男女比が壊れた世界でギスギスする話   作:月島しいる

26 / 73
26話

「誤解を恐れず言うならば、蛇に睨まれた蛙、という状態です」

 

 母に連れて行かれた病院で、中年の医師はそう説明した。

 その目は母に向けられていたが、まだ幼い音無凪(おとなし なぎ)にも分かるように噛み砕いているのが伝わった。

 

「これは本人の意思とは関係がない、反応の問題です。危機的な状態で、身体が凍り付く現象に近いと考えた方が理解が早いと思います」

「でも……これまでは平気だったんです。小学校にあがってから突然……」

 

 母が縋るように言う。

 医師は落ち着いた態度を崩さず、柔らかい笑みを浮かべた。

 

「それも一般的にみられる現象です。学校は社会の中でも特に画一的な場で、失敗を恐れやすくなります。お母さんも経験がありませんか? 家族の前では平気なのに、皆の前で発表する事になると吃ってしまったり、赤面してしまったり。特別な事ではありません」

「本当に……大丈夫なんですか?」

「子供は感受性がとても豊かです。人見知りの子供も多いですよね。ですが、大人になるにつれて、鈍感になっていく。図太くなっていくと言ってもいい。同時に、社会に色々な人が存在する事を学んでいく。その過程で緊張から解放され、症状がいつの間にか改善される事も多いです。気長に付き合っていく事が大事ですよ」

「先生……私はどうすれば?」

「そうですね。お母さんもあまり気にしすぎない事です。特別珍しい症状ではありませんし、まずは家庭という安全地帯を作ってあげる事が大事です」

 

 (なぎ)は椅子に座ったまま足をぶらぶらさせ、診察室の隅にある観葉植物を見つめていた。

 難しい説明を聞きながら、心の中で医師の説明をぼんやりと繰り返していた。

 

――蛇に睨まれた蛙。

 

 面白い比喩だと思った。

 蛇なんて存在しないのに、想像上の蛇に怯えている自分がおかしかった。

 

「大丈夫ですよ。環境が変わったり、大人になると急に治る人もいます」

 

 医師は安心させるように、何度もそう言った。

 大人になれば。

 しかし、まだ七歳の(なぎ)にはとても遠い話のように思えた。

 それから数年。

 症状は変わらなかった。

 学校の発表の時間はいつも沈黙して何も出来なかった。

 教師は最初は叱ったが、母が事情を説明すると、特別扱いになった。

 それがまた、(なぎ)を孤立させた。

 時折、誰かが話しかけてくれても、喉が詰まって言葉が出ない。目が合わない。視線を逸らす。

 普通の人間関係を築く事が難しく、(なぎ)は早々に普通である事を諦めた。

 そして周りが友達と遊ぶ中で、(なぎ)は一人、学業に打ち込む事にした。

 どこか完璧主義的な素養があった(なぎ)には、適性があった。

 中学に入ると、天才肌の変人として扱われるようになった。

 周囲からの評価が少し変わるようになり、(なぎ)はますます打ち込んだ。

 そして、担任からの強い推薦を受け、都でも有数の名門である白雪学園の門を叩く事になった。

 面接ではまともに受け答え出来ず、Kクラスという底辺の烙印を押されたが、(なぎ)は満足していた。

 自力で這い上がれるのはここまでだろう、という諦めもあった。

 クラスには、藤堂瑞樹(とうどう みずき)という目立つ存在がいた。

 女子生徒が彼に群がる中、(なぎ)はただ遠くから見ていた。

 ここが限界点。

 ここから先は明確な境界があった。

 Kクラスでは一色雫(いっしき しずく)や、北条乃愛(ほうじょう のあ)といった始国十八家までも動いている。

 もはや、個人の資質ではどうにもならない世界が広がっていた。

 文字通り、彼女たちとは住んでいる世界が違う。

 (なぎ)はただ、ぼんやりと遠くから眺めるだけの学校生活を送るはずだった。

 そして今、(なぎ)は暗い更衣室の隅で立ち尽くしている。

 

「都にいる、高校一年生の男子の数を知っているか?」

 

 御倍美弥(ごばい みや)の問いに、514人、と心の中で答える。

 言葉は出ない。

 

「この500人の男子生徒は、約50の名門高に振り分けられる。都の残りの350校は女子高で、大半の高校生が男子と接する機会を喪失するのが現行制度だ」

 

 私立を数え忘れているな、と(なぎ)は動かない状態でぼんやりと考えた。

 女子高の数は、正しくは408校だった。

 党が毎年発表する人口生産計画の概略の中に、正しい数字が入っている事を凪は知っていた。

 人口統計は政策決定に関する最も基本的な数字で、党員や官僚を目指すならば頭に入れておかなければいけない数字の一つだ。

 

「高校一年生の女は、都に10万人いる。500人しかいない男子と接する機会がどれだけ稀有なものか、お前は正しく理解しているのか?」

 

 貴女よりも、ずっと正しく理解しているよ。

 だから、近づくつもりもなかった。

 遠くから見ているだけで良かった。

 大人になれば治るのだと信じて、ただ準備をしながら大人しくしているつもりだった。

 

「聞いているのか?」

 

 凍り付いた身体は動かない。

 いつも通り、通り過ぎるのを待つしかなかった。

 

