御門玲は、久しぶりに自室で目を覚ました。
隣にいつもの温もりがない事にどうしようもない寂しさを覚えながら、洗面台に向かう。
「……」
鏡に映った玲は、寝不足で酷い顔をしていた。
それから歯を磨こうとして、歯ブラシがない事に気づく。
最近はずっと瑞樹の部屋で寝泊まりしていた為、向こうに置いたままだった。
小さく息をつき、棚から新品の歯ブラシを取り出す。
「……」
一人だけの空間が、妙に広く感じられた。
身だしなみを整え終わると、玲はすぐに隣の瑞樹の部屋に向かった。
合鍵を差し込み、そっと玄関にあがる。
リビングから声がした。
玲は努めて冷静を装いながら、足を進めた。
「……おはようございます」
リビングのソファには、瑞樹に寄りかかって甘える神成寧々の姿があった。
瑞樹が振り返り、いつもの優しい笑みを浮かべる。
「お食事の準備は不要ですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「承知いたしました」
頭を下げ、瑞樹の寝室に向かう。
扉を開けると、ドロドロに汚れたシーツが視界に入った。
換気の為に窓を開け、それからシーツを剥がし、床に転がす。
ゴミ袋が必要だった。洗面台の収納棚に取りに向かう。
そこで、玲は動きをとめた。
洗面台のコップに、見慣れない歯ブラシが置いてあった。
「……」
三つに増えた歯ブラシを見つめたまま、玲は暫く動かなかった。
そして、思い出したようにゴミ袋を取り出すと、新しい歯ブラシを乱暴に押し込んでから寝室に向かった。
◇◆◇
「本当に動かなくていいんですか?」
「焦る事はない。男というものは、女に飽きるものなのだよ」
放課後の白雪学園のカフェテリアの一角。
自信満々に語る天城久遠を、脇坂藍は半目で睨んだ。
「本当に本当ですか? 今朝、神成が瑞樹様と一緒に登校してきて話題になってましたけど。手遅れになりませんか?」
「くどい。最初に手をつけた女は最終的に飽きられる。先は長いぞ。三年もあるのだ。お前たちはこの天城の下で堂々と構えていれば良い」
「本当は北条にビビってるだけじゃないんですか?」
「……この天城が、そんな事あるはずなかろう」
天城家は、製鉄業を営む地方財閥である。
一色雫や北条乃愛を除いた本来のKクラスにおいて、最も家格が高い家でもあった。
ちょっとしたお金持ちとは隔絶した名家の中の名家であり、それ故に権力格差に敏感でもある。
藍の見立てでは、天城久遠は北条家に目をつけられる事を恐れているだけに見えた。
「目前の欲など捨てよ。コロニー入りに意味はない。最後に立っている者が勝者なのだよ」
お手付きを受けた集団であるコロニーは、一種の憧れではある。
しかし、地方財閥である天城久遠にとってあまり意味がないステータスである事も確かだった。
「でも、瑞樹様って年増の補佐官も交代せず大事にしてますよ」
「……」
「情が深い方に見えますけど、本当に本当に大丈夫なんですか?」
天城久遠とは中等部からの仲だった。
大言壮語を吐く割に生粋のヘタレであることを、藍はよく知っている。
「ビビってるだけですよね? 手遅れになったら怒りますよ?」
「……」
「それにもし、北条が早期に遺伝子提供で選ばれたらどうするんですか? 北条に睨まれながらアタックできます?」
「わ、私は定石に倣っているだけだ。他のクラスの男子だってまだ確かな情報がない。一年の一学期のKクラスでお手付きを狙うのはどう考えても急ぎすぎなのだよ」
「わかってるくせに! 瑞樹様はどう考えても大当たりですよ! さっさと覚悟決めてください!」
「慎重になるのは当然であろう。お手付きは不可逆なのだ。それに出遅れているのは私たちではない。篠宮や下川のグループだって何もしてないではないか!」
それを聞いて、藍は黙り込んだ。
久遠の言う通り、現状のKクラスで積極的に動いているのは一色雫と北条乃愛グループ以外では黒崎蓮のグループと最初に気に入られた神成寧々のグループしかいない。
「下川たちはともかく、篠宮たちがただ傍観してるだけとは思えませんが……」
一色雫や北条乃愛が移動してくるまで、Kクラスで最大の障壁になるのは篠宮聖華のグループになるだろう、と藍たちは予想していた。
しかし、予想に反して彼女たちに目立った動きはない。
「いいか。秩序の守護者たる一色が何かするとは思えないがね。しかし、軍産複合体の塊のような北条は違う。正面から事を構えるのは正気の沙汰ではない。そう、これは秩序合理性に満ちた戦略なのだよ」
「やっぱりビビってるだけじゃないですか」
「ふん、イノシシのように突っ込んでも仕方ないという話をしているのだよ」
「あ、北条だ」
「ッ!」
ガタ、と音を立てて久遠が振り返る。
藍は呆れた顔で溜め息をついた。
「嘘です」
「……」
「まあ、いいです。久遠の立場も理解はできますからね」
「そうであろう。荒波のような経済界を生き抜くには時に慎重さも必要なのだから」
「で、試験はどうしますか。勉強会でもします?」
「近いうちに地区の担当官から説明があろう。それから優秀な講師を招集し、まとめて面倒を見てやろう」
「それは助かります」
天城久遠はヘタレだが、面倒見が良い。
藍が慕っている理由でもあった。
「あ、瑞樹様」
「……短時間にそう何度も引っ掛かるわけがなかろう。この天城をあまり――」
「こんにちは。天城さんは何やってるの? 清華団までの暇つぶし?」
ひょい、と藤堂瑞樹が横から覗き込んでくる。
天城久遠は一瞬固まった後、そのよく整った顔を奇妙な形に歪めた。
「ひょえっ!」
「あ、驚かせてごめんね」
申し訳なさそうに笑う瑞樹の後ろには、北条乃愛の姿があった。そして、その取り巻きたちも。
口をぱくぱくとさせたまま一向に動かない久遠の代わりに藍は口を開いた。
「試験の相談をしていました」
「そっか。近いもんね。やっぱり勉強会とかするの?」
「ええ、久遠……こちらの天城が講師を招集する予定です」
「実はちょうど北条さんたちと相談しててね、清華団や社会奉仕が休みの時にクラス全体で勉強会をやろうかと思ってるんだけど、もしやるなら天城さんたちは参加する?」
「も、もちろん参加させてもらおう! この天城、私財を投げうってでもKクラスに貢献する所存! 場所の確保など必要であれば是非ご相談を!」
久遠の大袈裟な言い回しを冗談と受け取ったのか、クス、と瑞樹が笑う。
「ありがとう、参考になったよ。じゃあもしも決まったら連絡するね」
「はい! お待ちしております!」
去っていく瑞樹に全力で手を振る久遠。
その横で、藍は考える。
北条グループによるクラスの掌握は、もう殆ど時間の問題だろう、と。