夜の帳が降り、月すら雲に隠れた深夜。都市の片隅にひっそりと残された古びた教会。その荘厳なステンドグラスはひび割れ、祭壇には赤黒い染みがこびりついている。
その中央に、血と死臭が充満する巨大な魔法陣が刻まれていた。
「……やっぱ、ここだったんだね」
教会の扉を開け、灰色のローブに身を包んだアルスが静かに足を踏み入れた。腰には小さな魔石を詰めた革製のポーチ。瞳は冷たく、だがどこか眠たげで、その声もまた感情の温度が希薄だった。
「歓迎しよう。アルス・アルマル」
男が笑っていた。祭壇の奥、十字架の下。全身に刻まれた儀式用の焼印と、獣のように歪んだ瞳が、狂気と確信を物語っている。
「こんなに用意してくれて、ありがと……でも、死体の数、多すぎ。……引くんだけど」
祭壇の左右、礼拝席の影、床下。いたるところに横たわる人間の亡骸。誰かの母親、誰かの恋人、誰かの子供だっただろう存在が、今はただの魔力供給源として転がっていた。
「命はただの燃料だ。この世界は等価交換の上にある。理解しているはずだろう、魔法使いよ!」
男が腕を広げると、教会の壁面に刻まれた無数の魔法式が一斉に輝いた。床の魔法陣が起動し、琥珀、化石、死体の一つ一つから魔力が吸い上げられてゆく。
ドン――!
空間が震える。直後、天井を突き破るほどの巨大な火炎弾がアルスに向けて放たれた。熱風が教会内をなぎ払い、聖書が灰となって舞う。
アルスは逃げない。ただ、軽く腕を振っただけだった。蒼白い魔石が砕け、その瞬間、彼女の足元に浮かび上がった小さな魔方陣が展開される。火炎弾が彼女の直前でねじ曲がり、後方の壁を焼き尽くした。
「……雑。使い方、適当すぎ。無駄遣いって、怒られないの?」
「黙れぇえええッ!!」
男が次なる魔石を地面に叩きつける。爆音とともに四方から火炎弾が降り注ぐ。柱が焼け、天井が崩れ、教会そのものが崩壊寸前となる中、アルスはただ静かに立ち尽くしていた。
またしても彼女の周囲に魔法陣が浮かび上がり、炎の奔流が軌道を反らされ、床へと逸れる。
「……反撃、しないんだな? そのまま燃え尽きるつもりか!」
「……べつに。……戦う理由ないし。言ったでしょ、引いてるって」
そう言うアルスの声は淡々としていた。だが、その小さな体を取り巻く空気だけが、少しずつ、確実に冷えていく。彼女はポーチから新たな魔石を取り出すことはしない。ただ、破壊されゆく教会の中で男の魔法を受け流し続けていた。
「うああああああああっ!!!」
魔法陣が唸り、最後の火炎弾が放たれる。男は自らの命さえ燃料とし、全てを賭けて、少女を葬ろうとしていた。
だが、アルスは一歩も動かない。
淡く光る魔法陣が彼女の背に浮かび上がったその瞬間、男の放った炎は、その重さを失ったように消えた。まるで、熱すらも拒絶されたかのように。
「……もういいでしょ。……こっちが、眠くなる」
アルスのつぶやきは風に紛れた。だがその目は、男を見つめたまま、揺らぐことはなかった。
教会の天井が落ち、視界が炎に包まれる中、アルスは一度も反撃することなく、ただただその場に立ち続けていた。
男の叫び声が、炎と血の渦中に響いた。
「なぜだ……なぜその程度の防御で……ッ!」
何度放たれても、火炎弾はアルスに届かない。彼女の周囲に浮かぶ小さな魔法陣は、まるで炎そのものを拒むように、熱を打ち消していく。
男の顔が歪む。悔しさ、苛立ち、焦燥。そして——欲望。
「ふふ……やはりただの少女ではない……その力……その沈黙……お前の身体に流れる、東方の血……その血こそが、蒼翼の悪魔を歓喜させる贄なのだ!」
男の目が異様な光を帯びた。すでに魔法使いとしての理性は潰え、信仰にも似た盲信が彼を支配していた。
「見ろ! この贄、この供物、この魔法陣……貴様の肉体さえあれば、完成するッ!!」
叫びと共に、男は最後の魔石を砕いた。血を吸った琥珀が裂け、そこから黒炎が噴き出す。
だが、その黒炎は、アルスの目前で、まるで誰かに摘み取られるように「消えた」。
音もなく、熱もなく。
ただ、「存在」そのものが、否定された。
「なっ……!?」
男の顔から、狂気が剥がれ落ちた。恐怖が、その穴を埋めるように這い上がってくる。
「もう、遅いよ」
アルスの声がした。低く、静かに。
彼女の左手がゆっくりと持ち上げられる。破れた袖の先、白い肌には熱傷のような裂傷が刻まれていた。そこから、一筋の血が滴り落ちる。
ぽたり、と赤が魔法陣に落ちた瞬間——
教会全体が、呻くように震えた。
「な、なにを……ッ!? なにをしたぁあああっ!!」
光が奔る。床、壁、天井に刻まれていたあらゆる術式が暴走を始め、逆流する魔力が叫びのように音を立てる。無数の魔石が砕け、魂の対価が反転する。
「これ、最初から設計ミスだったんだよ……無理に大きな魔法使おうとするから……」
アルスはただ、ぽつりと呟いた。
「やめろ! やめてくれッ!!」
男はよろめきながら、魔法陣の外へ逃れようとする。しかし次の瞬間——
ズドォン!!
