川崎はふうっと息を吐き、壁にもたれた。肩をすくめたその姿は、まさしく「もうどうでもいいモード」発動中。社会の荒波どころか、人生そのものを半分降りかけているオーラが出ていた。
「……何か飲む?」
乾いた声でそう言うと、雪ノ下が即答する。
「私はペリエを」
その迷いのなさはもはや貴族。
「じゃ、じゃあ、あたしも同じので!」
由比ヶ浜は完全にパニック。カクテルメニューを見てもサッパリなので、安定と信頼の雪ノ下追従戦法に出た。
「比企谷だっけ、あんたは?」
川崎の鋭い視線が彼に突き刺さる。
「俺はMAXコー」
「彼に辛口のジンジャエールを」
雪ノ下、即カットイン。もはや彼の指示権を奪っている。いや比企谷に指示権なんて、有って無いようなものかもしれない。
「……そっちは?」
川崎の視線が最後に霜月へ向かう。やつれたOLコスプレ中の彼女は、すっと姿勢を正してから言った。
「私はグランパシフィック・クーラー。ノンアルで」
一瞬、周囲が「おお……」とどよめいた。まるで急に一人だけ社会経験値が高くなったような空気が流れる。
比企谷がぼそっとつぶやく。
「お前、急に横文字かよ」
霜月は目だけで「静かにしろ」と返す。あれは完全に“OL先輩の圧”だ。
そんな中、それぞれのドリンクが次々とテーブルに並ばせ、彼女はグラスの縁を軽く指で弾きながら、奉仕部一同を順番に睨んだ。
「……で? あんた達、何のつもり?」
低い声。刺すような視線。店のBGMが妙に遠のいて聞こえる。
由比ヶ浜がびくりと震え、比企谷はグラスを持ったまま固まる。
雪ノ下は冷静に見えて、たぶん心の中で計算している。「どう切り返せば最小限の炎上で済むか」を。
そして霜月は頬杖をついて、心の中でこう思っていた。
(はい、始まりました。奉仕部の“場違い営業”タイム.....)
嫌な予感しかしなかった。というか、もうすでに嫌な雰囲気が現実になっていた。川崎とのギスギスした会話が続く。
「あ、あのさぁー、川崎さん。わたしもほら、お金ないときにバイトするけど……歳ごまかしてまで働かないし……」
由比ヶ浜の勇気を振り絞っての発言。だが、返ってきたのは冷たい一言だった。
「別に。お金が必要なだけ」
「まぁ、それは分かるが……」
「あんなふざけた内容書くようなやつには分からないよ」
見事なカウンターを喰らう比企谷、しかも由比ヶ浜よりダメージがでかい。
(あの野郎、何書いたのよ……?)
霜月の視線が「呆れ」と「興味半分」で比企谷に刺さる。ちなみに答えは「職業見学希望:自宅」である。そりゃ怒られる。
「分かるはずないじゃん……。雪ノ下も、由比ヶ浜も……あと、比企谷と霜月だっけ?あんたにも分からないよ。別に遊ぶ金欲しさに働いてるわけじゃない。そこらのバカと一緒にしないで」
川崎の瞳が鋭く光る。その眼は、まるで自分の居場所を守るために牙をむく獣のようだった。
だが、霜月は物怖じしない。むしろ、少し退屈そうに口を開く。
「じゃあ、アンタはなんでこんな事してまで金が欲しいわけ?遊び半分じゃないんでしょ?」
「それをアンタに教える義理があるとでも?」
「まぁ、ないわね」
ため息混じりにグラスを傾ける霜月。そのあまりの温度差に場の空気がちょっと緩んだ。
そこへ、由比ヶ浜が懸命に間を取り繕おうと声を上げる。
「やー、でもさ、話してみないと分かんないことってあるじゃない?もしかしたら何か力になれることもあるかもだし……話すだけで、楽になることも……」
だんだんと声が小さくなる。川崎の睨みと、バーの静けさに圧されて、最後は蚊の鳴くような声になっていた。川崎は一瞬だけ目を伏せ、舌打ちをする。そして静かに雪ノ下へ向き直った。
「雪ノ下だっけ?アンタんとこって金持ちなんでしょう?だったら私の学費を出してよ。そしたらバイト辞めてあげる。確か、県議会議員の娘だよね?県民が困ってるんだから、資産を私に使ってくれない?」
……静寂。
雪ノ下の眉がピクリと動いた。そしてカシャン、と軽い音が鳴り響く。
グラスが倒れ、透明なペリエがカウンターを伝って広がる。雪ノ下は唇を噛み締めたまま、俯いていた。
「……雪ノ下?」
比企谷が思わず声をかける。
「あ、ああ……ごめんなさい」
彼女はいつも通りの顔に戻り、手際よくおしぼりでテーブルを拭く。けれど、霜月の目には一瞬の「痛み」が確かに見えた。
