雪ノ下の「アニマルセラピー作戦」と平塚先生の「説得作戦」は、猫の毛一本ほどの効果もなく、華麗に撃沈した。
その無惨な敗北のあと、迷惑イケメンこと葉山隼人くんに川崎をねじ込む作戦を行ったが惨敗した。奉仕部+αは次なる作戦へと移行した、名付けて「エンジェルなんとか特定作戦」。
情報提供者は川崎大志。曰く、姉の沙希が「エンジェルなんとか」という店に通っているという情報。
しかし、その“なんとか”の部分が絶妙に曖昧で、検索ワードとしては致命的。
「エンジェル 千葉」「エンジェル バイト」「エンジェル 可愛い」などと入力した結果、出てきたのは怪しいマッサージ店や深夜番組のまとめ記事だった。
(検索履歴が地獄絵図だ……)
霜月のスマホがもはや危険物と化す中、奉仕部はついに決断する。
材木座に調査を任せよう。
案の定、中二病男子はどこからともなく「ふっ、我が情報網は全てを見通す」とか言いながら一件の店を見つけてきた。
その名も『メイド•カフェ•えんじぇるている』
こうして、千葉の街に“奉仕部捜索班”が結成されたのである。
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「……あぁ、私の家が遠のいていく……」
霜月は魂の抜けた声を漏らす。その姿はまるで、深夜アニメ最終回で散っていくヒロインのようだった。
(帰りたい……。今すぐ帰りたい……)
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一軒目、「メイド•カフェ•えんじぇるている」ドアを開けた瞬間、耳をつんざくような可愛い声が飛んだ。
「おかえりなさいませ、ご主人様っ♡」
「……あ、メイド喫茶だ」
比企谷が即死のようなテンションで呟いた。
雪ノ下は軽く眉をひそめ、由比ヶ浜は「わ、わぁ〜……」と引き笑い。霜月はというと、目の焦点が完全に消えている。
「一応、聞くだけ聞いてみましょ」
霜月は、明らかにテンションが地を這っていた。帰る時間はどんどん遠のきながらも彼女はカウンター越しのメイドに尋ねた。
「えっと、目つきが悪くて、不良っぽい感じの人、ここで働いてません?」
霜月の声は、もはや忍耐の限界スレスレだった。“奉仕部の活動”という名の地獄に巻き込まれ、既に数時間。この時点で彼女の心のHPは、限界を突破してマイナス域に突入していた。
だが――。
メイドはにこりと笑い、白い手で霜月を指差した。
「えっ、いま目の前にいますよ?やさぐれてる女子高生が♡」
……瞬間、空気が凍った。
いや、比喩ではない。まるで店内の冷房がフルパワーで回ったかのように、空気の温度が5度下がった。由比ヶ浜は目を丸くし、比企谷は「え?」と声にならない声を漏らす。
そして、霜月澪。
ゆっくりと顔を上げた。乾いた笑みを浮かべ、静かに笑う。だが、その目は一ミリも笑っていなかった。
「……ハハハハハ」
低く、乾いた笑いが漏れる。こめかみに青筋が浮かび、それがぴくりと脈打った。
「冗談は顔と年齢だけにしなよ。年増メイド」
静寂。
店内のBGMが遠のき、フリルのひらめきがスローモーションになる。隣の席の客がストローを吸う音だけが、やけに響いた。
メイドの笑顔が引きつる。口角がピクピクと震え、こめかみに青筋が浮かぶ。
「……は?」
低い。
萌え声どころか、もはや人間の限界点に近い重低音。だが、霜月も負けてはいない。涼しい顔で、あえて一歩踏み出す。
「あ?」
その瞬間、目に見えない衝撃波が走った。メイド服のフリルが舞い、霜月の髪が静電気を帯びてふわりと広がる。
やさぐれJK vs 年増メイド
今、千葉のメイド喫茶で、静かなる戦争が勃発した。
「や、やめよう!?お二人とも!!」
由比ヶ浜が慌てて立ち上がり、両者の間に入る。雪ノ下は額を押さえながら、冷静に店員名簿を手に取った。
(こういうときの雪ノ下、ほんとに仕事早い)と比企谷は心の中で感心する。
「……川崎さん、いないわ」
その一言で、店内の時が再び動き出した。まるで爆発寸前の導火線を、ギリギリで踏み消したかのように。
「撤退だ」比企谷がぼそりとつぶやく。
全員が無言で頷いた。
雪ノ下が先に店を出て、由比ヶ浜が霜月の腕を引っ張る。戸塚と材木座も慌てて続く。
だが、最後にドアを出る直前、霜月は一度だけ振り返った。
メイドと目が合い火花が散る。
霜月は小さく息を吐き、ふっと口角を上げた。
