オリエンテーリングが終わり、霜月たちが見守る中、広場では小学生たちの夕食、カレー作りが進行していた。
「キャンプといえばカレー、これ鉄則」
比企谷はそう呟く。むしろカレーそのものが小学生キャンプの象徴であり、材料でもあり、行事の華でもあるらしい。
平塚先生は忽然と現れ、ニヒルな笑みを浮かべながら火を手慣れた手つきで着火。くわえタバコを火に近づけ、顔を離して「すぱー」と煙を吐く様子は、霜月が思わず目を細めるほど格好良かった。
「ざっと、こんなところだな」
「手慣れてますね、大学サークルとかですか?」
「バーベキューくらいはやったものさ」
霜月は横目で見つつも、平塚先生の独り言とカップルへの愚痴に微妙な表情を浮かべる。
「男子は火、女子は食材を取りに行け」
「自爆しないでくださいよ、独し…平塚先生」
「霜月、今『独身』って言おうとしただろ?」
「気のせいですよ」
霜月は清々しい嘘をつきつつ、作業は順調に進んだ。初心者向けのカレー作り、下ごしらえもほぼ終了。奉仕部の手はもう必要ない。
「暇なら見回って手伝いでもするかね?」
平塚先生の言外の指示で、奉仕部は小学生の様子を見回ることになった。霜月は全力で断りたかったが、葉山は嬉々として乗り気だ。
霜月は見守りという名の完全放置――を決め込んで、立っていた。子供たちは楽しそうにカレー作りに夢中で、霜月の存在などまるで無視している。
しかし、予想外に声がかかった。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん」
霜月はふと顔を向ける。
「ん?」
「なんでそんなに、元気ないの、もしかして疲れちゃった?」
小学生の純粋さとは恐ろしいもので、遠慮も容赦もない。もし今ここで、霜月の頭に浮かんでいた.....
『アンタ達が鶴見留美のこと無視して何ともないみたいな態度が腹立つのよ』
を口にすれば、確実に場は凍り、空気は絶対気まずくなる。そう考えた霜月は、背を少し屈めて答えた。
「お姉ちゃんはね、今、悲しい現実が目の前にあるから困ってるだけだよ」
声には優しさを込めた。まるで子供が触れても壊れないガラスのように。
その後の小学生たちの質問も、霜月はテキトーに、でもあくまで優しげに返してやった。実際には、その回答のほとんどが皮肉めいた現実の描写だったのだが、子供たちは素直に納得してしまう。
(子供は純粋ねー)
霜月は思った。
そんな中、葉山が声をかけたのは、オリエンテーリングで孤立していた女の子だった。
「カレー、好き?」
冷静を装い、素っ気なく答える。
「……別に。カレーに興味ないし」
雪ノ下もまた露骨に溜息をつき、場を見守る。霜月は心の中で毒づく。
(露骨ね、雪ノ下)
葉山が女の子を見送った直後、場の空気を取り戻すべく軽やかに声を上げた。
「じゃあせっかくだし、隠し味入れてみるか。何か入れたい物ある人?」
子供たちは一斉に手を挙げ、声を張り上げる。
『はい! はい!! はーいっ!!』
その中でひときわ元気な声が響いた。
「はいっ! あたしフルーツがいいと思う! 桃とか!!」
霜月はその背丈と元気さに瞬時に気づいた。あの子は、間違いなく部活メンバーにそっくりだ。
「ねえ、比企谷、あそこで桃入れようとか言ってる背丈が周りと比べると妙に高いあのお団子頭、部活メンバーに似てない?」
比企谷は小さく息をつき、呆れ混じりに答えた。
「ああ、痛いほどに知ってる……」
霜月は眉間に皺を寄せ、ため息をひとつ。カレーに桃、葉山の提案がここにまで波及するとは誰も思わなかっただろう。
「あのバカ」
「本当バカばっか」
比企谷の口からポロリと悪態が漏れた瞬間、横から同意するかのような小さな声が聞こえた。比企谷はふと横を見ると、葉山と話していた女の子がフェンスにもたれかかり、片足を曲げて立っていた。
「まぁ、世の中大概そんなもんだ。早めに気づいてよかったな」