(……ああ、そういうこと。雪ノ下の家にも、雪ノ下の事情があるのね)
霜月が内心で呟いた瞬間、ダンッ!とカウンターが鳴った。
「ちょっと!ゆきのんの家のことなんて今、関係ないじゃん!」
由比ヶ浜。その声は震えていたが、確かな怒りがこもっていた。
霜月は静かに息をついた。グラスの氷がカランと音を立てる。その音が、まるで「ここまでだ」と言わんばかりに、場の空気を締めくくった。
(そうね、関係ないのよ。私達は)
そう、霜月たちは部外者なのだ。どれだけ言葉を尽くしても、どれほど理屈を並べても、「関係ない」と言った瞬間に無に帰る。それは、この場の誰もが分かっていた“ゲームのルール”だった。
そして、その禁句を最初に口にしたのは由比ヶ浜結衣だった。
彼女が『関係ない』という先に使ったら
「……なら、私の家のことも関係ないでしょ」
川崎の冷静な言葉が落ちた瞬間、由比ヶ浜の肩が小さく震えた。彼女は“正しさ”でぶつかったつもりだった。けれど、それは自らの手札を焼く行為でもあった。
霜月はその光景を見つめながら、どこかで苦く笑う。
(ああ、これで決まったわね。まぁまだ手段はあるけど)
雪ノ下も比企谷も、反論の言葉を見つけられない。論理でも、情でも、この一言の前では無力だった。
店内に漂うのは、アルコールと気まずさの入り混じった空気。勝者も敗者もないようで、しかし結末はひどく明確だった。
カウンターに沈んだ空気の中、由比ヶ浜の声が一際強く響いた。
「そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて! ゆきのんに――」
「由比ヶ浜さん、落ち着きなさい。ただグラスを倒しただけよ。別に何でもないわ、気にしないで」
雪ノ下の声は静かで、しかしどこか張り詰めていた。由比ヶ浜は何かを言いかけたが、喉の奥で言葉が詰まり、結局、唇を噛んだまま黙り込む。
「……はぁ。今日はもう帰ろうぜ」
比企谷がそう言ったとき、霜月は思った。この場の空気はもう限界に近い。
誰もが互いを観察しながら、口にすべき言葉と沈黙の境界線を探していた。クールダウンが必要だと悟った比企谷の提案は、唯一の正解だった。
もちろん、雪ノ下は反論しようとした。だが
「ゆきのん、今日はもう帰ろ?」
意外にも、由比ヶ浜の手が雪ノ下の腕をそっと押さえた。その優しさに雪ノ下は一瞬だけ表情を緩め、無言のまま頷いた。
「由比ヶ浜、後でメールする……川崎のことについて、だ」
「……へ? あ、うん、わかった……待ってる、ね」
最後の言葉だけ、雪ノ下に聞こえないように小声で添える。比企谷はそれ以上何も言わず、立ち上がった。
「川崎。明日の朝、時間くれ。五時半に通り沿いのマック。いいか?」
「はぁ? なんで?」
「少し、大志のことで話しておきたいことがあるんだよ……。てか、霜月は帰んないのか?」
「まだ飲み物飲み切ってないから、飲んだら帰る」
「そうか……」
ドアへ向かう比企谷の背中は、珍しくサマになっていた。が、次の瞬間。
「ちょっと!比企谷。ジンジャーエール代、足りてない!」
川崎の冷たい声が飛び、比企谷が情けない顔で振り向く。
「……すみません」
しょんぼりと財布を開けるその姿に、霜月は思わず吹き出した。
(去るならクールに去りなさいよ……)
結局、カウンターには霜月と川崎の二人だけが残った。グラスの氷がカラン、と小さく音を立てる。あの冷えた空気のまま、夜だけが妙に長い。
「さて、ようやく二人で会話できるわね。素行不良」
「言っとくけど、マックには行かないから」
「……私が誘ったわけじゃないっての」
開口一番からパンチが飛ぶ。だが霜月は眉一つ動かさず、グラスに口をつける。炭酸がしゅわしゅわと弾ける音が、無言の沈黙を埋める。
「関係ない、って便利な言葉よね。使えば全部片づくし、責任も消える」
「……説教?」
「まさか。そんな面倒なことするタイプに見える?説教はしないけどお話はするタイプよ」
「……何それ。めんどくさいタイプ」
「それが、霜月澪って女よ」
自虐と皮肉が絶妙にブレンドされた言葉に、川崎の口元がわずかに緩んだ。ほんの一瞬、氷が解けるような空気が流れる。
