夏休み、それは学生という名の囚人に与えられた一時的な恩赦。教室という牢獄から解放され、宿題という鎖を少しだけゆるめられる、奇跡のような制度。
そしてその祝福を、誰よりも全力で享受している少女がいた。奉仕部きってのやさぐれ系女子、皮肉屋。そう、我らが主人公、霜月澪である。
今日はそんな彼女の1日を見ていこう。
■ 朝 ― 夏休みは布団から始まる
朝7時30分。霜月はベッドの上でだらしなく寝返りを打ち、目を細めた。
「……ふあぁ〜……夏休み、最高〜」
口元には、社会制度そのものを肯定するような笑み。時計を見れば、学校がある日なら確実に遅刻の時間。だが今日は夏休み。つまりセーフ。いや、むしろ正解。
朝食はトーストとコーヒー。母と並んでニュース番組をぼんやり眺めながら、コーヒーを啜る。父はすでに出勤済み。
(……社会人は大変ね)
心の中でそんな暴言を吐きながら、霜月はコーヒーをもう一口。たったそれだけで「勝者の朝」を満喫した気分になっていた。
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■ 午前 ― 課題と、侵入者
8時25分。霜月は机に向かっていた。
意外にも勉強中は集中タイプ。スマホも触らず、黙々と課題を進める。
――ピコン。
無視。
――ピコン。
再び無視。
「……しつこいわね」
三度目、スマホが震える。知らない番号ではない。知ってる番号だ。だが出たくはない番号だ。
「……二回目。拒否」
ぷちっ。
三回目以降、電源を切った。完璧な防御態勢。今の彼女はATフィールド全開である。
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■ 昼 ― 夏休み、終わる
11時。
課題を終えた霜月は、堂々とベッドにダイブした。
「さて、寝よ……」
しかし、その幸福は三秒で終わる。
「午前中に二回も寝るな、やさぐれ娘」
ばさっ。
布団が剥ぎ取られた。立っていたのは、未来の霜月澪”もとい母・霜月綾。
「か、母さん……何するの。課題も終わったし、寝てもいいじゃん」
「終わってから寝るのがタチ悪いのよ」
呆れを通り越して嘆息する母。霜月は枕を抱えながら、最後の抵抗を試みる。
「だって、“夏休み”って“休む”って書くじゃん……」
「はいはい、屁理屈は後。電話来てるわよ、平塚先生って人から」
「げっ」
霜月の表情が、白黒映画のように急速に色を失っていく。あの通知音、あの着信――全部、あの人からだった。だから無視した。
母は小声で呟く。
「やっぱりロクなことじゃなかったのね」
霜月は、天井を見上げて現実逃避を決め込む。夏休み、それは学校からの解放ではあっても、平塚静からの逃亡までは保証されていなかったらしい。
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■ 午後 ― 地獄行き各駅停車
『奉仕部ボランティア合宿があるから今すぐ来い』
『メールも電話も無視するとはいい度胸だ』
平塚先生からの“ご立腹コール”の要約がこれである。
(……ぜってーめんどーくさい)
霜月は布団を名残惜しそうに見つめつつ、しぶしぶ準備を始めた。バッグの中には水筒、着替え、暇つぶし用の本、そして何かあったとき用の飴玉。完全に“現実逃避遠征セット”である。
玄関から出る際、母がキッチンから声を飛ばした。
「澪、電話無視しても逃げられないわよ。上司ってのは、そういうの嗅ぎつけるの早いんだから」
「……母さん、それ社会のリアルすぎて刺さるんだけど」
ため息をつきながら炎天下を歩く。アスファルトが脳を溶かすような熱さで、やる気をジリジリ焼き削っていく。
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■ 遭遇 ― 鋼鉄の教師、仁王立ちす
駅前ロータリー。
そこに立っていたのは、奉仕部の女傑・平塚静。日差しを背に受け、ワンボックスカーの隣で仁王立ち。まるで“教育界の死刑執行人”のような佇まいである。
