体育祭の練習が始まると、雲行きが怪しくなった。
男子は慣例で二人三脚に出る事になっていたが、藤堂瑞樹は事故の影響によってまともに走れないと申し出て、パートナーになる女子は走るのが遅い者を当てる事になった。
そのタイムを計測する最初の全体練習で、音無凪の態度が悪目立ちした。
凪はスタートの合図が出てもしばらく走らなかったばかりか、走り出してからも到底本気とは思えない速度だったのである。
彼女のあまりのやる気のない態度に、美弥は怒りを隠せなかった。
御倍家は北条家の寄騎であると同時に、道場を営む家系でもある。幼い頃から武道に励んできた美弥にとって、音無凪は相容れない人種だった。
「今のボク、まともに走れないから……だから音無さんは気楽にやって大丈夫だからね」
藤堂瑞樹は怒る様子もなく、音無凪に優しく声をかける。
しかし、音無凪は無言で頭を下げるだけで、喜んだ様子もない。
その態度が、美弥の怒りに更に火を注いだ。
――何なんだ、こいつは。
無気力さも、瑞樹に対する態度も、全てが気に障った。
練習後、同じ寄騎しかいない廊下で、美弥は思わず愚痴を零した。
「……やはり、我慢ならないな」
「なにが?」
「瑞樹様に対する音無の態度だ」
「ああ、あれね」
「殿方にあのような……あまりにも不埒だ」
「まあ、乃愛様がどうにかされるでしょ」
佐倉早苗が楽観的に言う。
美弥は肩を竦めた。
「どうかな。乃愛は方針を変えたように見える。当初のように他を排除する意思が感じられない」
北条乃愛は変わった。
かつての、完成されつつあった姿はもうどこにもない。
彼女は藤堂瑞樹の意向に従うだろう。
「瑞樹様は……お優しいが、甘いところもある。音無の無気力試合のようなものが許されるならば、今後のクラス運営が難しくなるだろう」
「……それで?」
早苗の問いに、美弥は迷わず答えた。
「必要があれば、私たちで指導する」
「……指導ねえ」
如月ひよりがニヤニヤと笑った。
「将来、乃愛と契りを結んで頂くならば、瑞樹様には早期に党員資格を得て頂くのが理想だ。首席クラスで卒業できるように、私たちは全力を尽くさなければならない」
Kクラスを首席クラスに押し上げるのが、美弥たちの最終的な目標でもあった。
クラスの約3割が乃愛の寄騎になったものの、ひよりの言う原住民に足を引っ張られては堪らない。
何とかしなければ、と美弥は一人決意した。
二回目の全体練習は、それから一週間後に行われた。
放課後のトラックの使用には予約が必要で、練習できる時間は限られている。更に社会奉仕や清華団との兼ね合いもあった。
この日は、競技ごとの個別練習をする事になった。
美弥は自身が参加する騎馬戦の練習を如月ひよりたちと合同で行った。
途中、自然と視線が瑞樹を探すように彷徨った。
そして、トラックの隅で音無凪と一緒にいる姿を見つける。
瑞樹が音無凪に話しかけているが、遠くから見てるだけでも凪は反応に乏しい。
練習すらせず、瑞樹を無視しているように見える姿に、美弥はまたも腹立たしさを覚えた。
「……どうして、あんな奴が」
美弥の視線は、美しい少年から離れなかった。
見た目通りの穏やかさと優しさも兼ね、そのお淑やかさは古風な美弥の理想でもあった。
それをクラスの無能な女が独占し、あまつさえ当然のようにしている態度が許せなかった。
これ以上、問題を放置するわけにはいかないと思った。
練習が終わった後の更衣室。
徐々に帰宅していく生徒を見送りながら、美弥は如月ひよりと佐倉早苗に目配せした。
二人は頷き、戸口を塞ぐように立った。
そして、最後までのろのろと着替えをしていた音無凪に美弥は声をかけた。
「音無、話がある」
着替えていた音無凪の動きが止まった。
彼女の視線はロッカーに向いたままで、美弥には向けられなかった。
「都にいる、高校一年生の男子の数を知っているか?」
凪は答えなかった。
返答など最初から期待していなかった美弥は、そのまま答えを口にした。
「正解は約500人だ。我々と同い年の男子は、東京でも500人しかいない」
ガラス戸から差し込む夕陽が、更衣室を赤く染めていた。
入口に立つ早苗とひよりは逆光で影になっている。
ロッカーの前で動かない音無凪を眺めながら、美弥はゆっくりと周囲を歩いた。
「この500人の男子生徒は、約50の名門高に振り分けられる。都の残りの350校は女子高で、大半の高校生が男子と接する機会を喪失するのが現行制度だ」
こうした人口統計からの論理立ては、党でよく使われる論法だった。
あらゆる意思決定は、秩序合理性から統計的に下されていく。
「高校一年生の女は、都に10万人いる。500人しかいない男子と接する機会がどれだけ稀有なものか、お前は正しく理解しているのか?」
凪はいつものように、ぼんやりとしたまま動かない。
その姿は、美弥からはひどく無気力に見えた。
「その腑抜けた態度を改めろ。せめて瑞樹様の御前だけでもいい。失礼のないようにしろ」
それと、と美弥は腕を組んだ。
「このままでは乃愛や瑞樹様の足を引っ張りかねない。今日は清華団も休みだろう。練習を見てやるから表へ出ろ」
凪は無言のまま動かない。
視線も、ずっとロッカーを向いたままだった。
「聞いているのか?」
反応がない事に、美弥は眉をひそめた。
「おい……」
違和感があった。
戸口の前で立っていた如月ひよりが痺れを切らしたように動く。
「もしかしてさぁ、舐めてんの?」
ひよりの手が、凪の髪を掴んだ。
前髪で隠れていた片目が露わになる。
その目は、どこも見ていなかった。
「なに……こいつ」
「ちょっと、何してんの」
見かねたのか、佐倉早苗も戸口を離れて近づいてくる。
ひよりが髪を強く引っ張り、揺すった。
「返事もできないわけ?」
「……おい」
凪の髪を握ったまま、顔を振り向かせる。
それでも、凪の焦点は合わなかった。
「……ねえ、ふざけるのも大概にしてくれる?」
ひよりの表情に、どんどん残忍な色が混じっていく。
反対に、美弥の中では違和感が膨れ上がっていた。
「返事しろって」
徐々にエスカレートしていくひよりの行動を制止しようとした時、背後から声が聞こえた。
学園内では珍しい、低く澄んだ声だった。
「何してるの?」
一斉に振り返る。
いつの間にか、更衣室の戸口が開いていた。
赤く燃える空を背に、藤堂瑞樹が立っていた。