蝉の鳴き声が木霊する中、
一年生の時から続けている習慣で、夏季休暇の間も欠かすことはなかった。
「……朝でもこの猛暑とは、気が滅入るな」
流れ落ちる汗を拭いながら、思わず愚痴が零れた。
始国十八家に連なる
東北の雪国で生まれ育った
一通りの日課を終えると、
「おはようございます!」
途中、各所で朝の清掃をしている下級生たちが元気よく頭を下げた。
紅葉院は神道系の全寮制で、厳しい上下関係が敷かれている。
「ああ、おはよう」
その時、後ろから見知った声が届いた。
「モップがけもまともに出来ないんですかぁ?」
一人の一年生が、三年生の集団に叱責されているところだった。
「何ですか、この拭き残しは」
「ご、ごめんなさい」
三年生は五人グループで、いずれも
(またか)
不思議なものだと思う。
それが今は、同じことを新入生相手に繰り返している。
「それくらいにしておけ」
新入生を取り囲んでいる同級生に声をかける。
五人が怪訝そうに振り返り、
「おや。無指名の
リーダー格の少女、
「こんなところで油を売っていて良いんですかぁ? 未だに誰からも指名されていないのでしょう?」
その言葉に、取り巻きの少女たちがクスクスと笑い声をあげる。
全員が
彼女たちはいずれも、始国十八家である
各地の大社から
「あら、もしかしてまた走り込みでもしていたとか? 筋肉ダルマなど、ますます指名されなくなりますよぉ?」
紅葉院では指名制と呼ばれる制度が採用されている。
各クラスに配属された男子が気に入った女子を指名していき、クラスを形成していくという制度である。
「これがオレの役割だ。北方軍の
「まあ、立派な志ですね。しかし、今日の縁巡りが最後のチャンスでは? 他に優先すべきことがあると思いますけど?」
「それはお互い様だろう。クラスに指名されながら、コロニー入りを逃したお前たちだって、こんなことをやってる場合ではあるまい」
「クラス指名すらされない筋肉ダルマと私たちが一緒なわけがないでしょう」
紅葉院でしか通じない価値観だな、と
全寮制という閉鎖環境が引き起こす視野狭窄に、彼女たち全員が陥っている。
一年生の頃に受けたいびりが、学校や寮でのカーストを過大視させたのだろう。その誤認が、過去の上級生と同じことを繰り返す悪循環を生み出している。
「外の男子からすれば、クラス指名などどうでもいいことだと気づいたほうがいい」
「負け惜しみを。今日の縁巡りが楽しみです」
振り返り、怯えている下級生に声をかける。
「大丈夫か?」
「あ、あの……ありがとうございました」
「またあいつらに絡まれたらオレに相談してくれ。ああいう三年生になるなよ」
「はい!
「……そうか」
それから自虐を込め、心の中でぼやく。
(いつまでも公平でありたいものだが……十八家はそうもいかん)
◇◆◇
『聞け。白雪学園で掘り出し物を見つけた』
久しぶりの祖母からの電話は、そんな言葉から始まった。
「白雪? 一体何の……」
『あそこの最下位クラスにコロニーを形成したての男子がいる。ワケアリ品だが、既に問題はほとんど解消されていると考えて間違いない。縁巡りの交流先としてねじ込んでおいたから、後はうまくやれ』
あまりにも都合のいい話に、猛将として知られた祖母もついに
「なら、上位クラスに食い尽くされて終わりだろう。そんなうまい話があるとは思えん」
『そうだな。現に、Aクラスから
「……
両家の次期当主とは何度も顔を合わせたことがあった。
いずれも、一時の感情に流されるタイプとは思えない。
『どうだ、興味が出てきただろう?
