左遷提督は今日も元気です   作:僻地勤務の兵士

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第36話 それでも北へ

雨は止まなかった

爆煙が薄れ、崩れた橋の向こうで水が荒く渦を巻いている

 

「……点呼」

 

小隊長の声は低く、所属隊員の名前を呼ぶ

誰も返事をしない名前が、3つあった

 

「弾薬、確認」

 

「残り半分」

 

「俺は一箱」

 

「……空です」

 

誰も顔を上げない

瓦礫の影で、兵の一人が膝をついた

肩が上下する

吐瀉物が雨に流れ、靴先を濡らした

 

「水を」

 

別の兵が無言で水筒を差し出す

受け取った手は震えているが、誰もそれを見ないふりをした

通りの反対側、崩れた建物の陰から、老婆が出てきた

服は泥だらけで、片足を引きずっている

彼女は橋を見て、兵たちを見て、何も言わずに立ち尽くした

 

「……北へ行ってください」

 

小隊長が言った

老婆は動かない

視線は、落ちた橋の先に縫い付けられている

 

「向こうに……孫が……」

 

声は小さく、雨に溶けた

小隊長は何も答えない

 

「ここは危険です」

 

それだけ言うと、背を向けた

老婆のすすり泣きが、しばらく背中に刺さる

無線が短く鳴る

 

『フォックス小隊、こちら司令部。次の遅滞線へ移動せよ。座標は…』

 

「了解」

 

返事は即答だった

理由を聞く者はいない

兵たちは動き出す

弾帯を詰め直し、爆薬の残りを分け合い、破れた包帯を巻き直す

誰かが血のついたヘルメットを拾い、無言で道路脇に置いた

通りの端で、若い兵が立ち止まった

水たまりに映る自分の顔を見つめ、歯を食いしばる

 

「……俺たち、正しかったんですか」

 

誰に向けた言葉でもなかった

小隊長は立ち止まらない

 

「次へ行くぞ」

 

それだけだった

遠くで、再び履帯の音がした

重く、確実に、近づいてくる

兵たちは歩調を早める

誰も振り返らない

振り返っても、そこにはもう何も残っていない

次に落とす橋の名前を、誰も口にしなかった

 

 

雨脚がだんだんと弱まってきたが、空はまだ低かった

小隊は市街地を抜け、北へ延びる裏通りを進んでいた

舗道の割れ目に水が溜まり、靴音が同じ調子で返る

 

「停止」

 

小隊長が手を上げる

角を曲がった先、路肩にトラックが横倒しになっている

荷台は空だったが血痕が続き、壁際で途切れていた

 

「確認するぞ。ジョン、マイク」

 

名前を呼ばれた2人が前へ出る

戻ってきたとき、首を振った

 

「生存者なし」

 

「……了解」

 

歩き出そうとした、その時だった

 

「大尉……」

 

呼んだ兵の声はかすれていた

振り返ると、少年が一人、建物の影から出てくる

顔は煤で黒く、骨折しているのか片腕を押さえている

 

「母さんを……見ませんでしたか」

 

誰も答えない

ロバーツは膝を折り、少年と目線を合わせた

 

「北へ行った。ここにはいない…」

 

嘘ではない

真実でもない

少年は唇を噛む

その様子を見た小隊長は

 

「俺たちも北へ行く。一緒に来るか?」

 

そう提案する

少年は一瞬躊躇ったが

 

「……行きます」

 

そう力強く頷いた

その返事を聞いた兵が包帯と布を取り出し、崩れた家から木の板を持ってくる

それを少年の腕に当て、即席のギプスを作る

その様子を眺めていた小隊長の無線が鳴る

 

『フォックス、現在地を送れ』

 

「現在地は…」

 

報告すると、無線からは急げと言われるだけだった

 

「急ぐぞ。次の線まで二キロだ」

 

路地を抜けるたび、崩れた建物が姿を表す

壁が崩れ、屋根が落ち、誰かの家だった場所が瓦礫に変わる

突然、砲声

衝撃が背中を叩き、全員が伏せる

 

「被害は!」

 

「軽傷一!」

 

「動ける!」

 

「立て!」

 

走る

息が切れ、肺が焼ける。だが止まらない

広場に出た瞬間、倒れた人影が見えた

兵士だった

胸元に血、目は見開いたまま倒れていた

 

「……誰だ」

 

タグを見る

ロバーツは何も言わず、タグを千切り

1枚を倒れる兵士のポッケに

もう1枚を自身の胸ポケットへとしまった

その時、無線が鳴る

 

『フォックス、次の橋は準備済みだ。到達次第、引き継げ』

 

「了解」

 

彼は一度だけ、空を見上げた

低い雲の向こうに、救いはない

 

「行くぞ」

 

兵たちは頷く

誰も声を出さない

背後で、履帯の音がはっきりとした

近い、確実に

それでも、小隊は北へ向かった

また時間を稼ぐため

また、何かを置き去りにするために

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