夜の帳が降りる前肝試し準備の準備という、もはや哲学的な時間帯。集合した面々の前には、何かの間違いで注文されたような衣装の山があった。
「小悪魔衣装に、ネコ耳、しっぽ……白い浴衣? 誰よ、これ選んだの」
霜月が眉をひそめる。どれもこれもホラーというより文化祭のコスプレ喫茶である。
(しかもネタに振ったヤツ)
「よ、よくは覚えてないけど……肝試しって、こういう感じだったっけ?」
と、葉山が苦笑交じりに言えば、
「雰囲気的には“罰ゲーム大会”だね」
と戸塚が柔らかくフォローする。
(流石戸塚……聖母力が違う)
霜月は彼に敬意を抱いた。
⸻
だが、平塚先生の「直前にちゃちゃっとやってくれればいい」という軽すぎる指令を思い出し、霜月の眉間に深い皺が寄る。
(ちゃちゃっとやったら確実に怒るんだよな。マジで仕事しろ、あの独身)
彼女の平塚への評価は日を追うごとに下がっていた。
もう少しで地殻まで届く勢いである。
⸻
そんな緩い空気も、雪ノ下の一言で一変した。
「それで例の問題、どうするの?」
教室の空気が一瞬で凍る。肝試しどころか、人間関係ホラーの開幕である。
議題は当然、「鶴見留美のいじめ問題をどうにかするか」。笑顔で準備していたはずの生徒たちが、急に社会派ドキュメンタリー番組の出演者みたいな顔になる。
⸻
最初に口を開いたのは葉山だった。
「留美ちゃんが、皆と話すしかないんじゃないか? ちゃんと向き合って……そういう場を作って──」
(出た、迷惑イケメン)
霜月の頭の中でツッコミが閃く。葉山の理想論はまぶしいが、現実の泥沼にはあまり効かないタイプだ。
「でもそれだと、たぶん留美ちゃんが責められちゃうよ……」
由比ヶ浜が、まるで心の痛みを代弁するように言葉を落とす。
「じゃ、じゃあ、一人ずつ話し合えば?」と戸部が言えば、
「同じだよ。その場ではいい顔しても裏でまた始まる。女の子って隼人君が思ってるよりずっと怖いよ?」
海老名の一言が突き刺さる。
教室に沈黙。葉山、撃沈。
「マジ?超こえー」
と三浦が引き気味につぶやくと、霜月がつい口を滑らせた。
「私は縦ロールが威圧的にキャンキャン吠える方が怖いと思うけどね……」
「はぁ!?アンタそれどういう──」
「じゃあアンタは誰かに高圧的に詰められて耐えられる絶対の自信あるわけ?」
……三浦、沈黙。霜月、微妙に勝利。
議論は迷走しかけたところで、比企谷がぼそりと口を開いた。
「いじめグループなんて、鶴見を中心に作られた“構造”だ。なら、その構造を壊せばいい。
つまり一度、あいつら同士を疑心暗鬼にすりゃいい」
肝試し中、恐怖で孤立した鶴見の班を襲う“暴漢役”を演出。「二人だけ逃してやる」と言わせて、内部崩壊を誘発するという作戦だった。
それを聞いた瞬間、教室の空気がざわつく。
「うわ……陰湿」
「怖いけど、理屈は通ってる……」
「てか比企谷、発想が怖い」
次に霜月が意見を出したが全員が一瞬で警戒した。この時点で霜月案=ロクでもないという認識が全体に共有されていた。
霜月は立ち上がり、指先でホワイトボードをコンコンと叩く。
「まず、私と雪ノ下で“いじめの構造”を淡々と語っていく。心理、立場、依存関係、全部言語化して。同時に葉山たちが“怖がらせ演出”で恐怖を煽る。最後に鶴見自身に選択させる。“どの関係を壊すか”を」
「……過激だね」
「いや、怖すぎるわ」
「てか、ホラーが二重構造になってる」
全員の悲鳴が混ざった。平塚先生がその場にいたら確実に頭を抱えていたに違いない。
⸻
結論:比企谷案、採用。霜月案、即時却下。
理由は簡単。
「確実に効きそうだけど、色々な意味で人が壊れる」からである。
(そっちのほうが“肝試し”っぽいと思うけど?)