「……次は勝つからな、年増」
そのままドアを閉め、街へと消えていった。
残された店内には、動揺と静寂、そして微妙なコーヒーの香りだけが残った。
比企谷は深くため息をつき、ぼそりと呟く。
「……マジで、社会不適合者の集まりだな、この部」
メイド喫茶を後にした一行は途方に暮れていた。比企谷がスマホを見つめ、確認するように言う。
「えーと、エンジェルがつく店は二つだな。ひとつは今の『メイドカフェ・えんじぇるている』。で、もう一つが……『エンジェル・ラダー 天使の
その名前を聞いた瞬間、霜月の眉がピクリと動いた。
「……なんか、名前からして天に召されそうなんだけど」
興味半分、不安半分で霜月は自分のスマホを取り出し、店名を検索。出てきた情報を見た瞬間、顔が引きつった。
「……つまり、“素行不良JK”はバーで働いてるってことね?」
ため息が夜空に溶けていく。
「年齢偽ってるし……まあ、あの不良っぽい見た目なら通るかもしれないけど」
(てか高校生が酒場って、もうどこからツッコめばいいのよ)
一方の比企谷は肩をすくめる。
「……この時点で“奉仕部で扱う案件”の範囲、完全に越えてるよな」
「確かに、教育委員会レベルね」
雪ノ下が真顔で返す。
だが、どうやらそのバーには“ドレスコード”なるルールがあるらしく、ラフな格好では入店拒否されるとのことだった。
「……つまり、入るためには“それなりの服装”が必要と」
霜月がスマホ画面を閉じて呟くと、由比ヶ浜が目を輝かせる。
「なにそれ!なんかスパイ映画みたいじゃん!」
「いや、どっちかって言うと職質コースだな……」
「とにかく、一旦それぞれ家に戻って服装を整えるわよ」
雪ノ下が冷静に指示を出す。
「……帰りたい」
霜月の小さなつぶやきは、誰にも拾われなかった。
こうして、奉仕部+αは“夜の社交場に潜入する高校生探偵団”へと変貌を遂げるのだった。
ただし霜月にとっては
(私の人生で一番どうでもいい変貌だわ……)
というオチ付きである。
霜月は、ようやく帰宅したそう、“ようやく”である。だが玄関をくぐってからわずか5分後。
「……また外出」
現実を噛みしめながら、靴を脱ぐ気力すら失っていた。家の中は静まり返っている。両親は仕事で遅くなるらしい。だが、霜月にとってはむしろ好都合だった。
(誰かいたら止められるに決まってる。“バーに潜入してきます”なんて言ったら即拘束だわ)
ため息をひとつ吐き、霜月はクローゼットを開け放った。
「ドレスコードって……高校生がそんな服持ってるわけないでしょ」
とはいえ諦めるわけにもいかない。彼女は母のクローゼットに手を伸ばす。
母・霜月綾。かつて広告代理店で“エース”と呼ばれた女。だが、社内政治と上層部の圧に心をすり減らし、ある日ふと悟ったらしい。
“人の理想を売る仕事は、いつか自分の心を削る”。
以来、在宅ライターへ転身。今ではタイピング音が生活音と化している。
(今考えれば、私の皮肉とやさぐれ、完全に母親の遺伝だわ)
ちなみに父・霜月誠一からは現実主義を受け継いだ。ただし、父は皮肉もやさぐれも一切ないため、霜月澪のそれは完全に「方向性が違う現実主義」である。
そんな哲学的遺伝談義をしている間に、霜月の手が一着の服に触れた。
黒い。上から下まで、とにかく黒い。ベルトも、スーツも、ネクタイも。
唯一黒じゃないのはワイシャツだが、その色は「灰」でも「銀」でもない。暗黒のグレーだ。
まるで「この世の光を一切通さない」という強い意思を感じさせる装いである。
霜月澪は、しばらくその格好を見つめて、つい口を滑らせた。
「……葬式か何か?」
(これ着て母さん仕事してたってマジ……?)
もともと母は普通のスーツを着て仕事をしていたらしいが、年月とともに会社の闇や理不尽によって性格が荒み、その心の闇が物理的に衣服へ侵食した結果、今、霜月澪が着ている全身ブラックが完成したそうだ。
鏡の前に立ち、試しに合わせてみると思いのほか、似合ってしまった。
「うわ……やつれて精神病んでるOL、って感じ」
自嘲しながらも、結局これしか選択肢がない。
(しゃーない。どうせバーなんて、二度と行かないし)
そう割り切ると、ネクタイをきゅっと締めて玄関へ向かった。
「はい、帰宅から再出発までの最短記録、更新〜」
そうぼやきつつ、霜月澪は夜の街へと消えていった。
目的:バー潜入。
服装:葬式。
テンション:ゼロ。(寧ろマイナス)