川辺の喧騒を少し離れた木陰から眺める男女二人。比企谷八幡と霜月澪。共通点はただ一つ。
「水着を持ってきていない人間」
結果、彼らは「見守り隊(非公式)」として現場監視の任を勝手に担っていた。
「青春してるわねぇ……」
「遠い目で言うな」
霜月の棒読みコメントに、比企谷がやれやれと応じる。そのとき、背後の小道から軽い足音。ふと振り返ると、そこに現れたのは
「よっ」
比企谷が短く挨拶したのは、見覚えのある少女・鶴見留美だった。
「……」
返事代わりに小さく頷き、そのまま二人の隣に腰を下ろす。言葉のない3人。風の音と、川で騒ぐ声だけが響く。
沈黙3分。先に耐えられなくなったのは、やはり年少者だった。
「ねぇ、2人はなんで泳がないの?」
「水着持ってきてないのよ」
「俺もだ。……持ってても入る勇気はなかったけどな」
「ふーん。私は自由行動なんだって。朝ご飯終わって部屋戻ったら誰もいなかった」
「ほんとに自由してるわね……」
霜月、思わずため息。まるで放牧された子ヤギを見守る保護者のようである。
再び沈黙。3人そろって川を眺める。特に何も話さないが、不思議と居心地は悪くない。
……そんなところへ、騒がしい声が飛んできた。
「留美ちゃんも一緒に遊ばない?」
由比ヶ浜と雪ノ下が、川から上がって誘いに来た。だが.....
「……」
鶴見は小さく首を振るだけで、目も合わせない。
「そっか……」
由比ヶ浜はしゅんと肩を落とす。フォロー役の霜月と比企谷は、気まずさに同時に目を逸らす。そんな空気を破ったのは、まさかの小学生側だった。
「ね、八幡と澪にはさ」
「名前呼び捨てかよ……」
(この小学生、攻めの姿勢強すぎない....?)
「は?名前、八幡と澪でしょ?」
「ええ、そうですけれども」
比企谷は諦めたように答えた。しかし霜月は譲らない。
「会ってまだ数日しか経ってない上に、そこまで親しくない目上の人を呼び捨てにするなんて100年早いのよ鶴見。せめて“さん”付けを推奨するわ」
完全なる社会人対応。小学生相手でも敬語マナー講師モード発動である。
「えっ……ご、ごめんなさい……」
霜月の“圧”に気圧されて、小学生の方が萎縮した。隣で比企谷が若干引いた目を向ける。「いや、お前が言うのかよ」というツッコミを飲み込んで。
なにせ、この女.....霜月澪は奉仕部内でもあの雪ノ下雪乃と並ぶ程口が悪く、特に、つけるあだ名のラインナップを挙げれば、人格疑われるレベルだ。
三浦→縦ロール
葉山→迷惑イケメン
川崎→素行不良JK
比企谷→高二病末期患者
秦野&相模→腐れ眼鏡その1 & 腐れ眼鏡その2
※後に眼鏡その1と眼鏡その2に昇格
材木座→中二病患者ステージ5
※遊戯部での裏切り行為の際は、腐れ眼鏡その3或いは、腐れ中二眼鏡
雪ノ下陽乃→厚化粧。
ちなみに雪ノ下雪乃には「氷点下の女王」もしくは、「理性の権化」由比ヶ浜には「料理下手」か「お団子頭」
もはや、口撃のレパートリーは雪ノ下でも引くほどの破壊力。そんな霜月が「目上への敬意」を語るのだから、説得力はゼロに近い。
そして新入り・鶴見はまだ決まっていない。審議中である。
しかし霜月曰く、公私はちゃんと分けるタイプらしい.....本人が言ったため、どこまでが本当かは霜月のみぞ知るが.....
