半ば諦めたような表情で自分の班へ戻っていく鶴見を見送ったあと、霜月たちはベースキャンプに帰還した。
平塚先生が番をしてくれていたカレーはすっかり煮詰まっていたが、空腹の高校生にとってはスパイスよりも愛情がスパイスだ。
……いや、愛情の方向が間違ってるだけで。
「ふむ。何か心配事かね?」
煙草をくゆらせながら、平塚先生が“教師らしいこと”を言い出した。その瞬間、霜月は眉をひとつ上げて、静かに地雷を踏んだ。
「大事な時に居なくなって、こういう時だけ教師っぽい振る舞いをする平塚先生を心配してしまいます」
命中。クリティカルヒット。教師、沈黙。灰皿に煙草を置く動作が、妙にスローだ。
(教師ならこの問題に気づけっての……)
霜月の内心のツッコミが容赦なく響く。
「ちょっと、孤立しちゃってる生徒がいたので……」
葉山が申し訳なさそうに口を開くと、すかさず縦ロールが被せた。
「ねー、可哀想だよねー」
(縦ロール、アンタがいうと本心か分からんのよ……)
霜月はカレーのスプーンを口に運びながら、内心で三浦の台詞を切り刻む。
「それで、君たちはどうしたい?」
平塚先生の問いに、場の空気が一瞬止まる。焚き火の音がやけに大きく響く。
「俺は……可能な範囲でなんとかしてあげたいです」
葉山が勇気を振り絞って言った瞬間、雪ノ下がすかさず返す。
「可能な範囲で……ね」
まるで毒を含んだ氷の刃。オウム返しの一撃に、葉山は静かに俯いた。
「あなたでは無理よ。そうだったでしょう?」
容赦なし。氷点下の冷気が夜の空気よりも冷たい。
「雪ノ下、容赦ないわね」
霜月が小声で呟いた。だが比企谷は思う。お前も十分容赦ないぞと
そんな心の声も虚しく、議論は雪ノ下のペースで進む。
「確認します。これは奉仕部の合宿も兼ねていると仰っていましたが、彼女の案件も活動内容に含まれますか?」
「林間学校のボランティアを部活動扱いしてるんだ。原理原則から言えば、範疇に入れてもよかろう」
平塚先生は煙草の煙とともに“面倒事”を吐き出した。
「そうですか。では彼女が助けを求めるなら、あらゆる手段をもって解決に努めます」
(相手の尊厳、残るのそれ?)
霜月の冷静なツッコミが脳内で炸裂する。
「雪ノ下の結論に反対の者はいるかね?」
誰も反対しない。反対する勇気がある人間など、最初からこのメンバーにはいなかった。
「よろしい。では、どうしたらいいか、君たちで考えてみたまえ。私は寝る」
平塚先生、去る。タバコの匂いとともに責任感も去っていく。
「面倒ごと押し付けやがってあの独身……」
霜月の恨み節が夜空にこだました。そしてその隣で、比企谷はただ静かに思う。
“この班、火種しかねぇな”
そんな中で霜月はふと、ため息をついた。
「……本気なの?」
問いかけは投げやりにも、挑発的にも聞こえた。だが、その実、確認に近かった。
雪ノ下はぴくりと眉を動かし、鋭い視線を霜月へと向ける。その瞳は夜の闇をも切り裂くように冷たく光る。
「ええ、本気よ。それともあなたは違うのかしら、霜月さん?」
言葉と視線が正面からぶつかる。互いに一歩も引かない。まるで、そこに見えない線を引いて、相手の領域を一ミリも許さぬように立っていた。
「別に」
霜月はわざと興味のなさそうな声音で答える。
だが、雪ノ下はそれを許さなかった。
「では、何故反対のような声を出したのかしら?」
雪ノ下の語気が、ほんのわずかに鋭さを増す。
「外部の私達で解決させる問題とは思わない」
霜月の言葉は冷静だったが、底には小さな怒りが潜んでいた。それは“正義の形”を巡る違和感だ。彼女は理屈ではなく、感情の温度で物を言う。雪ノ下のように「正しい」から行動するのではなく、「痛い」と思うから止まれというタイプだ。
「それを解決に努めると言っているのよ」
雪ノ下の声が、まるで自明の理を言うように響く。