「それは……そうだが……」
『なんだ? 何が気になる?』
「縁巡りの交流先を白雪に変えたとは……どういうことだ? まさか賄賂でも……」
『いいか、言うことを聞かせたい時だけ金を渡すと問題になるが、普段から寄付という形でばら撒いておけば問題にもならんのが世の常だ。身体ばかりデカくなりおって。いい加減、
「……そういうのは好かん」
『何を世迷言を。政であろうと軍務であろうと九割はこうした下準備で決まるものだと知れ。まあ、実物を見れば気持ちも変わるだろう。最下位クラスの男子だ。覚えておけ』
それが、夏休みが始まってすぐに交わした電話の内容だった。
祖母にはああ言ったものの、いざ縁巡り当日を迎えると『掘り出し物』という言葉が何度も頭をよぎった。
そうなれば、もう出会いは望めない。自分で相手を見つけられるのは、今日が最後の機会だった。なんの成果も得られなければ、母や祖母が探し出した空きのあるコロニーに押し込まれ、肩身の狭い思いをすることになるだろう。
「……なあ、オレの身だしなみっておかしくないか?」
縁巡りの会場となる体育館で、ルームメイトに問いかける。
紅葉院の茶色いセーラー服に、動きやすいように後ろでまとめて編み込んだ髪。
いつも通りの姿のはずなのに、周りの同級生たちがお洒落をしているせいで落ち着かなかった。
「自信なくすくらいなら、髪だけでもお洒落したらよかったのに」
「いつものオレを気に入ってもらわないと意味がないだろう」
「うーん……まあ
そう言うルームメイトは、朝から時間をかけて髪を巻いていた。
彼女もまた、
「……なんだか吐きそうだ」
「ゲロなんて絶対やめてよ」
紅葉院の古びた体育館は、まるでパーティー会場のように飾り付けられていた。
縁巡りは二日かけて行われる予定で、一日目は立食形式で昼食を楽しみながら各々が気になった異性に声をかけて親交を深める形になっている。
参加希望の女子は時間前に集められ、あとは男子を待つだけだった。
「
「悪いが、いまは相手をしてやる余裕がない」
それを見て、
「もう少しで時間です」
不意に、壁際に並んでいた教師の一人が声をあげた。
辺りには百を超える三年生がいて、それぞれが不安そうに顔を見合わせている。
「今回、紅葉院にいらっしゃった一年生男子は九名です」
ざわめきが波のように広がっていく。
見知らぬ男子が九人も一か所に集まる機会は、生涯でも数えるほどしかない貴重な機会である。
こうした機会を求めて多くの者が四大共学の狭き門を目指すのだ。
「皆さん、紅葉院を代表する者として、そして年上の者として恥ずかしくない行動をお願いしますよ」
教師が注意事項を読み上げ始める。
しかし、極度の緊張に陥った
ふと立ち眩みを覚え、ふらふらと食事の置かれたテーブルに寄りかかる。
「ちょっと、大丈夫?」
「……大丈夫じゃないかもしれない」
心配そうなルームメイトの声に、
すぐ近くから漂う食べ物の匂いで、さらに気分が悪くなる。
「人生かかってんだから、しゃきっとしてよ」
「……ああ」
そうしている間に、教師が一際大きく声を張り上げた。
「では、白雪学園の一年生の皆さんです! 皆様、盛大な拍手でお出迎えを!」
その声を合図に、割れんばかりの拍手が響く。
会場の全員が、入り口に熱い眼差しを送っていた。
「ちょっと
拍手の音に混じり、
その間に、会場全体から黄色い歓声があがる。どうやら、男子が会場に入ってきたようだった。
「……っ……う……」
まずい、と思った。
胃の奥から込み上げるものを、無理やり飲み込む。
しかし、胃袋が
「……っ……ぐぁ……おえ……」
そして、
周囲から小さな悲鳴が届き、異常に気付いたように拍手が収まっていく。
気分の悪さのせいで、不思議と羞恥心はなかった。
ただ、終わった、と思った。
すべての音が、遠のいていく。
「ちょっと、嘘でしょ……」
知らない誰かの声だけが、妙にクリアに聞こえた。
「ぐ……あ……げ……」
しばらくして嘔吐感は収まったが、
咄嗟に抑えようとした両手は吐瀉物まみれで、
「大丈夫?」
優しい声がした。
聞き慣れない、低く落ち着いた声だった。
そして、そっと背中を擦るように手がかけられる。
「まだ出そう? 全部出したほうが楽になるかも」
「……悪い。ちょっと緊張で……もう……大丈夫だ」
彫刻のように固まった
「両手についてるの、ここでちょっとだけ落としていこうか。両手、出してもらってもいい?」
「……ああ」
言われるがまま、ぼんやりと両手を差し出す。
吐瀉物にまみれた手を、少年が嫌がる素振りもなくハンカチで拭っていく。
「す、すみません! あとはこちらでやるので」
教師が駆け寄ってくる。
「先生は進行があるだろうし、ボクがやるので大丈夫ですよ」
「し、しかし……誰か……そこ、
「え、あ……わかりました」
教師に指定された
その間も、
――まあ、実物を見れば気持ちも変わるだろう。
祖母の言葉が、頭によぎる。
ああ、こういうことだったのか。
確かにこれは掘り出し物という表現が相応しいだろう。
そう思いながら、