御倍美弥は生まれた時から、北条家に仕える事が決まっていた。
御倍家は代々北条家の寄騎――忠実なる従者――として選ばれた家系だ。
歳が同じ事もあり、美弥には単なる寄騎としてではなく、良き友人としての役割も望まれていた。
初めて乃愛に会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
春の陽光が差し込む茶室だった。
乃愛はまだ六歳で、着物姿で座布団に正座し、じっと窓の外を見つめていた。
母に連れられ、美弥が部屋に入った瞬間、乃愛の視線に射抜かれた。
感情のない目。
美弥は緊張で固くなりながらも、教えられていた通りに挨拶をこなした。
「乃愛様、御倍美弥と申します。以後、お見知りおきを」
乃愛はゆっくりと首を傾げ、何も言わずに美弥を観察した。
それから、ぽつりと呟いた。
「……一緒に遊ぶ?」
それが、二人の出会いだった。
美弥は頷き、庭に出て花を摘んだり、木陰で土遊びをしたりした。
しかし、乃愛は決して笑わなかった。
ただ、淡々と美弥の行動を真似るだけ。
美弥は不思議に思った。
この子は、何を考えているのだろう?
北条家は始国十八家の一つであり、関東軍の統帥権を預かる名家である。
長女である乃愛はその後継者として大勢の大人に囲まれていた。そして、いつもつまらなさそうだった。
――可哀そう。
幼いながらに、美弥はそう思った。
幼少期の北条乃愛は空虚で、人形のようだった。
そんな彼女が大きく変わったのは、中学への入学を目前にした時だった。
髪型、表情、仕草。全てが変わった。
ゆったりと余裕のある喋り方や態度を見せ、雰囲気も中性的なものになった。
それが「成長」と呼ばれるものなのか、美弥はまだ答えを持たなかった。
それからの乃愛は、まさに北条家の長女として相応しい振る舞いをするようになった。
寄騎以外の生徒からも慕われるようになり、白雪学園の中等部では一際目立つ存在へと変貌した。
中学三年の時には、寄騎の中でも熱心な信奉者だった東雲由香里と関係を持ち、学園中の噂を独り占めした。
北条乃愛は、仕えるべき主として完成しつつある。
しかし、高等部に上がってから乃愛は変わった。
「美弥、Kクラスの偵察を頼みたい」
入学日の夜、乃愛は通話越しにそう言った。
「……それは、どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。一色雫がKクラスに移動した事について探りを入れてほしい」
クラス選択権は、在籍中に一度しか使用できない貴重な権利である。
美弥は乃愛の判断に対して、慎重論を唱えざるを得なかった。
「乃愛……一度落ち着いた方がいい。確かに一色の動きは不自然だが、急ぐものではないだろう」
「他には由香里と早苗にも行ってもらう。これは決定事項だ」
「……由香里も?」
恋人である由香里すらも尖兵として送り出すと言うなら、美弥に拒否権はなかった。
「……了解した。しかし、Kクラスの男子に短慮を起こしたわけじゃないだろうな?」
「どうだろうね。興味があるのは事実だ」
「これで外れだったら私の学園生活は真っ暗だぞ」
「その場合、外で適当な男を見つけて繋いであげるよ」
かくして、美弥は尖兵としてKクラスに送り込まれる事になった。
「乃愛様も男に興味あったのね」
朝早くから選択権行使の為に教務前へ集まった寄騎の一人、佐倉早苗がニヤニヤと笑いながら言う。
対して、乃愛の恋人でもある東雲由香里は納得していない顔を浮かべていた。
「……世継ぎの為でしょう」
「由香里はそれで良いのか?」
美弥が問いかけると、仕方ありません、と顔を伏せた。
「乃愛様は、いずれ北条家を背負うお方です。覚悟はしておりました」
聞きながら、そう簡単に割り切れるかな、と内心でぼやく。
そして、美弥たちは手続きを終えると、無事にKクラスへ編入された。
入ってすぐ、打ち合せ通りにそれぞれが役職を取った。
東雲由香里は副委員長に、佐倉早苗は体育委員に、御倍美弥は文化委員に。
学級委員長こそ一色雫に奪われたが、クラス運営を掌握するための下準備としては十分だった。
「藤堂様、学級委員長としての提案なのですが、メッセンジャーでクラスのグループを立ち上げてもよろしいでしょうか?」
「確かにあった方が便利かも。任せてもいいかな?」
「はい、もちろんです。今日中に皆さんにも声をかけて参加して頂きますね」
一色雫が早速、クラスの主導権を取りに来ていた。
流れを阻止しようと、由香里が横やりを入れる。
「まあ! 委員長を一色さんにお任せして正解でした。とても男性慣れしているようですし」
早苗と美弥もそれに続いた。