「お前、そういうとこほんと社会出たら怖がられるぞ」
「社会で生き残るための知恵よ」
霜月が恐ろしいと、比企谷は思った。そんな中、鶴見はおずおずと質問を続けた。
「……八幡さんと澪さんは、小学校のときの友達っている?」
風が木々を揺らす音だけが響く。比企谷は即答だった。
「いない」
霜月は少し考えて
「いたかもしれないわね」
語尾があいまいすぎるが.....つまり、いない。
川のせせらぎが、どこか物悲しく聞こえた。
「そ、そう……」
留美が目を伏せる。霜月は肩をすくめ、比企谷は空を見上げた。
(……この組み合わせ、根暗度が飽和してんな)
そんな比企谷の心のツッコミをよそに、静かな時間が流れていく。
「私の状況も、今のイヤな感じも、高校生ぐらいになれば……八幡さんたちみたいに変われるのかな……」
川のせせらぎの音に紛れて、鶴見の声は小さく消えていった。その問いかけは、祈りにも似ていた。けれど、それに返ってきたのは祈りを断ち切るような声だった。
「少なくとも、今のままでいるつもりなら絶対に変われないわね」
雪ノ下雪乃。その冷たい断定が、まるで氷柱のように鶴見の胸を刺した。
(……雪ノ下の言う通りね)
霜月は内心で賛同した。鶴見が傷つくのを見ていながらも、雪ノ下の言葉は間違っていないと理解してしまう。霜月自身も“優しい嘘”を嫌う人間だった。むしろ、真実の刃のほうが誠実だとさえ思っている。
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「まぁ一応は、周りが変わることも充分あるから、それまで無理して付き合わねーって手もあるにはあるが……」
比企谷が横からぼそりと呟いた。
「……それだと時間かかるんだよなぁ」
「そうなんだよね……。留美ちゃんは今が辛いんだから、それをどうにかしないと……」
由比ヶ浜が心底心配そうに言い、視線を鶴見に向ける。その視線に気づいた鶴見は、少し困ったように笑った。
「辛いっていうか……ちょっと嫌。惨めっぽい。シカトされると、自分が一番下なんだって感じる。嫌だけど……でも、どうしようもないし」
その一言が落ちた瞬間、場の空気が沈む。が、雪ノ下は間を置かずに切り込んだ。
「なぜ?」
短い問いで逃げ場のない響き。鶴見は一瞬たじろぎ、けれど再び口を開いた。
「……私、見捨てちゃったし。もう仲良くできない。仲良くしてても、またいつかこうなるか分かんないし。同じことになるなら、このままでいいかなって。惨めなのは嫌だけど……」
その言葉を聞いた霜月は、静かに息を吐いた。
(なるほどね……)
霜月達は理解した。この子は、世界を見限ったのだ。自分を含め、周囲の人間すべてを。
自分が変われば世界が変わるなんて、そんな綺麗事は、所詮
叱られ方は理不尽で、評価は不平等で、扱われ方は不公平。人がいる限り、格差も差別もいじめもなくならない。人が生きるということは、そうした矛盾と共に存在するということであり、人はそれを“日常”として生きていくものだ。
だからこそ、霜月は“ありのままの世界”で生きることを選んだ。他人の価値観に振り回されず、自分の尺度で物事を測り、自分の責任で生きる。
霜月はそういう現実を直視していた。だが、彼女にはひとつだけ“譲れない線”がある。
それは、自由を踏みにじること。
霜月にとって、人間とは「考える存在」であり、行動とは「考えの結果」である。以前、雪ノ下に世界を変える事は人を否定すると言ったように、他人の考えを根本から否定することも結局人を否定することと同義だ。
そして
他者の自由を奪うこと。
自分の自由を他者に押しつけること。
そして、自分からその自由を捨てること。
この三つだけは、霜月にとっての絶対悪。
それは彼女にとっての「自由の死」とも言える。つまり、生きることそのものの否定に等しい。
鶴見留美は、いじめの被害者だ。非は明らかにいじめた側にある。しかし鶴見の言葉に彼女は内心、眉を寄せていた。
鶴見は先生や親、頼れる友達に相談....つまり自ら行動せず、すべてを“諦める”選択をした時点で鶴見は、自らの手で自由を放棄してる。霜月から見れば、彼女は“いじめられた被害者”であると同時に、“自由を手放した存在”にもなってしまったのだ。
