っこに詰め込まれてしまった。

 

 ……どうしよう。

 知らない場所には子どもたちだけで行ってはいけません。という"先生"の言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 やっぱり後先考えずに飛び出して来るんじゃなかった。

 今すぐにでも戻ったほうが良いかな……。

 でも人混みを押しのけるのはメイワクだし……。

 そんな後悔が継ぎ足されて、さらにぐるぐる回る。

 でもそんな行き場のない悩みも、わたしのことを構内に押し流した人並みがぱっと開けるその瞬間までしか続かなかった。

 

「わ、わ……!」

 

 わたあめ。

 りんご飴。

 焼きそば。

 焼きにんじん。

 

 縁日で見るような屋台がいくつも並んでいて、方方から賑やかな声掛けと、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 作業をしているのはみんな自分よりも年上のウマ娘で、その誰もがすみれ色と白で彩られたセーラー服に身を包んでいた。

 学生服を着ている、ちょっと上のお姉さんたちが大勢いるところ。

 世間知らずなわたしだけれど、小学校を卒業した上級生たちが次に通う中学校というものがあって、そこの行事に『文化祭』というものがあることは、なんとなく知っていた。

 

 たぶん学校! わたしは見学に来ただけ!

 

 後から考えてみると意外や意外、大正解だったその場しのぎの理屈をこねあげて、わたしは大通りの真ん中に踏み出した。

 頭の中ではまだ"先生"がぷりぷり怒っていたけれど、まだ見ぬ()()()()()()を覗き込む好奇心には勝てなかった。

 貰ったパンフレットを握りしめつつ、道行く人混みの薄いところを通り抜け、前へ前へと進んでいく。

 目に映るもの全てを新鮮に感じながら、あちこちに目移りしつつ進んでいくと、ふわりと、どこかで嗅いだ覚えのあるような甘い香りが鼻に届いた。

 

「いらっしゃいませ~! にんじん鈴カステラ、出来立てだよー! そこのカッコいいお兄さんも、かわいいお嬢ちゃんたちも! みんな買ってって!!」

「たこ焼きもやってるでー! 青のりたっぷり、ソースたっぷり、なにわ仕込みの本格派やでー! 保健所の指導で中身は生ダコからゆでダコになったけんどな!」

「ちょっと先輩! 余計なこと言わなくていいですから!!」

 

 行列の隣で、看板を持ったウマ娘のお姉さんが、道行く人々に向けて大声で呼びかけている。

 その声に誘われたわたしは屋台の方へと近寄って中を覗き込んだ。

 調理担当のお姉さん(長い芦毛の髪で、やっぱりウマ娘だった)が、右手に持った鉄板の上でピッチャーを傾けると、黄色みがかったオレンジ色の生地が鉄板の丸い窪みの中へと次々と流し込まれていく。

 同時に、左手に握られた鉄串が目にも留まらぬ速さで繰り出され、丸くきつね色に焼き上がった生地を次々に引っくり返していく。

 じゅう、という油の跳ねる音とともに、食欲をそそる香りが立ち上り、鼻をくすぐった。

 

 ふと、頭の中にパンケーキの姿が浮かんだ。

 優しくて、暖かくて、ほんのり甘くて、少しだけバターの塩っぱさもあるそれは、いつも日曜日の礼拝のあとに、決まって"先生"が焼いてくれていたものだった。

 口いっぱいに頬張ると、おひさまに抱きしめられるような幸せを感じる、そんな味。

 じゅるりと唇の端からよだれが垂れる。

 朝ご飯も食べずに飛び出してきたのを思い出して、お腹がぐうと一声鳴いた。

 

「こんにちは! お買い物は順番だから、みんなの後ろに並んでね!」

 

 頭上から優しい声が降ってきた。

 看板持ちのお姉さんが少ししゃがんで、目線をあわせて優しい声色で話しかけてくる。

 はい! ととっさに、応えようとしたその時、お小遣いなんて一切持たずに飛び出してきたことに気づいて、わたしは歯切れ悪く言葉を絞り出した。

 

「えと、……お金……持ってない、です……」

「そ、そっか……。うーん……、あげたいのは山々だけど、流石に売り物だからなぁ」

 

