朝5時。空はまだ灰色で、街も半分寝ぼけている。そんな中霜月澪は、死んだ魚のような目をしながらマックのドアを押し開けた。
「……朝っぱらからマックとか正気か、比企谷」
まるで罰ゲームのようなテンションである。
しかも時間は5時半過ぎ。人気がまばらすぎて、店内はもはや異世界の静けさだった。
「早起きは三文の徳」とかいう言葉を考えた奴が今ここにいたら、霜月は迷わずトレーで頭をはたいていただろう。
(誰だよあのことわざ作ったやつ……徳なんかより睡眠時間寄こせ)
そんなわけで、霜月は見事に荒れていた。そして先にいた川崎沙希を連れて注文しに行く。
「……Mサイズのホットコーヒーひとつ。ブラックで」
低く、くぐもった声で、おまけに生気ゼロ。だが、店員は笑顔を崩さない。プロの顔だ。
「180円になります」
しかし霜月は、ピクリとも動かない。財布を取り出す素振りもない。なぜなら彼女は、財布を持ってきていないからだ。
「あ、あの……お客様?」
困惑する店員に、霜月はようやく顔を上げると、さらりと言い放った。
「代金はこの不良っぽいJKが払うので。あとスマイル一つ」
「あんた……!」
「契約成立。昨日ちゃんと約束したでしょ?『当てたらコーヒー奢り』って」
「そんな口約束、誰が本気に――」
「じゃ頼んだ」
霜月は堂々と宣言した。それにスマイルは無料である。
「は、はい……かしこまりました……」
店員の笑顔が一瞬ひきつる。だがこれは約束だ。霜月が見事に川崎沙希の動機を言い当てた結果である。
当然のように霜月は勝利者ムーブを取った。川崎は睨んだ。めっちゃ睨んだ。
が、コーヒーはうまい。霜月は勝者の味をかみしめながら、眠気と戦っていた。
⸻
そして今、マックの隅の席には奉仕部、比企谷小町、川崎大志、川崎沙希妙な顔ぶれが勢揃いしている。
「大志……あんたこんな時間に何してんの」
川崎が不機嫌そうに言うと、弟の大志がむっと顔を上げた。
「それ、こっちのセリフだよ。姉ちゃんこそ、何してんだよ、朝から」
「……あんたには関係ないでしょ」
姉の切り返しは早い。だが、比企谷がすかさず入る。
「いや、関係あるだろ。お前が何で金稼いでんのか、もうだいたい聞いてる」
霜月が眠そうに頷く。
(うん、昨日の夜、私が全部暴いたし)
霜月は黙ったまま、コーヒーをすすった。苦味が心に刺さる。
「姉ちゃん……俺が塾行ってるから……」
「……だから、あんたは知らなくていいって言ったじゃん」
川崎はため息をつき、大志の頭をぽん、と軽く叩いた。
「大学行くつもりだし、そのことで迷惑かけたくないの」
その言葉は真っ直ぐで、でもどこか脆かった。
その瞬間霜月が、すかさずコーヒーカップをテーブルに置いた音が響いた。
「ねぇ、素行不良JK。昨日も言ったけど、重役出勤で授業出続けて受験したら落ちるって。ていうか、自分で自分の将来にパンチ入れてるの自覚してる?」
「うっさいわね.....!」
険悪な空気。店内BGM(マック特有の朝の軽音楽)が妙に虚しい。
が、ここで小町が朗らかに割り込んだ。
そこへ、小町が朗らかに手を挙げた。
「じゃあ小町から、一言だけいいかなー?」
霜月は「始まった」とばかりにコーヒーを口にする。小町の“長い実話”タイム。彼女の話は、長く、甘く、妙に説得力がある。
案の定、十数分後。
「つまりですねー、沙希さんが家族に迷惑かけたくないのと同じようにー、大志くんだって、沙希さんに迷惑かけたくないんですよー。下の子的には!」
「……」
小町スマイル(無料)が炸裂。川崎は黙った。何も言えなかった。何か、胸の奥で引っかかるものがあったのだろう
(あ、小町のスマイルは本当に無料なのね)
霜月は感心してコーヒーをすすり沈黙を切るように、比企谷が口を開いた。
「……それらを踏まえた上で聞いておきたいんだが、川崎」
「なによ」
「お前さスカラシップって知ってるか?」
その言葉に、川崎の動きが止まる。霜月はコーヒーカップをくるくる回しながら、ぼそっとつぶやいた。
「……やっぱり、奉仕部って“青春配給所”ってより“人生相談センター”よね」
「それっぽく言うな....」
この朝、総武高校奉仕部、絶賛早朝残業中であった。
空はようやく薄い青を取り戻し始め、夜と朝の境界がぼんやりと溶け合っていた。
川崎兄妹の背中が遠ざかる。二人の影が伸びて、やがて朝靄の中に溶けていく。
比企谷はポケットに手を突っ込みながら、白い息をひとつ吐いた。それは一瞬だけ形を保ち、すぐに消えた。まるで人の関係みたいに。
「きょうだいって、ああいうものなのかしらね……」
隣で雪ノ下がぽつりとつぶやいた。その声はいつもよりも少しだけ柔らかく、朝の空気に馴染んでいた。
「どうだろうな。人によるんじゃねぇの。一番近い他人って言い方もできるし」
比企谷の返しに、雪ノ下はわずかに目を細める。
「一番近い、他人……。そうね、それはとてもよくわかるわ」
その言葉に、霜月はおもった。
(ああいう顔をする人間は、大体何かを抱えてるのよね)
それは、よく知っている種類の表情だった。
由比ヶ浜が「ゆきのん?」と覗き込むように声をかけたとき、雪ノ下はぱっと顔を上げ、完璧な微笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで夜を見せないための朝みたいに整っていた。
「さ、私たちも一度帰りましょうか。あと三時間もすれば登校時間だし」
「う、うん……」
由比ヶ浜は釈然としないまま頷いた。バッグを背負い直す仕草が、やけに眠そうで、やけに青春していた。
そしてその静けさの中、霜月がぽつりと呟いた。
「……今日、学校休もうかな」
霜月のその一言で、朝の静けさが一瞬で崩壊した。比企谷がため息をつき、雪ノ下が呆れ、由比ヶ浜が笑う。
そんな朝だった。