普通に短かった夏休みはあっけなく終わった。蝉の声も鳴りを潜め、代わりに課題未提出の悲鳴が廊下に響く季節である。
(夏休みってなんでこんなに短いの?人間の尊厳に関わるわよ)
霜月澪は机に突っ伏しながら心の中で嘆息した。だが今はそんな哲学的なことを考えている場合ではない。
何故なら
「女子で文化祭実行委員やってくれる人いませんかー?」
その一言にすべてが詰まっていた。
教壇の前で、ルーム長が片手を挙げながら虚空に呼びかけている。返事は、当然ながら、沈黙。
しん……とした空気が教室を包む。誰も視線を合わせようとしない。まるで「自分は死体です」と念じて透明化を図っているようだ。霜月もその一人である。机の上のペンを凝視し、何か深遠な真理でも発見したかのような顔をしている。
そう、文化祭実行委員。それを引き受けた者たちが、なぜか口を揃えてこう言うのだ。
「マジでだるい」
男子は奇跡的にもう決まっているらしい。だが女子陣、霜月の所属する2年D組の女子たちは、全員が「
「えーと、このまま決まらないなら……ジャンケンにします」
ルーム長の言葉に、教室内の空気が一気に重くなる。どよめき、ため息、祈りの声が交錯する。
(ふっ、ジャンケンね……)
霜月は余裕の笑みを浮かべた。なぜなら彼女は勝負強い女である。林間学校のとき、平塚先生の助手席にどちらが座るかを賭けて比企谷とジャンケンし、勝利した過去を持つ。
彼女は知っている。勝負は心理戦だと。相手の呼吸、手の癖、テンポを読む。まさにジャンケン界のシャーロック・ホームズ。負ける要素が見当たらない。
……ただし、読者の皆様よ。ここで一つ、重要な事実を思い出してほしい。
この物語の主人公は、霜月澪である。
そう、彼女はただの観客ではない。
その瞬間、運命、いや「主人公補正」という名の神の悪意が発動する。
たとえば。
彼女が「関わりたくない」と思えば思うほど、事件は向こうからやってくる。彼女が「静かに傍観してたい」と願えば願うほど、場の空気は爆発する。つまり.....
「「最初はグー、ジャンケンぽん!」」
女子全員の手が一斉に上がる。
そして――
「……あ」
霜月の手は、孤高のチョキ。教室を見渡すと、他全員の手は見事にグー。
圧倒的敗北。
その瞬間、霜月の脳裏には、夏休み終盤に家から見た花火がスローモーションで蘇った。あの時の花火と同じ、彼女の希望も、儚く散った。
「こうなると思っていたわよ、畜生……」
こうして霜月は、見事に文化祭実行委員へと強制抜擢されたのだった。
放課後の廊下を、やる気ゼロの足取りで歩く女子高生がひとり。
霜月が目指すは、忌まわしき文化祭実行委員会のミーティング会場――つまり、敗者の集う場所である。
(帰りたかった……)
彼女は心の中で三回ほど念じたが、現実は残酷に会議室のドアの前に立たせた。
逃げ場なし。
椅子に腰を下ろすと、同じクラスの男子がひとり隣にいた。しかし、会話はない。沈黙だ。霜月の“やさぐれオーラ”が周囲に天然の結界を張っているため、誰も話しかけてこない。
(まぁ、話しかけられない方が楽でいいけどね)
そうして人が増えていくのをぼんやり眺めていた霜月の目に、見覚えのある不幸面が映った。陰気、猫背、腐った魚のような目――あの特徴を見間違えるはずもない。
「……アンタが実行委員なんてね、比企谷」
「それ、ブーメラン発言だぞ」
「ジャンケンで一人負けしたのよ」
「そうか、俺は寝てたら平塚先生に勝手に決められてた」
「アホね」
「うるせぇ」
開幕から労働者同士の共感と罵倒が交錯する。二人の間には奇妙な“敗北者同盟”の絆が芽生えたような、芽生えなかったような空気が流れた。
だがその空気も、突然ピシリと凍りつく。何かに気づいた霜月が、全員の視線を辿った先そこには氷の女王、雪ノ下雪乃の姿があった。
「え、雪ノ下もいんの?」