 ウマ娘のお姉さんは、私の言葉を聞いてきれいな金色の耳をぺたんと萎れさせた。

 

「すみません、鈴カステラ八個入り二つ、あとたこ焼きも一皿ください」

「シチー! ちょっち堪忍や、レジ入って!」

 

 若い男のヒトの声がして、焼き担当のお姉さんが看板持ちのお姉さんに声をかけた。

 

「あっ、はい! ――にんじん鈴カステラ二つ、たこ焼き一皿で、千五百円頂きますね」

「――じゃぁこれで。この組み合わせ、鉄板が共有できていいですね。しょっぱいもの食べたあとって甘いものが食べたくなる組み合わせだし。頭いいなぁ」

「でしょ? 絶対売れるからって激推ししたんですよ」

「お陰で去年より二割は余計に買ぉてもろてます。 お兄さんも、いつでもお代わり買いに来てくれてええからね!」

「ははは、それじゃお土産に買って帰りますね」

 

 交わされる言葉。

 向かい合う笑顔。

 二人の手の間を千円札とお釣りが行き来して。

 紙パックに包まれたカステラとたこ焼きが、ウマ娘のお姉さんからヒトのお兄さんの手にわたるのを、わたしは少し離れたところで、どこか別の世界の出来事のように眺めていた。

 

 ――違う。

 本当に別の世界の出来事なんだ。

 

 「持っているヒト」たちと、「持っていないわたし」の世界。

 分かりたくなかったけれど、何度となく分からされた現実。

 何度も憧れて、その度に手を伸ばすけれど、結局届かなくて、期待を裏切られて。

 仕方ないよね。

 何度も何度も、自分自身に言い聞かせたその言葉を、今日もまた繰り返して。

 諦めて、(きびす)を返そうとしたその時。

 

「――食べる?」

 

 わたしを見て、小首を傾げながらそう尋ねて来たお兄さんに。

 交わらないはずの世界の(みぎわ)から差し伸べられたその言葉に。

 わたしは大きく頷き返していた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「――夢、か」

 

 まぶたを通して差し込んだ光に顔をしかめながら、ひとりでに言葉が出た。

 ここ数年はめっきり回数が減ったけれども、レースウマ娘になると心に決めてからというもの、時たま思い出したように見る夢。

 本当はもう少し続きがあるはずなのだけれど、一日の始まりを告げる陽光が、また今度と幕引きを告げている。

 目を開ける。

 滲んだ視界を右手の甲で拭うと、布団の上、ほぼ同じ高さからこちらを見ていたエト(同室)と目があった。

 

「今日は遅めのお目覚めじゃない」

 

 慌てて枕元のUSBケーブルを手繰ってスマホを引き寄せる。

 時刻表示に目を落とすと、普段の起床時刻からばっちり一時間は遅れていた。

 

「……寝すぎた」

 

 特段夜更かししたわけではなかったはずなのに。すごく損した気分がする。

 もやもやした気持ちを抱えつつ、掛け布団を剥ぎ取って体を起こす。

 

 エトは自分のベッドの上で両脚をコンパスのように開き、上半身をぺたりと布団につくまで投げ出していた。

 いわゆる開脚前屈、それも股関節の可動域を目一杯使ったほぼ180度近い開脚だ。

 左足は相変わらず包帯で巻かれているのに、一体どうやっているのだろうか。

 柔軟が苦手な私からすると見ているだけで体が痛くなりそうな姿勢だけれど、当の本人はいたって涼しい顔のまま、静かに息を吐きながら、むっくりと上体を起こした。

 

「走ってくるんでしょ?」

「ううん、今日は休む。……着替えとか大変でしょう?」

「いや? そんなでもないよ。膝は曲げられるし、そろそろ痛み止めも効いてきたから」

 

 サイドボードの方を見ると、殻になった薬包が無造作に転がっていた。

 エトは、捻挫した左足の膝裏に手のひらをあてがい、よいしょ、と引き寄せてベッドの上で姿勢を変える。

 薬で痛みが引くとはいっても、基本的には安静が必要だと聞いた。当然、体重をかけるわけにはいかない。

 