「中学でも積極的に男性を相手にされていたのかしら。頼もしいです」
「一色家ともなると、身近にいっぱい男性がいらっしゃるのだろう。さりげなく連絡先を聞くやり方はとても勉強になる」
対して、一色雫は表情一つ変えなかった。
「私、中等部からのエスカレーター組です。白雪の中等部は残念ながら女子だけで、このような経験は藤堂様が初めてです。こう見えて、内心はとても緊張しているんですよ?」
教室にピリピリとした緊張が走る。
美弥は一色雫の仮面のような笑みをどう崩そうかと思案した。
「次の授業、いきなり数学らしいね。高校の授業ってやっぱり難しいのかな?」
不意に、藤堂瑞樹が、まるで何事もなかったかのように声をあげた。
美弥は思いもしなかった彼の行動に、動けなかった。
「みんなは数学得意? ボクはちょっと不安なんだけど」
張りつめていた空気が、一瞬にして溶けていく。
女子生徒たちが一斉に会話に入り、すぐに教室が元の賑やかさを取り戻した。
「そっか、得意な人もいるんだ。じゃあグループが出来たらそこで得意な人に授業の相談でもしようかな」
場の主導権は、藤堂瑞樹にあった。
白い肌と、やや伸びた柔らかい髪に陽光が反射し、どこか浮世離れした儚い雰囲気は人目を引く。
クラス中の視線が、彼に向いていた。
「一色さんも、ありがとうね。誰かが率先して提案してくれるのって凄く助かるから。今後も何か思いついたら教えてくれると嬉しいな」
「は、はい! 学級委員長として出来る事があれば!」
「うん。本当に助かるよ。やっぱり、外から文句言うのって誰でもできるけど、自分からやるのって一番難しいと思うから」
一色雫は、頬を赤くして、はにかんでいた。
さっきまでの仮面のような微笑は簡単に崩れ、年相応の顔を覗かせている。
それを見て、美弥はすぐに確信した。
藤堂瑞樹には、支配者の片鱗がある。
一色家と北条家の対立を前に、臆せず主導権を奪うのは常人には不可能な事で、北条家が迎える資質があると認めざるを得なかった。
他の佐倉早苗と東雲由香里も同様の意見のようだった。
その後、乃愛はすぐに顔見せに向かい、その翌日には選択権を行使してクラスを封鎖するまでに至った。
僅か三日の事だった。
ここまでは、順調だった。
問題は、最初の遺伝子提供で発生した。
「そういえば遺伝子提供がいよいよ始まりますね。遺伝子提供の際、連れていく方は決まっておられますか?」
期待を込めた一色雫の問いに、瑞樹は悩んだ表情を見せた後、庶民の女子を選んだ。
一色雫も北条乃愛も選ばれなかった。もちろん、この為に見繕われた大勢の寄騎も。
「……私が用意した子たちに、好みの子がいなかったのかな?」
北条乃愛は明らかに動揺していた。
「それにこの前、私を使った場合は娶って貰う必要があると言ったのが誤解を与えたかもしれないから、ちゃんと説明しよう」
「えっと……」
「遺伝子提供の補助は女の義務であってお手付きではないし、気軽に私を指定してくれても大丈夫だよ」
美弥がよく知る、完成されつつあった北条乃愛の姿はそこになかった。
「ああ、そうだ。背が高い子が好みでいいのかな? 私もそこそこ高いと思うんだけど、望む髪型があったりするなら言って欲しい」
媚びるような顔だった。
美弥が見た事がない表情。
「わ、私はもっと役立てるよ? 具体的に要求してくれたら何だって出来る」
「……北条さん、あまりそんな事言っちゃだめだよ」
対して、藤堂瑞樹はいつもの振る舞いを崩さなかった。
美弥はその光景を、じっと眺める事しか出来なかった。
「北条さんがボクの為に気を遣ってくれてるのは分かるんだけど……」
「……」
「普通に仲良くしてくれるともっと嬉しいかなって」
「……」
「多分、こういうのっていきすぎると良くないから」
「……あ、ああ。いや……そうか……気を付けるよ」
後は坂道を転がっていくようだった。
北条乃愛は、藤堂瑞樹に屈服した。
機嫌をうかがうように髪型を頻繁に変え、その是非を毎日問うようになった。
中学時代、全ての女子の憧れだった中性的な容姿は失われつつある。
美弥の心中は複雑だった。
完成されつつあった主が崩れつつある事に対する名状しがたい喪失感と痛み。
しかし同時に、かつて人形のようだった北条乃愛がようやく本心を見せてくれたようにも思えて、言いようのない安堵と戸惑いも抱えていた。
いずれ関東軍の統帥権を預かるべき北条乃愛にとって、この変化が良い事なのか美弥には判断がつかない。
ただ、彼女がようやく見せた欲に対し、一人の友人として尽くしたいと思った。
それに、藤堂瑞樹が北条家に迎え入れられれば、美弥の仕えるべき二人目の主にもなる。
その未来を想像すると、決して悪くないように思えた。