天井が、無慈悲な鉄塊のように彼の頭上に落ちてきた。
断末魔の声はない。ただ、粉砕音と、降り注ぐ灰塵だけが辺りに残された。
それからどれほど時間が経っただろうか。
灰まみれの瓦礫の隙間が、かすかに揺れた。
「うぅ……っ……重い……これ、絶対明日筋肉痛……」
崩壊した教会の隙間から、アルスが這い出してくる。服は焼け焦げ、顔も髪も埃まみれ。だが、両足はしっかりと地を踏みしめていた。
「……あの人、ほんとにバカだったな……むりに力借りて、調子乗って……うわ、膝ガクガク……」
呟きながら、アルスはよろよろと瓦礫の上を歩き出す。振り返ることはなかった。夜風が、彼女の汚れたローブを優しく揺らしていた。
「帰ったら、風呂……入りたい……」
深夜の空の下、少女の影は静かに消えていった。
陽の光が、ブラインドの隙間から射し込む。赤煉瓦のアパートの一室、静かな寝息の中に、電子レンジの「チン」という音が重なる。
「アルス、朝だよー。起きなさい」
キッチンから、どこか呑気な声が聞こえた。ミトンをはめた手でマグカップを置き、ストーブの火を弱める母親。その横には、温め直したスープとベーグルが並んでいる。
ベッドに寝転がっていたアルスは、ふにゃっと顔を枕に押しつけながら、小さな声でつぶやいた。
「……もう朝、なんだ……? 寝た気しない……うぅ……」
カーテン越しの光に、銀青色の髪がほのかに輝く。目元にはうっすらとクマ。昨晩の教会での出来事が、まるで幻のように遠のいていた。
「また……夜更かししてたの?」
「ちが……うけど……。なんか、変な人と、ケンカみたいな、ことしてた気がする……」
母親は苦笑しながらアルスの髪を軽く撫でた。
「……よくわかんないけど、大丈夫だったんでしょ?」
「ん……たぶん……教会、なくなったけど……」
「え?」
「なんでもない……」
もそもそと体を起こしたアルスは、制服風のシャツに袖を通す。黒いスカートに、淡いネクタイ、膝上までのソックス。パーカーを羽織ると、急に「学生」らしさが増す。
「スープ、飲む時間ない……」
「またベーグル持っていきなさい。あ、ハム挟んでるから」
キッチンからラップで包まれたベーグルを受け取ると、アルスは靴を突っかけて玄関へ向かう。
「行ってきまーす……」
「行ってらっしゃいー。……ケガとかは、ちゃんと見せるのよ?」
「ばれた……」
アパートの外は、すでに朝の喧騒に包まれていた。
高層ビルと古びた低層住宅が混在するニューヨークの街並み。地下鉄のうなり声が遠くに響き、ホットドッグの屋台からはもう湯気が立ち上っている。街角には、いつもの黒人の路上サックス奏者が、ゆるやかなジャズを奏でていた。
アルスは自動販売機の横を通り過ぎ、舗装の剥げた歩道を、ゆるりと歩いていく。
「バス……まだ来てないよね……? 間に合ってほしい……」
アパートから3ブロック先。壁に落書きのある古い建物の角に、黄色いペイントが塗られたスクールバス停留所がある。
そこに、すでに数人の学生たちが集まっていた。大声でゲームの話をしている男子、イヤホンを耳に突っ込んだままうつむいてスマホを操作している女の子。
「おはよー……」
アルスがぼんやりと挨拶して立ち位置につく。ふと見上げた空には、ビルの間から見える、ほんの少しの青。
数分後、バスのエンジン音が近づいてくる。黄色いスクールバスが角を曲がり、軋むような音を立てて停まると、ドアが開いた。
「やだ、今日もあの運転手さんか……」
「めっちゃ荒いからなあ……」
そんな声を背に受けながら、アルスもよろよろとバスに乗り込んだ。
バスが動き出すと、彼女は窓際の席に座り、頬杖をついた。
「……ふつーの日って、すごい……ありがたい……」
車窓の外には、朝焼けに照らされたビル群と、まだ寝ぼけたような街の喧騒。人々の生活の匂いが、魔法も悪魔も無縁なように広がっている。
そして、スクールバスは、ニューヨーク郊外にある広々としたキャンパスへと向かっていた。赤レンガの壁とガラス張りの校舎、芝生の広場には朝の光が差し込み、犬と遊ぶ生徒の姿も見える。