自由を放棄した人間は、もう誰にも助けられない。どれだけ誰が手を伸ばしても、自分で引っ込めるからだ。
同情ではなく、観察者のような冷たい眼差し。霜月は確かに彼女を“助ける”立場にいながら、その内面では“苛立ち”という思いも感じていた。
自由を諦めること、それは霜月にとって、最も忌むべき罪だった。
「鶴見さ、今のままでいいって言ったけど、それ“本心”?」
静かな声だった。優しさも、嘲りもない。ただ真っ直ぐ突き刺さる問い。
「惨めって思うなら、惨めなままでいる理由なんてない。いじめられて辛いなら、逃げてもいいし、怒ってもいい。……なんで黙ってんの?」
その一言に、鶴見は握った拳を隠そうと膝の上で膨らませる。比企谷、雪ノ下、由比ヶ浜は、一瞬だけ霜月を見た。慰めも励ましもない。だが逆に、やたらと現実味だけがある言葉だった。
鶴見は小さく俯いた。誰もが沈黙するその中で、霜月は平然と続けた。
「人は.....自由という刑に処せられている」
「……え?」
鶴見は顔を上げた。聞き慣れない言葉に、小首をかしげる。
「自由の刑?」
「そう。サルトルっていう哲学者の言葉よ」
霜月はあたかも保護者説明会で語る塾講師のような口調で言った。
「その人からすれば、人間は“自由”に、すべてを自分の選択で決めることができる。だけど“一度選んだら、その選択の結果を背負う義務がある”ってこと」
鶴見は息を飲み霜月は淡々と続ける。
「鶴見の選択も、はっきり言えば全くの自由よ。アンタは“今のままでいい”って選んだ。いじめられたままでいることもね」
「でも、それは……」
「そうね、自由だけど自分の選択で“不自由”になってる」
言葉のひとつひとつが、鶴見の心に針のように刺さっていく。霜月の瞳には、責めるでも憐れむでもない、ただ“真実を見ている”光だけが宿っていた。
「私は自由を尊重する主義よ。けど、他者の自由を奪うこと。自分の自由を他人に押しつけること。そして自分の自由を自ら放棄すること」
彼女は強く言った。
「この三つは、私の中で“絶対に許されない行為よ”」
比企谷が小さく肩を震わせる。由比ヶ浜はギョッとしてた。雪ノ下も僅かに目を細めた。いつになく思想深い霜月に、周囲が息をひそめる。
サルトルは、自由に制約を設けなかった。人はどんな選択もできるし、その責任を負う限り、自由であると考えた。
だが現実は、誰も想定してないアクシデントが必ずやってくる。いじめ、支配、依存、暴力、それらの多くは「自分の自由」を勘違いした結果だ。
自由という言葉には『理性』、『責任』、『覚悟』が必ず付いてくると霜月は考えている。自由という言葉ほど逃れようのない言葉は無い。
彼女から言わせれば、理性なき自由は暴力に過ぎず、責任なき自由は傲慢であり、覚悟なき自由は逃避だ。
自由が無制限なら、結局“強い人の自由”しか残らない。
霜月は、その現実を嫌というほど知っていた。だからサルトルが語らなかった“制約”を、自分の中に加えた。それは哲学ではなく、生きるための信条。世界が理不尽でも、せめて自分の選択だけは誇れるように。
霜月は鶴見をまっすぐ捉えたまま、はっきりと言い放った。
「私からすれば、鶴見。アンタは自分の自由を捨ててるのよ。自分で鍵をかけて、檻の中に座ってる……違う?」
鶴見の胸が、キュッと縮む。逃げ道が、綺麗さっぱりなくなる言葉だ。
「惨めって思うなら、惨めを選び続けてるのはアンタ。だったら文句を言う資格すらない」
鶴見の肩が震えた。その震えが恐れか悔しさかは、まだ誰にも分からない。ただ一つだけ霜月の言葉は、鶴見の胸の奥底に深く沈んだ。
「じゃあ……どうすればよかったの……?」
鶴見の小さな声が、確かに聞こえた。霜月はすぐには答えなかった。少しの沈黙の後、淡々と、しかし確信をもって言った。
「言ったでしょ。それを考えるのも自由だって」
その言葉は一見、突き放すように聞こえた。けれど、霜月の目に映る光は冷たくはなかった。
「アンタが惨めな思いから脱却したいって思うこと、それも自由よ」
(……やっぱりこの女、怖えな)
比企谷は目を逸らしながら、心の中でそう呟いた。
比企谷と雪ノ下、由比ヶ浜が、一瞬だけ霜月を見た。その言葉には説得でも慰めでもなく、ただ冷徹な事実だけがあった。
鶴見は、何も言わずに小さく頷いた。それが理解か、諦めか、誰にもわからなかった。