霜月はネコ耳のカチューシャをクルクル指で回した。
肝試しの夜、霜月・比企谷・雪ノ下・由比ヶ浜の4人は、鶴見の班を遠くから見張っていた。由比ヶ浜の軽い脅かしで場が和んだあと、ついに比企谷の作戦が動き出す。
指定の場所には葉山、戸部、三浦の三人が待機。鶴見たち小学生の班と鉢合わせた瞬間、空気が一変する。
「なにタメ口きいてんの?」
「友達じゃないんだけど?」
(流石、本職は違うわね)
霜月が失礼な事を考えているなか、戸部と三浦の冷たい言葉に、小学生の笑顔は一瞬で消えた。そして葉山が告げる。
「半分は見逃してやる。残りはここに残れ。誰が残るか、自分たちで決めろ」
誰も言葉を発せず、ただ怯えたように互いの顔を見合わせる。やがて、最初に名前を出されたのはやはり鶴見だった。
「鶴見、あんた残りなよ」と。
鶴見は何も言わず、ただ目を伏せる。比企谷たちは固唾を呑んで見守っていた。だが、そこで彼女が動いた。
俯いていた鶴見が、勢いよく顔を上げる。
「あの!」
瞬間、閃光が弾けた。闇夜を切り裂く光。耳にはフィルムの巻き上げ音。目を細めた葉山たちは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
「今の……カメラのフラッシュ?」
目を押さえる葉山の横で、霜月たちは見た。鶴見が、他の少女たちの手を引いて駆け出していく姿を。
彼女は“助けを待つ側”ではなく、“自ら動く側”を選んだのだ。
「あれが鶴見さんの選択ね……」
雪ノ下が小さくつぶやく。霜月は静かに息を吐いた。緊張がほどけ、胸の奥で確かに思う。鶴見留美はもう“被害者”じゃない。彼女は、自由を取り戻したのだ。
林間学校の最後のイベント、キャンプファイヤーの準備が始まっていた。広場の中央では、巨大な薪がジェンガよろしく積み上げられ、比企谷たちはそれを囲むように立っていた。
「……こうやって見ると、ジェンガにしか見えないな」
「倒れたら命がけの罰ゲームだね」
戸塚の天使スマイルに、疲労困憊の男子一同が一瞬だけ浄化された。
その横で、平塚先生が缶コーヒー片手に近づいてくる。
「危ない橋を渡ったな。一歩間違えれば問題になっていたかもしれない」
「はぁ……まぁ、すいません」
「責めてはいない。むしろ時間もない中で、よくやったと思っているよ」
「方法は最低でしたけどね」
「だが最低にいるからこそ、ドン底に落ちた人間に寄り添えるのかもしれないな。そういう資質は希少だ」
それっぽい言葉を吐く教師に、霜月は反射的に口を開いた。
「私からすれば、教師の立場なのにいじめ問題を生徒に丸投げして、自分だけ寝てた平塚先生のほうが最低に見えますけど?」
「グハッ!?」
完全にノーガードの平塚先生にクリティカルヒット。周囲の空気が一瞬で凍りつく。
「お、おい霜月……さすがに言いすぎ──」
「だって事実でしょ?」
「……まぁ、うん。事実だな」
(あースッキリしたー、これが快感ってヤツなのね)
比企谷は秒で折れた。平塚先生は心なしか遠くの星を見つめながら、「教師という職業の尊厳とは……」と小声でつぶやいたが、誰も拾わなかった。
そんな修羅場の空気をさらりと切り裂くように、雪ノ下が歩み寄ってきた。
「……あなた達は凄いわね」
「……は?」
「……まさか偽物?」
霜月と比企谷、即座に構える。敵認定だ。
「失礼ね、これでも本気で褒めているのよ」
雪ノ下が微笑む。その笑顔が“柔らかい”と認識された瞬間、2人の脳がフリーズした。
(え、今……笑った?氷点下の女王が?)
(たぶん見間違い……いや、幻覚?)
「あなた達の行動によって、鶴見さんは変わったわ」
雪ノ下は静かに続ける。
「比企谷くんは、彼女に現実を突きつけて、自分の意思で動くきっかけを作った。霜月さんは、その子の“自由”を思い出させた。どちらも誇っていいことよ」
「……別にいいことはしてねぇよ。小学生脅して、友情ぶっ壊して、半分犯罪スレスレだし」
「私は案を却下されたし、実質ノーダメージね」
「それでも、二人が関わったことで鶴見さんは立ち止まらずに済んだ。行動できたのは、あなた達が“自由”を見せたからよ」
雪ノ下の言葉が一瞬だけ、夜の空気を優しく震わせた。薪の隙間で、パチリ、と音がする。まるで照れ隠しのように。
「氷点下の女王様が褒めてくれるなんて……明日は雪でも降るのかもね」
霜月の皮肉が夜気に溶けた。
「……ふふ、言うわね」
雪ノ下がわずかに唇を吊り上げる。その顔はほんの一瞬、少女のように柔らかかった。
「マジで明日雪降ったらどうする?」
「平塚先生のせいにしよう」
「おい比企谷、それだけはやめろぉ……」
炎が勢いを増す。薪の爆ぜる音と、誰かの笑い声。林間学校の夜は、ようやく少しだけ“温度”を取り戻していた。