「で、アンタは?“関係ない”って言葉で、どこまで逃げ切るつもり?……“関係ない”って言葉は便利だけど、便利なもんはだいたい後でツケがくるのよ。それでも使いたいなら....まあ、止めないけど」
川崎の眉がピクリと動く。痛い所を突かれたらしい。霜月はグラスを持ち上げて、にやりと笑った。
「やっぱり“関係ある”ってことで確定ね」
「もう一度言うけどマックには行かないから」
川崎の目は鋭い。敵意と警戒をたっぷり込めた視線だったが、霜月はどこ吹く風といった様子でグラスを傾ける。
「そうね、だと思った。でも私の話を聞いたら行くかもしれないわよ?」
「アンタにできんの?」
川崎の目はどこか馬鹿にするような雰囲気だった。
「じゃあ当てたら朝のマックでコーヒー奢って。.....さてもう一度質問するわ。なんで金が必要なの?自分とそこらのバカ共を一緒にすんなって言ったくらいだし、大層ご立派な理由があるんでしょ?」
煽るような声が川崎の眉がピクリと跳ねた。
「だから言ったでしょ、アンタに話す義理はないって」
「そうね。じゃあこっちが勝手に推測していくわ」
その瞬間、霜月の目が光った。まるで推理ドラマのBGMが流れそうな雰囲気で、彼女は淡々と口を開く。
「アンタ、弟の下に妹がいるらしいわね。つまり三人兄妹。で、子ども一人育てるのに2000万〜4000万円必要って言われてるの。三人で6000万〜1億2000万円コース。おめでとう、家計はハードモード確定よ。フルタイム共働きでも無理ゲー案件ね」
「……何その電卓みたいな口ぶり」
「事実を述べただけよ」
霜月は続ける。まるで予備校講師が黒板に式を書くように、理路整然と。
「で、弟が塾に通い始めたのが四月。アンタが不良化したのもその頃。偶然とは思えない。進学校でわざわざ生活リズムぶっ壊すとか、ただの反抗期で説明つかないのよ。アンタ、その名の通り素行不良だけど、根は真面目そうだし」
「……フォローつもりなのそれ?」
「一応は」
「最初は弟の塾代かと思ったけど違うのよね。アンタの弟、今も通ってるし」
「……どっからそんな情報仕入れてんの?」
「校内の風の噂と観察眼。奉仕部の諜報網をなめないことね」
「そんな部署ないでしょ....」
「冗談よ。必要な情報はアンタの弟が話してくれたわ」
「はぁ......!?」
霜月は淡々と笑みを浮かべ、まるで照準を定めるスナイパーのように視線を川崎へ固定する。
「つまり、答えは....」
一拍置き、静かに撃った。
「自身の将来の学費を少しでも稼ぐため」
川崎の顔が凍った、氷の音が止まったかと思うほどの静寂。
「……」
見透かされたような感覚。反論も逃げ場もない。霜月は一口飲んで、話を続ける。
「つか、重役出勤して寝不足で授業受け続けたら、成績下がって受験落ちるわよ」
「うっさい!」
「いや、むしろ努力方向のバグってる勤労学生として尊敬してるわよ?」
「どこが褒めてんのよそれ.....?」
「バイトして、遅刻して、成績下げて自分追い込むとか、自家発電型スパルタ教育の完成系でしょ」
「アンタ、性格悪いわね……」
「知ってる」
霜月はニヤリと笑った。悪い顔だ。バーの照明がその笑みに光を宿す。
「てかさ」
霜月はグラスを指でつつきながら軽い調子で言う。
「バイトして金稼ぐのはいいけど、それで将来潰したら本末転倒じゃない?」
「それでも、何もしないよりマシでしょ」
「まぁね。でも」
彼女はわざと間を空けて、低く囁くように言った。
「アンタ“無理してる自分”に酔ってない?」
「……っ!」
川崎の目がかすかに揺れる。
「大変な自分、頑張ってる自分、誰よりも我慢してる自分……。そういうの、意外とクセになるのよ。やめ時を失って、自分で自分を苦しめるタイプ」
「何勝手に分析してんのよ……!」
「心理学的推察。副業にできそうね」
「やっぱ性格悪い.....!」
「2回目ね、それ」
川崎はムッと頬を膨らませたが、反論の熱はすでに弱まっていた。その沈黙に霜月は小さく笑い、グラスの氷を回した。
「ま、詳しい話は明日のマックで。コーヒー代はアンタ持ちね」
二人の言い合いの間、バーの照明は少しだけ柔らかくなった。
「……じゃ、私帰るから。飲み物ごちそうさま」
モクテルの料金を支払い、静かな夜に、氷の音と霜月の笑みだけが軽く響いていた。