比企谷のフォローになりそうでならないフォローに、雪ノ下が鋭く切り込む。
「あなたもその、大概でしょう」
「アンタら、いい夫婦漫才コンビね。売れるかも」
霜月が投げた皮肉に、雪ノ下は目を細め、殺意にも似た視線を霜月に向ける。しかし霜月は微動だにせず、完全スルー。その空気が落ち着いたかと思いきや、鶴見が比企谷に向かって声をかけた。
「――名前」
「・・・あ?名前がなんだって?」
比企谷の発言に不機嫌さを全開にした女の子の態度に、雪ノ下が即座に反応する。
「人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るものよ」
その視線は、子供相手とは思えないほど鋭く、彼女は思わず視線を逸らした。霜月は横で小さく「怖っ」と内心つぶやく。
「・・・・・・鶴見留美」
「そう、私は雪ノ下雪乃。そこのは・・・・・・ヒキ――ヒキガエル君だったかしら?」
比企谷は自分のあだ名を知っている雪ノ下に軽く戸惑いつつも、霜月は自分で名乗る。
「霜月澪よ」
鶴見は足元を見つめながら、途切れ途切れに言った。
「なんか、そっちの3人は違う感じがする。あのへんの人たちと」
鶴見留美がそう言った。主語のぼやけた発言に一瞬みんなが「?」と固まる。
(“あのへん”ってどのへんよ……?)
霜月は思ったが、横を見れば確かに葉山グループがキャッキャと笑ってる。あぁ、たぶんそういう意味だ。まぁ、確かに比企谷と雪ノ下と霜月。この三人が並んで立っていれば、そりゃあ普通じゃない。
捻くれ者、毒舌女、やさぐれ女。人間関係の地雷処理班である。
「私も違うの。あのへんと」
鶴見は言葉をゆっくりと噛み締めるように言った。その一言が、由比ヶ浜の顔つきを真剣に変えた。
「違うって、なにが?」
「みんなガキなんだもん。まぁ、その中でうまく立ち回ってたけど……なんかそういうの下らないからやめた。だから別に、一人でもいいかなって」
由比ヶ浜は焦ったように声をかける。
「で、でも小学校のときの友達とか思い出って大事だと思うな」
「別に思い出とかいらない……中学入れば、よそから来た人と友達になればいいし」
その瞬間
「無理ね」
乾いた声が会話を断ち切ったのは霜月だった。容赦なし。即答。希望ゼロ。
雪ノ下が何か言いかけたが、霜月のほうが一歩早かった。
「今度はその“よそから来た人”とやらも、同じようにやるだけよ。変えたいなら行動。逃げるだけなら繰り返すだけ」
「……やっぱり、そうなんだ……」
鶴見の声は小さくなり、落ち葉みたいに地面に落ちた。
「ほんと、バカみたいなことしてた。誰かをハブるの、何回かあった。けどそのうち終わるし、また話したりするし……。マイブームみたいなものだったの。いつも誰かが言い出して、みんな乗っかって……」
彼女は小さく笑って、視線を下に落とした。
「気づいたら、私がその“誰か”になってた。別に何したわけでもないのに」
(あるあるねぇ……)
と霜月は内心で肩をすくめた。人間関係ってやつは、流行り廃りが早い。人を笑いものにするのも、飽きたら次へ行く。
「……中学でも、こんな風になっちゃうのかな」
その言葉に、誰も軽い冗談を挟めなかった。小学五年生の口から出るには重すぎる一言。霜月は静かに息を吐いた。
(まぁ、なっちゃうだろうね)
でもそれを口に出すほど、彼女も鬼じゃない。代わりに、こう言う。
「でもまぁ、少なくとも“自分でそう思える”時点で、アンタはまだ救いがあるわよ」
「……そうなの?」
「ええ。自覚できないバカより、100倍マシ」
そう言って霜月はため息をつく。どこからともなく比企谷のぼやきが聞こえてきた。
「お前……小学生相手に何哲学語ってんだよ」
「うるさいわよ、高二病末期患者」
「……はぁ。俺もう帰っていい?」
「ダメよ」
そのやり取りに、鶴見が小さく笑った。ほんの一瞬だけ、夕暮れが少しだけ明るくなったように見えた。