「もしかしてさぁ、舐めてんの?」

 

 如月(きさらぎ)ひよりの手が、(なぎ)の髪を乱暴に掴んだ。

 痛みに顔が歪む事もない。

 物理的な危険が迫っても、筋肉の硬直は解けなかった。

 

「……ねえ、ふざけるのも大概にしてくれる?」

 

 蛇に睨まれた蛙。

 幼い頃、医師に言われた言葉が脳裏をよぎる。

 

――一番恐ろしいのは、蛇じゃなくて人間だよ。

 

 如月(きさらぎ)ひよりの手に、徐々に力が入る。

 きっと、これから立てなくなるまで痛めつけられるのだろう。

 他人事のように、(なぎ)はそれを眺めていた。

 

「何してるの?」

 

 不意に、聞き慣れた男子の声が聞こえた。

 一瞬、静寂が訪れた。

 如月(きさらぎ)ひよりの手が緩み、(なぎ)の髪から離れた。

 (なぎ)はゆっくりと体を崩し、ロッカーに寄りかかった。

 息が荒い。視線はまだ床に落ちたままだった。

 身体の強張りがゆっくりと解けていく。

 

瑞樹(みずき)様……これは、その」

 

 御倍美弥(ごばい みや)の狼狽した声。

 ゆっくりと戸口へ視線を送る。

 夕陽の光が部屋を赤く染め、瑞樹(みずき)の影を際立たせていた。

 彼の表情は穏やかだが、目元には怒りの色が浮かんでいる。

 初めて見る表情だった。

 

音無(おとなし)の態度があまりにも不適切で……指導をしようと」

 

 佐倉早苗(さくら さなえ)がフォローするように口を挟んだ。

 如月(きさらぎ)ひよりも同調するように頷いた。

 

「……そうそう。なのに、返事もしないからさ」

 

 ゆっくりと瑞樹(みずき)が更衣室に入ってくる。

 (なぎ)はまだまともに動けなかった。

 視線だけで、瑞樹(みずき)の姿を追う。

 

「髪を掴んでいるように見えたけど、どういう指導をしてたの?」

 

 瑞樹(みずき)の声は低く、静かだった。

 如月(きさらぎ)ひよりが後ずさり、早苗(さなえ)は口を閉じた。

 

「わ、私は……こ、ここまでやるつもりは……」

 

 御倍美弥(ごばい みや)のさっきまでの自信に溢れた態度は崩れ去っていた。

 瑞樹(みずき)(なぎ)のそばに近づき、しゃがみ込む。

 そして、優しく手を差し伸べた。

 

音無(おとなし)さん、大丈夫?」

 

 (なぎ)の体がびくりと震えた。

 凍り付いていた身体が動き出す。

 

「……」

 

 言葉は出ない。

 (なぎ)は考えるより先に、瑞樹(みずき)の袖を掴んだ。

 瑞樹(みずき)が微笑む。そして立ち上がり、美弥(みや)たちに向き直った。

 

「それで、この指導は北条(ほうじょう)さんの指示なの?」

 

 美弥(みや)の顔が強張った。

 

「いえ……私の……考えです……」

「何を指導するつもりだったの?」

「……その……生活態度と……練習を……」

「そう。練習はボクと音無(おとなし)さんの二人でするつもりだったから、御倍(ごばい)さんたちは気にしなくていいよ。人の視線があるとうまく動けないらしくて。だから今日も、音無(おとなし)さんのこと待ってるところだったんだけど」

 

 そこで、瑞樹(みずき)は更衣室の外に目を向けた。

 視線の先には、黒崎蓮(くろさき れん)のグループがいた。

 

「彼女たちが教えてくれたんだ。なんか変な空気だったって」

黒崎(くろさき)……」

 

 如月(きさらぎ)ひよりが苦々しそうに呟く。

 対して、黒崎蓮(くろさき れん)青山遥(あおやま はるか)が不敵な笑みを浮かべた。

 

「念のため、こいつらのボスにもお話しした方が良いんじゃねえか?」

「そうっすね。ちゃんと手綱を握って貰わないと困るっすよ」

 

 身体から力が抜けていく。

 反動のように筋肉が弛緩して崩れそうになるのを、瑞樹(みずき)が支えた。

 すぐ近くに、瑞樹(みずき)の整った顔があった。

 彼は心配そうに(なぎ)の顔を覗いた後、すぐに御倍美弥(ごばい みや)に目を向けた。

 

「もう時間だから、解散にしよう。音無(おとなし)さんはボクが送るから」

 

 穏やかな言葉とは裏腹に、冷たい声だった。

 御倍美弥(ごばい みや)たちは互いに顔を見合わせた後、渋々部屋を出た。

 ひよりは最後に(なぎ)を睨んだが、何も言わなかった。

 最後に、瑞樹(みずき)(なぎ)だけが更衣室に残された。

 

「大丈夫? 立てる?」

 

 瑞樹(みずき)の言葉に、(なぎ)の喉がようやく緩んだ。

 

「……ありがとう……ございます」

 

 すぐ近くの瑞樹の顔から、目が離せなかった。

 身体の凍り付きはもう解けているのに、視線が吸い寄せられていく。

 ずっと届かないと思っていたものが、すぐそこにあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。