「部屋の中でも、物を取ったりするの面倒じゃない」

「あー、それはそうね。とりま制服だけこっちに出しておいてくれると助かる」

「包帯の交換は?」

「そんなにマメにしなくても大丈夫。またお風呂上がりに手伝ってくれればいいからさ」

 

 そう言って何の衒いもなく日課のストレッチを再開する。今度はベッドの上にごろんと横になって、上体は仰向けのまま。腰から両足を壁側に向けて、体幹に大きくひねりを加える格好だ。

 言われたとおり、彼女のクローゼットからハンガーに掛けられたすみれ色のセーラー服を取り出してデスクの上に置く

 他に何かすることがないか、私が部屋のあちこちを見回していると、エトは悩ましそうにため息を吐いて「クレディさぁ――」と切り出した。

 

小椋(おむら)トレーナーに言われたんでしょ。いつ()()が来るかわからないから、レース直前期のメニューは続けておけって」

「それは……、そうだけど……」

「だったらいつも通り――、ううん、()()()()()()気合い入れて練習しなきゃ」

 

 そりゃあ手伝ってもらえるのは有り難いけどさ、と続けて、エトはベッドの上でそれまでと逆側にごろりと転がる。

 壁際に向いて表情の伺えなくなった背中が、「話はおしまい」と告げているように見えた。

 私は少しだけ後ろ髪を引かれながらも、パジャマのボタンに手を掛けた。

 

 エトが怪我をした日。そして私が予定していた選抜レースへの出走を辞退した日でもある()()()から三日たった。

 

 これまで喧嘩らしい喧嘩をしたことが全くなかったと言えば嘘になるけれど、今思い返してみれば、あの日は過去に無いほど強い口調でお互い(なじ)りあっていた。

 トレーナーさんが仲裁してくれたおかげもあって、私には私の、エトにはエトの言い分というものがあって、それぞれ筋が通ったものであることは理屈ではわかっている。

 それでも、私もエトも口には出さなかったけれど、まだ普段のように気のおけないやり取りができるほど、気持ちが整理できているとは言えなかった。

 

 エトのベッドに背を向けて体操服の上下に着替える。

 背後からはストレッチの姿勢を変えているのだろう、ゴソゴソという衣擦(きぬず)れの音に混ざって、すぅはぁ、と深く静かな息遣いが聞こえている。

 朝と夜、起き抜けと床に就く前にたっぷり一時間をかけて行うストレッチは、彼女の日課だ。

 それぞれで行うと決めているメニューも違うらしいのだけれど、いつもの私はこの時間にはとっくに走りに出てしまっているので、朝のメニューはついぞ見たことがなかった。

 実のところ、どういう内容なんだろうか、とちょっと興味をひかれている自分がいる。

 

 でも、今日のエトの望みは、()()()()()()()()()()()()()じゃないんだろうから。

 私は私の、いつものルーチンに戻らなきゃいけない。

 

 黒鹿毛の髪に櫛を通す。気ままに眠っていたところを叩き起こされて臍を曲げていた聞かん坊たちを力ずくでいつもの髪型に押し込んだら、右耳にいつもの黄色リボンを結んで、赤白の二つダイスをその上から差し挟む。

 天辺から後ろ髪まで手鏡でざっと見回して、寝癖が跳ねていないか確認し、最後にジャージの上着に袖を通す。

 

「行ってくるね」

「ん――」

 

 二人部屋の扉を開けつつ肩越しに振り返って見たベッドの上で、背倒立の姿勢に掲げられた両足が、小さくバタ足をするように震えた。

 シンクロナイズドスイミングみたいだ。

 すらりと天井に向けて伸ばされた色白い足は、人工的に白い包帯に包まれてなお、水を得た魚のようにしなやかに見えた。

 

 




公式に背中から刺されたポイントその1
本作を書き始めたのは昨冬からだったのですが、4.5周年のタイミングでアルヴさんの生い立ちがお出しされて原稿が頓挫しかけました。
まぁでも、トレセン生の社会背景の具体例のひとつが公式設定でお出しされてある意味補強になったと考えて、「しゃーない、切り替えていく」精神で乗り切った次第。
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