雪ノ下が文化祭実行委員会の“副委員長”に就任する──その知らせが霜月達に届いたのは、相模南が部室を訪ねてから数日後のことだった。
(……マジで意外ね。あの雪ノ下が副委員長とか)
霜月はその話を聞いた瞬間、気分を変えて買ったジンジャーエールを吹き出した。あの完璧主義で人付き合いが壊滅的な雪ノ下雪乃が、よりによって「組織のナンバー2」である。
雪ノ下本人も最初は断ったかもしれない。けれど相模が委員長である限り、いずれ誰かがまとめなければカオスになるのは目に見えていた。
そう、犠牲者第一号が雪ノ下雪乃というわけである。
そしてその「カオス」を収束させる戦場が、いま、目の前で展開されていた。
「それでは、定例ミーティングを開始します!」
相模南のお元気いっぱいの号令で、会議がスタートする。まずは各部署の進捗報告から。
「じゃあ、宣伝広報、お願いします」
「はい。提示予定の7割を消化し、ポスター制作についてもだいたい半分終わっています」
「そうですか〜♪いい感じですね〜」
相模が満足そうに笑顔を見せた、まさにその瞬間だった。
「いいえ、少し遅い」
空気がピシッと凍る。一拍の沈黙。
「……え?」
なにが起きたのか理解できずに、相模がまばたきを繰り返す。雪ノ下雪乃、副委員長。その冷徹な横やりは、もはや指揮官の域だった。
(マジで怖い……)
霜月は自分の書類をめくるふりをしながら、こっそり身を縮める。
「文化祭は3週間後。スケジュール調整の時間を考慮すると、この時点で完了していないのは遅いです。掲示箇所の交渉、HPへのアップは済んでいますか?」
「い、いえ、あの……まだです……」
「急いでください。社会人はともかく、受験志望の中学生やその保護者は、学校HPをかなり頻繁にチェックしていますから」
「は、はいっ……!」
雪ノ下の冷静な追求に、会議室の空気が再び沈む。しかし彼女は何事もなかったように淡々と相模へ向き直った。
「相模さん、続けてください」
「う、うん……。じゃあ、有志統制、お願いします」
「はい。有志参加団体は現在十団体まで増えました」
「それは確かに増えたねっ!地域賞のおかげかな?次は──」
「それは校内のみですか?地域の方への打診は?例年“地域との繋がり”を掲げている以上、参加団体の減少は避けるべきです。それから、ステージ割り振りとスタッフ内訳、タイムテーブルを一覧にして提出してください」
「わ、わかりました……!」
保健衛生、会計監査……報告のたびに雪ノ下の指示が飛ぶ。しかも的確で、無駄が一切ない。それでいて、容赦も一切ない。
霜月はふと、そんな雪ノ下の隣に座る相模の顔をちらりと見た。笑顔を保ってはいるが、明らかに頬が引きつっている。
(あー……委員長のメンタル、いつか崩壊するわね)
誰が見ても、この会議の実質的な支配者は相模ではなく雪ノ下だ。
「いやぁ……雪ノ下さん、すごいね。さすがははるさんの妹だ」
生徒会長の感心したような声が響く。雪ノ下はその言葉にわずかに顔を引きつらせた。
「いえ……そんなことは」
(あー、図星つかれた顔ね)
霜月はペンを回しながら内心で苦笑した。
雪ノ下雪乃の姉──雪ノ下陽乃。完璧超人にして総武高校のOG。霜月は“厚化粧”と呼んでいるが、残念ながらスペックでは妹すら上回る化け物である。噂では雪ノ下陽乃が文化祭実行委員長を務めた際は最高の盛り上がりだったとか。
(もし厚化粧に対してコンプレックスでも抱いて対抗意識から副委員長に就任したなら……雪ノ下、マジでヤバいことになるわね)
そんなことを思いながら、霜月は目の前の資料をぱらりと閉じた。雪ノ下の指示が飛ぶたびに、会議の進行速度は倍速になっていく。
文化祭まで、あと三週間。地獄の副委員長・雪ノ下雪乃による、静かな改革が幕を開けたのだった。
翌日。
霜月澪は、死刑囚のような足取りで会議室へ向かっていた。記録係という立場上、サボるわけにもいかない。だが足は重い。
(昨日の地獄みたいな空気、まだ引きずってるんだけど……)
そうぼやきながら廊下を歩いていると、妙な違和感が胸を刺した。人のざわめき。ひそひそ声。会議室の入り口近くに数人の生徒が群がり、中を覗き込んでいる。
「……なんかあった?」
独り言のように呟いて背伸びすると、見知った後ろ姿が視界に入る。比企谷八幡、そして迷惑イケメンの葉山隼人。
(ああ、同じクラスだから一緒に来たパターンね。なるほど、地獄の構図完成っと)
霜月は特に声をかけることもせず、少し離れた位置から中の様子を覗いた。そして一瞬で状況を理解した。
(あー……やらかしてるわ、これは)
会議室の中央、明らかに空気が凍っている。
雪ノ下雪乃
城廻めぐり
そして――雪ノ下陽乃。
(うわー……来ちゃったよ、厚化粧……!)
