鳥のさえずりとともに、霜月澪は目を覚ました。夢の中でぐらいは安息を得られると思っていたが、どうやらその希望も儚く消えたらしい。
(……朝になっちゃったか)
顔を洗って食堂へ向かう。だが、そこにあったのはいつもの光景だった。
すなわち、小学生たちの姿はすでになく、残っているのは奉仕部+縦ロール達、そして何よりも一番信用ならない教師・平塚静。
「おはよう。よく眠れたかね?」
平塚先生が涼しい顔で問いかけてくる。
(教師らしいことしろっての……)
霜月の心の中で、評価表の「平塚先生」の欄に赤ペンで「×」がひとつ増えた。奉仕部送りになった元凶でもあり、なおかつ面倒ごとを押し付けてくる張本人。教師としては実に残念な人材である。
「朝食も終わったようだし、今日の予定を説明しておこう」
「夜に肝試しとキャンプファイヤーをやる予定だ。昼間は小学生たちが自由行動なので、その間に君たちには準備を頼みたい」
「はぁ。キャンプファイヤーっすか」
気怠げに八幡が呟く。
「わー!フォークダンスやるやつだ!」
由比ヶ浜がキラキラした目で叫ぶ。
「おお!ベントラーベントラーとか踊るんですね!」
小町が謎のテンションで続いた。
(小町……何を言っているの?)
霜月は完全に理解を放棄する。
「オクラホマミキサーと言いたいのかしら……? 最後の長音しか合っていないのだけれど」
雪ノ下がこめかみを押さえながら冷静に突っ込む。朝の空気は爽やかなはずなのに、奉仕部の卓上だけ異様に重たかった。
「このまま寝ていたかった……」
霜月は真顔で呟き、ため息をひとつ。
昼になり、男子たちはキャンプファイヤー用の薪のために木を切るという重労働を押し付けられていた。「青春の汗」とかいう美名でごまかされているが、実際はただの肉体労働だ。
一方その頃女子たちは川でキャッキャと遊んでいた。
「つっめたーい!」
「気持ちいいですねー!」
閑静な森の中に、はしゃぐ声が響く。楽しそうな笑い声と水しぶき。まさに青春の一ページ。
……ただし、一名を除いて。
「楽しそーねーあんたら」
霜月は棒読みで呟いた。テンションの波に乗る気配ゼロ。
彼女は川辺の岩に腰を下ろし、タオルを肩にかけたまま冷めた目で一同を見守っていた。
(保護者みたいね……)
自虐気味に笑いながらも、どこか哀愁が漂う。理由は単純だ。彼女だけ、水着を持ってきていない。
というのも、平塚先生に電話で脅され、急いで荷造りした結果、必要最低限の物しか入っていなかったのだ。
もちろんその中に水着は含まれていない。
「まさか林間学校で“監視員ポジション”になるとは思わなかったわ……」
由比ヶ浜が川から手を振る。
「しもっち!入ろうよー!」
「今入ったら風邪ひくわ」
「うわ、現実的〜!」
雪ノ下が冷静に付け加える。
「霜月さん、監督役に向いているのではなくて?」
「そうね……平塚先生がサボった分の穴埋め要員って感じよ」
(あー……なんか納得しちゃうのが悔しい)
霜月澪の林間学校2日目は、青春とは無縁な“保護者モード”からスタートしていた。
「お兄ちゃんだ! おーい! こっちこっち!」
小町の声が、川辺に響いた。水しぶきと笑い声の中を、比企谷八幡がゆっくりと歩いてくる。いつもの気怠げな目つき。
「……へ? ヒッキー?」
由比ヶ浜が目を丸くした。
「何してんのお前ら?つーか、なんで水着なの?」
「準備で暑くなったから水浴び中だよ☆」
明るく答える由比ヶ浜。その横で、雪ノ下は氷のように涼しい顔。
「水着は、平塚先生が“川で遊べる”って言ってたから……ってか、ヒッキーこそなんでここに――」
その台詞は途中でかき消された。割り込んできたのは、小町だ。
「そんなことより!ほらほらお兄ちゃん、新しい水着だよ!!」
ぐいっと腰をひねり、グラビアポーズ。兄の目の前に堂々と披露するあたり、度胸がすごい。
「小町~、川で激しく動くと転ぶから程々にしときなさいよ~」
保護者枠・霜月澪が冷静に注意する。まるで現場の安全管理担当者である。
「は~い。あ、感想は?」
「ん? ああ。そうだな。世界一かわいいよ」
「わぁ~、適当だなぁ~」
小町が肩を落とす。兄妹の会話としては、あまりに“テンプレ”すぎる。
(……まぁ、兄妹ならそんなものか)
霜月は半ばあきれつつも納得していた。しかし次の瞬間、小町は新たなターゲット見つけた。
「じゃあじゃあじゃあ!結衣さんは!?」
