体育祭に向けた三回目の全体練習。
皆木鈴は冷たい目で、校庭に集められた他の生徒を観察していた。
(……北条グループが崩れたか。思ったより早かったな)
クラスの三割を占める北条乃愛のグループの様子がおかしかった。
中心人物である北条乃愛がずっと一人で、いつも隣にいた東雲由香里は気落ちした様子で離れた所にいる。
普段大きな声で指導していた御倍美弥も静かで、体育委員の佐倉早苗も大人しくしていた。
他の寄騎たちも無駄口を叩かず、その余波でクラス全体に重い空気が漂っている。
「ポイントの多い種目を一度、リハーサルしてみましょう」
一色雫だけがいつも通りの振る舞いを見せていた。
クラスの異常など気にした風もなく、淡々と種目表を見ながら言う。
「射撃は無理ですが、徒手格闘は練習した方が良いかと思うのですが」
「ああ、いいよ。相手はどうする?」
「……そうですね」
一色雫が視線を向けたのは、御倍美弥だった。
しかし、美弥はよそ見をしていて興味を見せない。
雫が悩むように首を傾げた時、黒崎蓮が一歩前に出た。
「じゃあ、私がやるよ」
自信に満ちた顔だった。
蓮は女子にしては身長が高く、手足も長い。
雫が渋るような顔を見せる。
「……随分と体格差がありますが、大丈夫ですか?」
「私の方は問題ない。体育祭じゃ階級なんてないだろ」
鈴が承諾すると、黒崎蓮が笑った。
「あまり無理するなよ?」
「……やるなら早く位置につけ」
鈴はそう言って、トラックの中に進んだ。
軽く体をほぐしながら正面を見据える。蓮が舌なめずりしていた。
自然と二人を囲む輪が出来上がっていく。
「基本ルールは体育祭と同じで、倒れたら終了。怪我をしそうなら即中止とします」
一色雫が審判として二人の間に立つ。
「おう。おチビちゃん、準備はいいか?」
「いつでも」
鈴は表情を変えず、ゆっくりと拳を構えた。
舐められるのは、慣れていた。
「では、開始ッ!」
合図とともに、鈴は土を蹴った。
陸軍や清華団で採用されている徒手格闘は、実戦での取っ組み合いを想定した戦闘術である。
必然、その重きは打撃や蹴りではなく、投げ技や締め技となっている。
開幕と同時に素早く距離を詰める鈴に対し、蓮は距離を取るように後ずさった。
「ッ!」
牽制するように放たれた蓮の蹴りが、鈴の肩をかすめた。
腰を落とし、懐に入り込む。
「まずは一発」
軽い打撃音が響き、蓮が後退する。
周囲から小さなざわめきが上がった。
「……そっちも仕込まれてるのかよ」
腹部に打撃を受けた蓮が、苦しそうに表情を歪める。
鈴は何も言わず、じっと拳を構えた。
間合いを測りながら、しばらく無言の状態が続く。
打撃を受けた事で方針を転換したのか、今度は蓮から距離を詰めてきた。
襟元を掴もうとする蓮に対し、鈴はまたしても右腕を振り放った。
「ッ!」
すぐに蓮が後ろに下がり、回し蹴りを放つ。
身長差を生かした蹴りだったが、大きい隙があった。
鈴はすぐに飛び込むと、もう一度腹に打撃を入れた。
蓮が呻き声をあげる。更に左手で一発。
「このッ!」
ふらついた蓮の手が、鈴の襟元を掴んだ。
更に距離をつめ、腹部に膝を入れる。
「ぐっ」
蓮の手が、襟元から離れた。
逆に鈴は蓮の襟元を掴むと、そのまま足をかけた。
体勢を崩した蓮が背中から倒れる。
「一本ッ!」
一色雫がすぐに間に入る。
鈴は両手で土埃を払うと、周囲を見渡した。
クラス全体が静まり返り、誰も拍手すらしなかった。
「大丈夫か?」
地面に伏した黒崎蓮に声をかける。
「くそ……」
膝が良い所に入ったらしく、蓮は何度も咳き込んでいた。
その目が恨めしそうに鈴に向けられる。
「お前……わざと打撃中心にしただろ」
「さあ、どうかな。私はおチビちゃんだから、タックルは苦手なんだ」
鈴はそう言って、遠くから見守っていた神成寧々と相原由良の元へ戻った。
「す、鈴ちゃん、すごい!」
「ね! 黒崎さんも経験者っぽかったのに!」
目を輝かせる二人に苦笑する。