見た瞬間、霜月の脳内で警報が鳴った。“この空間にいてはいけない”という本能的警告である。
「姉さん、何をしに来たの?」
雪ノ下の声は冷たく、刃のように鋭かった。
「やだなぁ、わたし有志団体募集のお知らせを見て来たんだよ?管弦楽部OGとしてね」
陽乃はにこやかに笑う。その笑顔の裏に潜む悪意を、誰もが感じ取っていた。
「ご、ごめんね雪ノ下さん。報告しないまま誘っちゃって。私が呼んだんだ。たまたま街で会って、話してたら“有志団体が足りない”って言うから……ね?雪ノ下さんはまだ入学してなかったけど、はるさん、三年のときに有志でバンドやったの!それがすっごくて、平塚先生たちも一緒で」
「それは知ってます。……見ていましたから」
城廻の説明を、雪ノ下は静かに遮った。声の温度は限りなく氷点に近い。
(うわ、めぐり先輩……それ以上は地雷だって)
霜月は心の中で頭を抱えた。にもかかわらず、陽乃は悪びれもせず笑う。
「あはは、めぐりダメだよ。あれは遊びだったし。けど今年は、もうちょっとちゃんとやるつもり。だからいいでしょ?雪乃ちゃん。有志も足りないって言うし、可愛い妹のために、ちょっとくらい助けてあげたいんだよ~」
(言ってることが本心ならいいんだけどね。あの人の場合、絶対“遊び”の方がメインだろ)
霜月の内心が冷ややかに呟く。
「ふざけないで。……したいなら勝手にすればいいわ。どのみち決定権は私にないもの」
雪ノ下は冷静に言い放つが、その指先はわずかに震えているようにも見えた。
「え?そうなの?委員長やってんだと思ってたのに。じゃあ誰が委員長?」
陽乃が首を傾げた、その時。
「ごめんなさーい! クラスのほう顔出してたら遅れちゃいましたー!」
ドアが開き、明るい声と共に一陣の無神経な風が会議室に吹き込む。相模南、文化祭実行委員長。
(……てか、なんで委員長が遅刻してんのよ。サボってんじゃねぇよ)
霜月の額に血管が浮いた。
「あ、はるさん。この子が今年の委員長ですよ」
「え? あ、さ、相模、南ですっ!」
「ふぅん……」
陽乃が一歩前に出る。にこやかだが、目が笑っていない。次の瞬間、柔らかい声で放たれた言葉が、会議室の温度をさらに下げた。
「そっか。文化祭実行委員長が、クラスに顔を出してて遅刻……ね?へぇ~」
「あ、う、その、えっと……」
相模の笑顔が引きつる。陽乃はわざとらしく間を空けて――
「やっぱり委員長はそうでなきゃね~! 文化祭を最大限楽しめる人こそ委員長にふさわしいよね!」
場が凍る。だが陽乃の笑顔は、まるで春風のように穏やかだ。
(思ってもないくせに……)
霜月は小声で毒づいた。
「あ、ありがとうございますっ!」
そして案の定、相模はあっさり木に登った、いや登らされた。
「いいねいいね~!えっと、何がみちゃんだっけ?まあいいや。私は雪乃ちゃんの姉の、雪ノ下陽乃っていうの。一応この学校のOGで、めぐりの先輩。よろしくね~♪」
「あ、は、はい! よろしくお願いしますっ!」
(……合掌。委員長、もうすでに厚化粧の掌の上ね)
霜月は心の中で線香を立て、椅子に沈みながら小さく呟いた。