霜月、思わず素で反応。奉仕部メンバーの殆どが一堂に集まるこの偶然、いや悪夢。
「比企谷、アンタの女子枠ってもしかして由比ヶ浜?」
「あー、違う。相模って女子」
「あー知らないわね」
即答。
霜月は基本、自分の世界以外には関心がない。というより、“めんどくさい”という理由で人名の記憶容量を節約している。
そんな中、さらに新たな人物が入室。肩までのミディアムヘアを両側で三つ編みにし、前髪をヘアピンで留めた、柔らかな雰囲気の女子生徒。名を城廻めぐり――総武高校生徒会長。ほんわかした空気をまとう天然オーラの持ち主だ。
彼女が資料を配ると、ざわついていた生徒たちも徐々に静まる。時計の針が開始時刻に重なった瞬間、彼女は立ち上がって笑顔で言った。
「それでは、文化祭実行委員を始めまーす!」
その柔らかな笑顔とほんわかした声色は、まさに“癒やし系リーダー”の具現だった。霜月は思っていた。
(なるほど、この人が仕切るなら安心ね)
……と、思っていた“のだが”。
「ありがとうございます~。それじゃあ、さっそく実行委員長の選出に移りましょう」
「え?」
霜月、本日二度目の「え?」である。
ほんわかボイスの口から飛び出した予想外の一言に、会議室全体がざわついた。生徒たちの視線が一斉に向けられる。目に書いてあるのは
(え?生徒会長がやんないの?)
そう誰もが思った。まさかの丸投げである。
「えーと、知ってる人も多いと思うけど、うちの学校では例年、文化祭実行委員長は2年生がやることになってるんだよね~」
3年は受験直前。つまり“責任と忙しさ”の押しつけ合いが2年の宿命というわけだ。だが、納得した顔をしている生徒は一人もいない。
「それじゃあ、誰か立候補する人いますか~?」
ざわ…ざわ… ざわ…ざわ…
誰も手を挙げない、牽制、様子見。
皆、視線を逸らし机の木目が急に気になり出した。
「え、えーっと……誰もいない、のかな? 委員長になると結構お得だよ? 内申とか、推薦とか、有利だと思うし~」
(それで立候補したら“それ目的”って思われるやつじゃん……!)
霜月の心の中でツッコミが炸裂した。この時間、もはや拷問。空気がぬるく、重い。
そして、誰もが息をひそめている中、教師の厚木がとんでもない一言を言った。雪ノ下雪乃を推薦した。姉である雪ノ下陽乃がやったからという理由で。
会議室の空気が一瞬にして凍りついた。雪ノ下雪乃、眉ひとつ動かさず即答。
「実行委員の1人として頑張ります」
完璧すぎる拒否。あまりにスムーズな“斬り捨て”だった。
その直後、場の空気がまた沈み――城廻先輩が「あはは……」と乾いた笑いを漏らした瞬間。
「あの――みんなやりたがらないなら、うち、やってもいいですけど」
自信なさげな声が空気を切り裂いた。全員が振り向く。声の主は、どこか頼りなげに立つ少女相模南。
「本当!? 嬉しいな!」
城廻先輩が即反応、テンション急上昇する。
「じゃあ、自己紹介してもらえる?」
「は、はい。2年F組の相模南です」
(あー……比企谷と同じクラスの)
霜月がぼんやりそう思った瞬間、相模は壇上に促され、勢いで喋り出す。
「こういうの、少し興味あったし……うちもこの文化祭を通して成長したいっていうか……あんまり前に出るの得意じゃないんですけど、あれ、うち何言ってるんだろ、じゃあやるなって話ですよね!あ、でも、そういうの変えたいと思うし、なんていうかスキルアップのチャンスだと思うんで頑張りたいです!」
長い、無駄に長い。自己啓発セミナーかと思う程だ。
(台詞長いし、誰が悲しくてアンタの踏み台にならなきゃいけないのよ……自分を踏み台にしなさいよ)
霜月は心の中で毒づきながら、机に肘をついた。その表情は完全に“帰りたい生物”のそれだった。
文化祭実行委員会は、やや不安な船出を迎えるのだった。