霜月の表情は、職員室に呼び出されて三回目の生徒そのものだった。
「さて、霜月。メールにも電話にも出なかった理由を聞こうか」
低く、しかし明瞭な声。その場の空気が、わずかに軋んだ。
霜月は数秒の沈黙の後、堂々と口を開いた。
「しつこいメールや電話は、スマホの電源を切れって母が言ってた……気がします……」
「……母親の教育の成果が、ここで発揮されるとはな」
平塚先生のこめかみがピクリと震えた。由比ヶ浜が「うわぁ……」と小声で呟き、比企谷が目をそらしている。
他にも奉仕部のメンバー、そして戸塚、小町などが集まっており、どうやらこの一行でボランティア先へ向かうらしい。逃げ場は、ない。
「助手席、どっちか座れ」
平塚先生の声に、空気が凍る。
助手席つまり出発から到着まで延々と先生のサブカル談義を聞かされる地獄の玉座である。
比企谷と霜月、視線が交錯。
沈黙ののち、同時に呟く。
「じゃんけん、だな」
空気が一瞬、重くなる。その緊張感たるや、まるで“青春の命運を賭けた最終決戦”。
平塚先生が腕を組み、静かに見守る中、二人の右手が動いた。
「最初はグー、じゃんけん――ぽん!」
霜月、勝利。
その瞬間、霜月の中で天使が舞った。比企谷は静かにうなだれ、まるで敗戦を受け入れた兵士のように助手席へ向かう。
「……くそ、なんで俺が……」
「運命よ。観念しなさい」
霜月は涼しい顔で後部座席へ乗り込み、シートベルトを締めた。そして、エンジンがかかる。
「…………俺、降りていいですか」
出発直後から助手席はもう、サウンドノベル地獄だった。バスではなく、平塚先生のワンボックスカーは、千葉村に向けて出発した。車内には、青春とカオスと不穏が詰め込まれている。
「ゆきのん、お菓子食べようお菓子!」
「それは向こうに着いてから食べるものではなかったの?」
由比ヶ浜と雪ノ下、いつもの掛け合い。どう見ても仲良くケンカしている二人の間に割って入る勇気がある者はいない。
結果、自然と座席の並びはこうなった。
前:助手席・比企谷(生贄)
中:雪ノ下&由比ヶ浜ペア
後:霜月・戸塚・小町
(うん、完全に平和席。少なくとも前よりは)
しかし平和とはいえ、騒音がないわけではない。平塚先生はドライバーシートで元気にサブカル講義を展開し、比企谷は地獄の相槌地獄に突入中。
そんな地獄の助手席を横目に、霜月は窓の外を眺めながらため息をつく。
(帰りたい……)
走り始めて1時間。最初の30分はまるで文化祭前夜のように騒がしかったが、次第に車内も落ち着きを取り戻していく。
雪ノ下と由比ヶ浜は他愛のない話して盛り上がり、平塚先生と比企谷は「夏休みも休めない社会人の悲しみ」について議論していた。
「休みがあるようでないのよ、比企谷。社会とはそういうものなのだ」
「いや先生、それ生徒に語る話じゃないですよね?」
そして――最後尾の霜月。
戸塚と小町が楽しげに話しているその横で、彼女は静かに『実存と無』を開いていた。夏休みに入る前に読み終わらなかったので持ってきたのだ。
サルトルの思想が渦巻くページをめくるその姿は、どこか荘厳ですらある。ただし読んでいるのが「高校生の夏休みボランティア行きの車内」でなければ、だが。
小町が戸塚に小声で囁く。
「霜月さん、読書に集中してますね……なんか、かっこいい」
「うん、でもその本……なんか重そうだね……」
霜月はその言葉を聞きつつも、ページから一切視線を動かさない。あくまで無表情、無言。完璧な“話しかけにくい壁”を形成していた。
(読書中の人には話しかけづらい、それを利用してるのよ)
頭の中で小さくつぶやく。読書、それは彼女にとって社会的バリアであり、沈黙のシールドである。酔いにも強い彼女は、文字の海をスラスラと泳いでいく。やがて彼女の眉が少し動いた。
車はエアコン全開、霜月の心は相変わらずクール。そんな調子で、奉仕部一行の“修羅のボランティア合宿”は、静かにそして確実に、地獄への第一歩を踏み出していた。
平塚先生