滅尽龍のシリオン 作:匿名
男が知る由もないが、ここは刑務所ではなく治安局の分署であり牢屋ではなく留置所に入れられていた。つまり手錠を掛けられて連行されても犯罪者ではなく重要参考人扱いだったのだが、今回晴れて逃走罪と器物損壊罪が確定してしまった。ブリンガー長官の指示で彼自身による特例の尋問が行われる予定であったが何時まで経っても男が起きる素振りを見せないので放置されてしまっていた。
焦っているのかネズミの手も借りたいと犯罪学に明るい1人のシリオンが抜擢され、どうにかして男から情報を引き出そうとした所での脱走。分署内は蜂の巣をつついた様な騒ぎになり建物の中から様々な音が聞こえてくる、建物のすぐ外で警戒を怠らない女と寝起きのストレッチをする男。
「アンタ、自分が何でここに入れられていたか理解してるのかしら?」
羽ばたきを数回繰り返す目の前の男を捕まえる指示は受けていない、少しでも情報を得られたら仕事としては合格だ、警備の落ち度は彼女の責任ではない。
「我がホロウレイダーだからだろう」
「…それだけ?」
「後は知らん」
堂々とした返答に女が考えを巡らせる。ただのホロウレイダーである筈がない、治安局の長官がここまで執着していることが既に異常だ。今まで多くの犯罪者を目にし、陰謀の匂いに敏感な彼女は自身が知らない内に厄介事に巻き込まれているのを感じ取る。
「他にないならもう行ってもいいか?」
ナイフを投げられたのをもう忘れてしまったのか、それともはなから気にしていないのか迷惑そうに男が言う。犯罪者の自覚が全くない、確かに引き留めているのは女の方だが妙に癪だ、調子を崩されつつも何時でも踏み込める態勢を維持する。仕掛け時を探っても夜に薄く輝く金色の瞳がこちらを射貫いて躊躇ってしまう。初めて会った時もそうだった、この男の目、存在感に体が固まる。
「…っ」
男の視線が外れ、体の制御を取り戻す。急にブレーキが離れて撤回する余裕のなかった電気信号が女の体を前に飛ばす。くるんと横に避けた男の尻尾が下から迎え撃つが自分の行動に頭が追い付いていない女には対応出来ない。腹を打たれて痛みで散らばっていた思考に再起動がかかるが、着地には間に合わずに駐輪所に音を立てて突っ込む。
倒れた自転車の上で女は素早くこの後を計画する。自分が怪我をしてまで男を拘束する必要はない、しかし男の脅威を測らないまま野に放つのも気が引ける、夜も深いとはいえ街中で戦闘行為はしたくない、深く関わると危険だと理性が警告する。迷っている間に男の足音が離れていくのと同じくして大勢の足音が建物の中から近付いてくる。
(アタイらしくもないわね…)
夜空を見上げながら反省する間に男が分署の入り口を破壊し増援を遮断、敷地から出ようとした所を再びナイフが襲う。うなじを狙って投げられたそれは後ろ髪を突き抜けることは出来ず、髪に当たったとは思えない硬質な音を立てて防がれる。
「一度では足りない場合もあるのか」
ボソッと呟き、男が駐輪場の方を振り返るが倒れていたはずの女の姿が無い。横からまた首を狙ってナイフが来て掠める、飛んできた方を向いても誰も居ない。負け惜しみではなく本気のようだ。反対方向から来るナイフを叩き落とす男の背後、滑るように音もなく接近した女がふくらはぎを切り裂く。
「くっ、治ったばかりだぞ!」
左脚から血を流し服が赤黒く滲んでいく、腕を後ろに振り抜いてもまたもや姿を捉えられない。ここまでされてしまっては落とし前をつけさせるまで帰られない、男の体温が上昇していき体から白い棘が顔を覗かせる。
脚、腕、翼に対し次々と刃が振るわれ、重度こそ大したことないものの傷が増えていく。大通りと分署を隔てる壁にもたれ掛かり背後からの奇襲を潰し、そんな男に右と前からナイフが来る。両手でそれぞれ掴み、手のひらを浅く切りながら暗闇を動く影を見付ける。大きく息を吸い込み、大音量で咆哮する、近くにいる者は耳を塞がずにはいられない。男が右の足で地面を割り後ろに宙返り、登りの際にサマーソルトの様に尻尾が割れた地面を擦り、棘を加えて発射、降りの際に両手のナイフを投げて返す。
耳と脳、そして足場を揺らされて立っていることは出来ずに女は膝を付く、直後の飛来物にも復帰が間に合わず鋭い痛みが体に走る。ナイフはなんとか回避して立ち上がり、尻尾で落ちているのを回収しながら男のいた方を見る、さっきの宙返りで壁を越えていなくなってしまったようだ。逃げられた、息を吐いて体から緊張が抜ける。十中八九男は指名手配を受けるだろう、ここまで正面切って治安局に喧嘩を売ってお偉いさん達が黙っていられるなんてあり得ない。