ニューヨーク郊外にあるその高校は、赤レンガ造りの校舎と、ガラス張りの現代的な建築が混ざり合った開放的なデザインで、生徒たちは制服に縛られることなく、自由なスタイルで日々を過ごしていた。
だが、教室の隅にいるひとりの少女だけは、明らかに浮いていた。
「ねぇアルス、その服さぁ……日本の制服っぽいよね。もしかして、日本行ったことあるの?」
そう声をかけたのは、明るいブロンドの女子生徒、アリッサ。手にはスマホを握りながら、興味津々といった様子で覗き込んでくる。
アルスは教室の端っこ、窓際の席で座ったままベーグルをちまちま食べていた。口をもごもごと動かしながら、やや間を置いて答える。
「うん、あるよ……でもちょっとだけ……そんなリスペクトとか、そんなんじゃないし……」
「えー、でも聞いたよ? アルスの先祖って日本人なんでしょ? つまりサムライの血が流れてるんじゃないの?」
それを言ったのは、クラスのムードメーカーである黒人の男子生徒、ジャマール。彼はニヤニヤしながら、アルスのスカートのプリーツを指差していた。
「サムライって……それ、昔の話でしょ……今はもういないし……」
アルスはベーグルを飲み込みながら、少しだけムッとした顔で続ける。
「今の日本にはね、腹の立つしゃべるダイフクしか住んでないの……」
「しゃべるダイフク……?」
教室がざわつく。
「それって……妖怪?」
「食べものじゃなかったっけ?」
「違うよ」と割って入ったのは、読書好きな女子生徒、ミシェル。彼女は文庫本を閉じて、小さく説明を始めた。
「ダイフクっていうのは、日本の甘いお菓子でね。お餅の中にあんこが入ってるやつ。ライスで作ったドーナツみたいなものだよ。たぶんアルスの言ってるのは……比喩?」
「ライスで作ったドーナツ……」と誰かが繰り返す。
すると、ジャマールがふっと笑って——
「じゃあアルス、お前の親父はドーナツってことか?」
教室がどっと笑いに包まれる。アルスの口が半開きになった。
「……はあ!? ちが……なんでそうなるの……」
顔を真っ赤にして立ち上がったアルスは、スカートの裾を押さえながら、椅子を引いて追いかけはじめる。
「こらあ! まてーっ!! こっちは寝不足なんだよーっ!!」
「うわー! 本気で怒ってるー!」
ジャマールは笑いながら机の間をすり抜けて逃げ、アルスはふらふらとした足取りでそれを追う。
「ま、待って! こっちはマジで重いからっ! 走れないからぁ!!」
「走る前提じゃない服着てきたのが悪いー!」
笑い声と足音が教室に響く。朝の陽光が窓から差し込み、雑然とした机と椅子の中、青春と魔法の狭間に生きる少女の、少しだけ騒がしい一日が始まっていた。
追いかけっこも一段落し、アルスは自席に戻っていた。やや息があがっていて、前髪が額に貼りついている。隣のアリッサがティッシュを差し出してくれた。
「ふふ、汗かいちゃったね。ほら、拭きなよ」
「……うん、ありがと……。ほんとに……ジャマール……あとで呪うからね……」
「やばっ、聞こえてる!?」
また一同が笑いに包まれたそのとき、ぽつりと、教室の後ろの方から声が上がった。
「ねえ、アルス……その、聞いてもいい?」
声の主は内気そうな男子生徒、トビー。色素の薄い瞳と、大きなメガネが特徴で、普段はあまり話さないタイプだが、今日に限って、なぜか勇気を出したようだった。
「アルスって……その、ほんとに……魔女なんでしょ?」
教室の空気が一瞬止まった。冗談ではなく、真面目なトーンだったからだ。
「魔法、使えるって……前に誰かが言ってたし、あの……やっぱり、ヘビとか……飼ってるの? カエルとか、捌いたりするの……?」
トビーは質問の最後で、ちょっと怯えたように身をすくめた。
アルスはベーグルの最後の一口を口に入れて、もぐもぐと咀嚼していたが、答えようとする前に——
「違うよ!」
割って入ったのは、ミシェルだった。彼女は椅子を引き寄せるようにして、前のめりで言葉を重ねる。