「良く言うわね」
霜月の唇が皮肉げに歪む。その声には、“正義を名乗るな”という棘があった。
「それでも、手を差し伸べるのが、私達奉仕部の役目でしょう?」
雪ノ下は毅然と返す。理想の言葉は、彼女の中で信念として燃えていた。
だが霜月には、それがどうしても“押しつけ”に聞こえてしまう。彼女の中で、「助ける」と「救う」はまったく別物だ。
助けるとは、相手が立ち上がるまでの“補助”にすぎない。救うとは、相手の価値観を上書きし、自分の理想を押しつけて依存させる行為。雪ノ下の「解決に努める」は、霜月にとって後者に近かった。だからこそ分かり合えない。
理想と現実。正義と自由。奉仕部という小さな世界の中で、二人の信念が鋭くぶつかっていた。
しかし、霜月はもう理解していた。この場で雪ノ下と口論を重ねても、何も生まれない。
すでに“助ける”という路線に、この場の全員は乗っている。途中下車などできない。無駄に言葉を費やすより、皮肉のひとつでも投げておく方がまだ効率的だ。霜月は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「そうね、手を差し伸べるのが私達奉仕部の役目。それが間違って“救いの手”にならないように、頑張るわ」
あくまで穏やかに、だが確実に刺すような口調で言う。雪ノ下の眉が、かすかに歪んだ、夕方に吹く風がその表情を揺らめかせ、影となって地面に落ちた。
その瞬間、空気は凍りついたように静まり返る。風の音だけが、唯一の逃げ場のように夜に響いていた。
議論は──案の定、泥沼だった。
霜月の皮肉に雪ノ下が鋭く睨み返した時点で、誰もが悟っていた。
(あ、これもう終わらんやつだ)
その後はもうお約束の展開。議論は脱線し、何故か三浦優美子通称“縦ロール”が参戦。
「結局あんたって、正しいことしか言えないタイプなんでしょ?」
「そういうあなたは、間違ったことしか言わないタイプね」
などと、雪ノ下との間で言葉のスパーリングを開始。
完全に鶴見の話題はどこかへ吹き飛んだ。議題よりもプライドのほうが燃え上がる、青春バトル開幕である。
結果として、奉仕部+縦ロール陣営の結論はたったひとつ。
「続きは明日やろう」
名ばかりの合意形成。つまり、「面倒くさくなったから寝よう」である。
夜になりバンガローで寝る事になる。男女別とはいえ、女の子チームの寝床には地獄の気配が漂っていた。霜月は内心で毒づく。
(……こんなメンツで寝るの)
氷点下の•女王雪ノ下雪乃、縦ロール・三浦優美子。プラス救いの由比ヶ浜結衣と、すでに夢の国に旅立った小町。バランスとしては、もはや爆弾処理班の配置である。
そして案の定、爆発は起きた。
「ねぇ、あんたさぁ……さっきから偉そうに言ってたけど、結局何様なの?」
縦ロール、夜間戦闘開始。相手はもちろん、雪ノ下雪乃。
「事実を述べただけよ。それが気に入らないなら、あなたの問題ね」
容赦なし。雪ノ下、論理と正義で反撃。縦ロールの語彙力が、夜風に吹き飛ばされていく。霜月は最初、完全に無視を決め込んでいた。
(関係ない。寝る。知らん。勝手にやれ)
だが、雪ノ下が縦ロールを完全に論破してしまった瞬間──霜月の限界が来た。
「寝ろ!!」
部屋が一瞬で静まり返った。雪ノ下も縦ロールも一瞬ぽかんとする。雪ノ下が反論しようとしたが、霜月の表情に一瞬ひるんだ。眠気と怒りの合わせ技。最強クラスの圧である。
「……わかったわ」
縦ロールもまだ文句を言いたげだったが、由比ヶ浜がすかさず宥めに入る。
「ほらほら、もう寝よ?ね?ね?」
空気がようやく落ち着いたかと思えば、雪ノ下が無言で、明らかに気まずそうに、夜の外気へと消えていく。
(……外出たか。まぁ、そりゃ居づらいわな)
霜月も寝られそうにないが、関係ない寝る。
時刻──午後23時の出来事だった。