「
「え? ああ、以前に一度、ご飯に行こうって言われて。その時、お店とかも決まってなかったから家に誘ったんだ」
「へえ……」
声が、自然と低くなる。
「その、
「そっか」
「……私も行ってみたい」
断られる予感がして、
「今から?」
「うん」
少し悩むような間。
それから、
「じゃあ今日は一緒に食べよっか」
「ほ、ほんと? やったぁ!」
思わず跳ねるように喜ぶ。
その間に、
「
「……承知いたしました」
しかし、補佐官に拒否する権限がない事を、
軽く頭を下げ、車に乗り込む。
四月の遺伝子提供ぶりの車内。
過去の行為を思い出し、身体が熱くなるのがわかった。
「
「うーん、特に特徴はないんだけど、
「……」
補佐官は、特別な職業である。
かつての日本では、希少な男子を授かった実母がその影響力を以て地方で権勢を振るってきた背景がある。
これを排除し、権力構造を中央の党に一本化する為、補佐官は男子の疑似家族となる。
男子との相性によっては簡単に交代されてしまうが、うまくいけば母代わりの特別な存在にもなれる。
そして、
「
ニコニコしながら褒めると、ミラー越しに
向こうに会話を広げる気がないのを察し、
「
「ううん。ボクも
「ほ、ほんと?」
薄暗い車内の中、顔が紅潮するのがわかった。
意識に上ったのは、五月の遺伝子提供。
二回連続で選んでもらえる可能性は、十分にあった。
「あの……手、握っていい?」
返事より先に、手が握られた。
女子の手と違って、やや骨ばっている。
それが男を意識させた。
「えへへ……」
拒絶されなかった事に安堵し、身を寄せる。
すぐ近くに
石鹸のような、良い香りがする。
「
良い雰囲気だと思った。
五月の遺伝子提供の話があるとすれば、今に違いなかった。
街灯の明かりが定期的に車内を照らし、心地いい振動が眠気を誘う。
手から伝わる温度は、この世の何よりも温かい。
指を絡めて、すりすりと擦るだけで変な気持ちになった。
「重かったら言ってね」
こてん、と頭を
鼻先に
この時間が永遠に続いて欲しい、と思う。
しかし、すぐに
「着きました」
慌てて身を起こす。
駐車場ではなく、エントランスの前に停まっているようだった。
「じゃ、先に行こうか」
「うわ、警備員さんもいるんだ……」
二等市民向けのマンションに入るのは初めてだった。
キョロキョロしながら部屋に向かう。
「はい、どうぞ」
「お、お邪魔します……」
おずおずと中に入ると、モデルルームのように整理整頓された玄関と廊下が目に飛び込んできた。
「わ、綺麗だね」
「
リビングに入ると、すぐに
「な、なんでも食べられるよ! それだけが取り柄だから!」
精一杯の冗談に、
そうしている間に、車を駐車場に戻し終えた
「て、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと待っててね」
穏やかな時間だった。
男子の家にあがるという、望んでいたシチュエーションの一つ。
しかし、頭の中は一つの考えでいっぱいだった。
(遺伝子提供の話ってまだかな?)
◇◆◇
「ごちそうさまでした!」
「はい、おそまつさま」
食べ終わる頃には、それなりの時間になっていた。
男子の食事を食べるというのは
ただ一つ、気がかりな事があった。
(い、遺伝子提供の話は?)
適したタイミングは何度もあった。
なのに、遺伝子提供の話は一度もなかった。
「帰りはどうする?
「え、えっと」
「はい、私が責任を持ってお送りいたします」
さっきまで感情が見えなかったのに、今はどこか上機嫌に見えた。
頭の中で、ぐるぐると思考が渦巻く。
まずい。帰らされる。このままじゃ確約も貰えない。
その結果、
「わ、私! お、お泊りしたい!」
◇◆◇
そして、
「お、男の子の部屋って意外と普通なんだね」
気の利いた言葉が言えない自分が嫌になった。
すぐ隣に腰掛けた
「どういうのを想像してたの?」
「えっと、なんかもっと……すっごいの」
頭の中が、ずっとぐるぐるしていた。
眩暈も併発している気がする。
「どうしよう。寝るまで映画でも見ようか」
「私は……何でも」
甘えるように寄りかかる。
今はただ、触れていたかった。
他は何をやっても集中できる気がしない。
「……着替えるついでに、お風呂入ってくるね」
触れていた肌が離れ、
「あ……」
「すぐ戻るから、ちょっと待っててね」
「……うん」
部屋から出ていく
扉が閉まり、一人になると急速に不安が襲ってきた。
(結局、遺伝子提供の話はしてくれなかったけど……)
ベッドに倒れ込み、息をつく。
(他の女子にお願いする気なのかな……)
直接聞く勇気はなかった。
うー、と情けないうめき声をあげる。
そのままベッドの上でゴロゴロと転がった時、シーツから
すんすん、と鼻を鳴らす。
いつもの石鹸の匂い。
「……」
ベッドに潜り込み、大きく息を吸い込む。
嗅ぎなれた匂いの中に、知らない匂いがあった。
急速に頭の中が冷えていく。
「……最悪」
自分でも驚くほど低い声が出た。
立ち上がり、鞄から制汗スプレーを取り出す。
ベッドに向かって何度もプッシュし、それがじっくり染みこんでいくのを