男の背後関係、犯行動機などを考えながら入り口の封鎖を撤去しようと振り返ってカツン、と小石の転がる音、自分ではなく後ろから。音の方を確認する前に次の大きな音、砕かれた壁の一部がこちらに突っ込んでくる。迫る壁の裏、翼で押していた男はその翼を展開、扇状に広がる瓦礫に開ける視界、女を見付け瓦礫を追い越す。
ゆっくりと時間が流れるのを感じる、まだちゃんと向き直ってもいない、迎撃、回避、交渉、全てに時間が足りない。何よりあの金色の瞳を直視してしまい身が竦んでしまっている。首を掴まれ建物の壁に勢いよく押し付けられる。棘に覆われているため腕を掴めずに引き剥がせない、苦し紛れに女のブーツの爪先に仕込まれた刃で男の脇腹を蹴る。深く刺さり男が苦悶の表情を浮かべるが首を掴む右手の力は減らないどころか増していく、棘を掴んで押し返そうとしてもびくともしない。男の尻尾が女の両足の間の壁に刺さり、伸びた棘が足を絡めとる、目を狙った女の尻尾も男の左手に捕まってしまった。
「降参か?」
瞬きすることなく唸り声の中から男が声を発する。意識が薄れている女は喉を押さえられていることも相まって頷けない、微かに頭が動くだけ。反応を見た男が左手の尻尾を放す、攻撃の意思が無いことを認めると尻尾を壁から抜き首を放す。倒れてむせる女を置いて立ち去る男を引き留める者は今度こそいない。
治安局分署が受けた被害は相当なものとなり、一時的な修繕や取り次ぎなどを施して復旧の目処がついたのは既に明け方であった。普通に動ける程に回復していたネズミのシリオンも体の奥に残る疲労までは取り除けていない。女の想定通り凶悪犯という説明付きで刷られた手配書の1枚を見ながら溜め息をつく、長い夜だった、今日くらいはたっぷり休みたいが近々また潜入捜査があり、準備に駆け回らないといけない。憂鬱だが世の悪党は待ってはくれない、空腹を訴えるお腹にご褒美をあげたいが遠くまで行く気力もない、分署近くのラーメン屋で済ませてさっさと仮眠を取ろうとデスクから立ち上がる。
早朝の街はそこまで人が多くない、ここ一帯の主要な施設は営業時間が一般的で小さな店くらいしかまだ開いていなからだろう、ラーメン屋の店主は何時に寝ているのか。社会を回す歯車を実感し店主に同情を覚えながら横断歩道を渡り店に向かう。
気のせいだろうか、そうに違いない。昨夜頭に焼き付いた人物が治安局の分署の目と鼻の先のラーメン屋で食事をしている。距離があり分からないが店主と穏やかに話しているようだ、午後に手配書が出回ったらどうするつもりなのだ。恐る恐るカウンターの端に座ってもこちらに気付く様子はなくどんどん皿を積んでいく男。
「しかしお客さんよく食べるなー!」
沢山食べる客に上機嫌の店主、そいつ凶悪犯らしいですよ。心の中で忠告しながら注文を済ませ横目で男を観察する。
「しばらく腹に何も入れてなかったからな」
手に持った皿の中を空にしたのか男の大食いが止まり会計を始める。顔を見られないように女がメニュー表を立てて静かに息を潜めるが視線を感じる、この緊張感はがっつり見られている。
「下水のネズミか」
昨夜も言われた不名誉な名で呼ばれる。仕方なくメニューを置き会話する。
「ジェーンよ」
「ジェーンか」
納得して男が視線を外す。
「…それだけ?」
なんだか同じような会話が繰り返され調子が崩れる。
「何だ、また襲うのか?」
「ちょっと、誤解されるようなことは言わないで。それよりアンタまだこんな所で何してるのよ」
「食事だ」
イラッとする、そういうことを聞いているんじゃないのが分からないのか。
「アンタ指名手配されてるわよ」
「何?」
「ちょっ、え?お客さん?」
不思議そうな男と驚く店主。なんでこんな顔が出来るんだろう、当たり前だろうに。
「指名手配、懸賞金は掛けられているのか?」
「そうよ、アンタの危険性を踏まえて結構なお値段ね。皆捕まえようとするんじゃない?」
顎に手を当てて考える男とあたふたしている店主。
「我が自分で捕まえたと言ったら?」
「…それはただの自首よ」
「駄目なのか…難しいな」
こんな案はどうだとポンポンと投げてくる男に店主も乗り気になり最終的にラーメン屋の経営が危なくなったら捕まえて、後で脱走して金だけ貰えばいいなどととんでもないことを話している。店主は冗談だと思ってるかもしてないが当事者として気が気でない。
「そもそもアタイが治安局側の人間なのよ、今捕まるって思わないのかしら?」
ジェーンの呟きは馬鹿話にかき消されて聞こえない。不自然に平和な光景だった。