「あれは経験者じゃないよ。ちょっと喧嘩慣れしてるだけだ」
黒崎蓮に視線を戻すと、緋村梨々花の肩を借りて起き上がっているところだった。
黒崎グループの四人から睨むような視線を向けられたが、鈴はそれを無視した。
「見た目でビビる必要はない。何かあったら私が対応するから言ってくれ」
「か、カッコいい……」
ちら、と周囲を見渡す。藤堂瑞樹が近づいてくるのが見えた。
「皆木さん、凄いね。習ってたの?」
「ま、まあね。小さい時からちょっと」
鈴は途端に、にへら、と表情を崩した。
ない胸を張り、得意そうにする。
「バレーが種目にあったら良かったんだけどなぁ」
寧々が残念そうに零した。
「代わりに最後のリレー、期待してるね」
「う、うん! 走り込みもいっぱいやってきたから! 頑張るよ!」
それから瑞樹は由良に視線を向けた。
「相原さんは何かスポーツやってたの?」
「私はスキーばかりで……あまり陸上競技ってやってこなかったかも」
「そっか。北海道出身だっけ。体育でもスキーをやるの?」
「えっとね、道内でも場所によって違うんだけど、冬場はスキーばかりだったかな。雪が降りづらいところだとスケート中心らしいんだけど」
神成寧々と行動するようになってから、藤堂瑞樹と接触する回数も増えた。
鈴はそっと瑞樹の横顔を見つめた。
貴重なジャージ姿で、制服の時よりも線の細さが目立つ。
特に腰の細さに妙な色気を感じて、鈴はごくりと喉を鳴らした。
「次、騎馬戦やってみましょう。出場する方はこちらへ」
一色雫が声を出し、何人かの生徒がトラックの中に進んでいく。
鈴の視線は変わらず、瑞樹に吸い寄せられていた。
だから、気づいた。少し離れた所に一人でいる音無凪を瑞樹が気にしている事に。
少し考えてから、鈴は自分から声をかける事にした。
「音無は中学で何かやってたのか?」
「……いえ、帰宅部でした」
瑞樹が安堵したような表情を見せる。
鈴は自分の行動が正しかった事を確信して、会話を繋げた。
「ふーん。まあ、気楽にやればいい。どうせ最下位クラスなんだ」
「私も全然活躍できそうにないから大丈夫だよ! 仲間だね!」
相原由良が励ますように言う。
一切の打算がなさそうなその姿に、鈴は思わず呆れた。
「ボクも運動は全くできないからね。寧々ちゃんと皆木さんに頑張って貰わないと」
瑞樹が肩を竦める。
ちら、と鈴は神成寧々に視線を移した。
由良と違い、寧々は音無凪に話しかける素振りを見せない。
(まあ、そうなるよな)
もうすぐ五月だった。
つまり、二回目の遺伝子提供がやってくる。
一回目の補助に選ばれた神成寧々の立場では、藤堂瑞樹が気にかけている音無凪は明確な脅威となる。
北条グループが崩れた今、神成寧々にとってはこのまま藤堂瑞樹を独占する事も夢ではない。
「み、瑞樹くん、そっち行って良い?」
「うん」
寧々が立ち上がり、瑞樹のすぐ隣に座る。そして、彼女はそのまま瑞樹を抱きしめた。
「つ、疲れてない? わ、私が椅子になろうかな! なんちゃって!」
豊満な胸が潰れるのを、鈴は白けた様子で見ていた。
それからふと、音無凪を見やる。
大人しそうな見た目とは裏腹に、ジャージの胸元が張り裂けそうになっていた。
(……まさか、そういう基準で選んでるわけじゃないよな?)
急に馬鹿らしくなって、クラスメイト達がリハーサルしている騎馬戦に目を向ける。
騎手になった如月ひよりが苛立った様子で他を圧倒しているところだった。
「ごめん、ちょっと抜けるね」
不意に、藤堂瑞樹が立ち上がる。
抱きしめていた神成寧々が情けない声をあげた。
「ああ」
お手洗いだろう、と深く考えず相槌を打つ。
激しくぶつかった騎馬が崩れ、歓声があがるところだった。
「……」
何か、違和感があった。
騎馬戦に出ているのは殆どが北条乃愛のグループだった。なのに、北条乃愛の応援の声がない。
鈴は立ち上がって、周囲を見渡した。
北条乃愛の姿がいつの間にかトラックから消えていた。