「ちょ!? 小町ちゃん、ひゃあ!?」
不意打ちで由比ヶ浜を前に押し出す小町。由比ヶ浜はおかしな悲鳴を上げながら、胸の前で手を合わせた。
「その、なんだ……いい感じだと思うぞ? 似合ってるし……」
「そ、そか……ありがとう」
由比ヶ浜がはにかんで笑う。比企谷は目を逸らし、霜月はその光景を“監視カメラ目線”で眺めていた。
(……なんで私は他人の青春ラブコメを直視させられてるんですかね)
冷静な頭がオーバーヒートしそうになり、彼女は首を振る。一方その頃、比企谷は川辺で顔を洗っていた。
「ゴベバばん乳ばぶのばばおぶば(これが万乳引力の法則か)さぶば乳ドンべんべいダナ(さすが乳トン先生だな)」
「……語彙崩壊してるわね」
霜月は聞き取れないはずの音を“意味として理解してしまった”自分に戦慄する。
そこへ、冷ややかな声が降ってきた。
「あら、川に向かって土下座?」
顔を上げると、雪ノ下雪乃が立っていた。その姿は、まるで“理性と羞恥の女王”。比企谷は、沈黙した。霜月は、無表情のまま心の中で呟いた。
(よし。青春観察、今日も平和っと)
昼下がりの河原。
奉仕部女子たちが談笑しているその横を、妙にテンションの高い声が通り過ぎていった。
「えー?じゃあアキハバラとか行くんじゃないの~?」
「違う違う!池袋よ池袋!全然違うから!だいたい場所が全然違うでしょ!?秋葉原は山の手の右、だから受け!池袋は――」
通り過ぎる、謎の会話。その主は、縦ロールとその取り巻き....後で知ったが海老名というらしい。“迷惑イケメングループ”(葉山グループ)の女子達だ。
だが、問題はその通過の瞬間だった。
縦ロールが雪ノ下の前を通り過ぎざま、ちらりと彼女の胸元に視線をやって、にやりと笑う。
「ふっ……勝った……!」
勝利宣言。戦場でもないのに、まるで戦果報告。
(うわー……縦ロール……アンタ...)
霜月澪は眉をひそめる。勝利の余韻に浸る縦ロールたちは、なぜかBGMが聞こえてきそうな勢いで去っていった。
一方、残された雪ノ下は小首をかしげている。
「?何かしら?」
意味がわからず疑問に思う雪ノ下。
「まぁ、ほら。お前の姉ちゃんはああだから、お前も遺伝的には可能性0ってことはねぇんじゃねぇの?」
比企谷の不用意な発言が飛ぶ。
「姉さん?姉さんが何か関係ある話題だったのかしら?」
雪ノ下の声が低い。低い。
「雪乃さん、大丈夫ですよ!女の子の価値はそこで決まらないですし、個人差ありますし!小町は雪乃さんの味方ですよ!」
小町の全力フォロー。だが、微妙に地雷の上を走っている。
「雪ノ下、気にする必要はないわ。どっかのこく☆おう様も『ステータスだ、世の中にマニアはいる』って言ってたし」
霜月が淡々と補足を入れる。だがその内心は冷静を装いながらも、思いっきり突っ込み中。
(まあ、こく☆おう様が火炙りにされたバレー部主将っぽい短髪娘に『何そのまな板舐めてんの?』と変態発言して傷ついた所に慰め入れた後、ロシア皇帝の第4皇女のデカイ胸見てバレー部主将っぽい短髪娘に、『貧乳は死ね、明日までに最低90のGカップくらいにしてこい』とか言ってたけど....)
すると雪ノ下は、なにかを小声で繰り返す。
「姉さん、遺伝、価値、ステータス、個人差……あっ!」
(あ、気づいた)
その瞬間、雪ノ下の顔が真っ赤に染まる。
「べ、別に本当にまったく気にしていないけれど、そうした外見的特徴によって人の勝敗など決まるものではないし、もし仮にそれによって人の評価が決まるのなら相対的になされるべきで、一部ではなく全体のバランスが対象になるのが普通なのよね。だから私は全然気にならないし、むしろ本当の勝者は果たしてどちらなのかしらという話にな――」
怒涛の理論武装、始まった。もう誰も止められない。いや、止める者がいた。
平塚静の手が、静かに雪ノ下の肩を叩く。
「雪ノ下。まだ諦めるような時間じゃない」
平塚先生、まさかの激励。
「ゆきのん、ゆきのんすごく綺麗だし、気にしなくて平気だよ!」
由比ヶ浜も涙ながらに援護射撃。
「……気にしていないと言っているでしょう……?」
雪ノ下、沈没。現時点で胸デカい二人に慰められるという、この上なく屈辱的な展開である。ちなみに霜月澪は意外にもスタイルはいい。だが本人いわく、
(この勝負に参加する時点で、負けなのよ)
……やはりこの女、悟りが深い。