「アルスは、正義の魔法使い!悪いやつらと戦って、世界を守る側! ヘビを飼うとか、カエルを切るとか、そんなこと絶対しない!」
教室がまたざわつく。
アルスはというと、口の中のベーグルを飲み込むまでしばらく時間がかかった。モグモグしながら、目をぱちくりさせて、やっと言葉をこぼす。
「……別に……そこまで……ヒーローじゃないし……。時空、歪めたりとかも、できないし……」
「じゃあどんな魔法使えるの? 炎? 雷? それとも……透明になるとか?」
別の生徒が興味津々に聞いてくるが、アルスはちょっとだけ肩をすくめて言った。
「んー……言っても、信じないでしょ……それに……ここじゃ……あぶないし……」
その声に、教室が静まり返る。みんな、冗談半分だったはずが、どこか「本当にあるのかもしれない」と感じ始めていた。
「……え、もしかして……本当に魔法使えるの?」
「だから、アルスはヒーローなんだって」
「ねぇ、次の自由課題のプレゼン、魔法ショーにしてよ!」
「それいい! ステージ用意するから!」
「……やだよ……目立つの、いやだもん……」
アルスは目を伏せて、ぼそりとそう言った。
でも、彼女の頬が少しだけ赤くなっていたのを、気づいた生徒は何人かいたかもしれない。
放課後、陽の光はすでに傾き始め、長く伸びた影が校舎のレンガ壁を染めていた。生徒たちは思い思いの方向へと散っていき、にぎやかだった昼間の喧騒は少しずつ静かになっていく。
アルスはパーカーのフードを被り、ミシェルと並んで校門を出た。ふたりの足音だけが、舗装された歩道にぽつぽつと響いている。
「……今日、ちょっと目立ちすぎだったね」
ミシェルが言った。アルスのほうを見ず、まっすぐ前を向いたまま。
「うん……まあ、いつものことだし……ジャマールが悪い……」
「それはわかる。あいつすぐ人のことネタにするし」
校門の外、バス停の前にはもう何人かの生徒が並んでいた。小さな売店が横にあり、スナック菓子とソーダの香りがほのかに漂ってくる。
アルスとミシェルは、その列の少し後ろに並ぶ。
「でも……アルスさ」
ミシェルが、少し声を落として言う。
「大勢の前で魔法使うとか……やめてよね。冗談で言ってる子もいるけど、信じちゃう人もいるんだから。……危ないから」
アルスは一瞬だけ、ミシェルの顔を見た。彼女の瞳には怒りではなく、心配が滲んでいた。
「……わかってるよ」
短く、でもはっきりとアルスは答えた。
ふたりはそのまま並んで、しばらく黙っていた。夕暮れの風が吹き抜け、制服風のスカートの裾が小さく揺れる。
やがて、ミシェルがふっと笑った。
「ていうかさ、今日の物理、ほんっと意味わかんなかったんだけど。なんであの先生、説明が毎回詩人みたいなの?」
「……わかる。重力の話してるのに、なんで急に“恋の引力”とか言い出すの……」
「詩じゃなくて授業してくれって話」
「てか、“恋の落下速度は一定じゃない”って、物理的にも破綻してるし……」
ふたりはくすくすと笑い合う。教室では見られない、少し気の抜けたやりとりだった。
やがて、黄色いスクールバスが角を曲がって姿を現す。エンジン音とともに停まると、ふたりは列に従って乗り込み、後ろの席に並んで腰を下ろした。
車窓からは、夕陽に染まった街の景色が流れていく。ビルのガラスが金色に反射し、遠くに煙突のある工場や、ピザ屋の看板がちらりと見えた。
やがて、アルスが降りる停留所が近づくと、ミシェルが静かに動いた。彼女は制服のポケットから小さな折り紙のように丁寧に畳まれた紙片を取り出すと、アルスのジャケットのポケットにそっと差し込んだ。
「……お姉ちゃんからの伝言」
ミシェルはそう、声を潜めて言った。
アルスは驚いたように彼女を見た。
「……フレンさんから?」
その問いに、ミシェルは無言でうなずいた。
スクールバスは、次の停留所に向けてゆっくりと減速を始める。アルスはミシェルの表情をもう一度だけ確かめたが、彼女は窓の外を見つめたまま、それ以上は何も言わなかった。
やがて、ブレーキ音とともにバスが止まる。
「……じゃあ、また明日」