会議室の空気が、見事に冷え切っていた。雪ノ下雪乃と、厚化粧……もとい雪ノ下陽乃の“姉妹冷戦”が展開されたせいで、誰も口を開けずにいたのだ。
そして冷戦真っ只中で仕事が始まって少し経った頃。
「みなさ~ん、ちょっといいですかー?」
突如、場の緊張を切り裂くような明るい声が響いた。声の主は、文化祭実行委員長・相模南。いつも通りの能天気な笑顔を浮かべて立ち上がり、会議室全体を見渡す。
霜月澪は、嫌な予感しかしなかった。
(あー……喋る前に一回深呼吸してくれないかな)
相模は咳払いをひとつして、満面の笑みで言った。
「少し考えたんですけどー……実行委員は、ちゃんと文化祭を楽しんでこそかなーって!やっぱり自分たちが楽しまないと、人を楽しませられないってゆーか~」
その瞬間、霜月は顔を上げて、間髪入れずに呟いた。
「何が言いたいわけ……」
トーンは低く、完全に呆れ声。だが相模は気づくはずもなく、堂々と続ける。
「予定も順調にクリアーしてるし、クラスの方も大事だと思うので~、少し仕事のペースを落とすっていうのは、どうですか?」
(相模は馬鹿なのかな……いや、馬鹿だからこんな発想が出るのか)
霜月は心の中で突っ込みながら、頭痛を覚えていた。前倒しで進めている進行を「余裕」と勘違いしてブレーキを踏む——悪手中の悪手。ツケが回る未来しか見えない。案の定、雪ノ下が静かに反論を始めた。
「相模さん、それは考え違いをしているわ。バッファを持たせるための前倒し進行で……」
(そうよ、雪ノ下。そこはズバッと言ってやんなさい)
霜月が心の中で拍手を送った、その瞬間だった。
「いやー、いいこと言うねー」
のんびりとした声が、空気をすべてかっさらった。厚化粧……じゃなくて、雪ノ下陽乃だ。頬に笑みを浮かべ、まるで悪魔のように柔らかい口調で続けた。
「私のときもクラスの方、みんな頑張ってたなぁ~」
「あの、厚化粧……!」
霜月が恨みがましく呟いたが、もちろん誰にも届かない。
「先人の知恵に学ぶって言うかさ。前例もあるし、その時って凄い盛り上がったんでしょ?」
痛いところを突かれた雪ノ下は、口を閉ざすしかなかった。事実なのだ。反論すれば、ただの我儘に聞こえる。
「……」
静寂を裂くように、陽乃は楽しそうに笑いながらトドメを刺した。
「やっぱ、いいところは受け継いでいくべきだしー。私情を挟まないで、皆のことも考えようよー」
会議室の空気が完全に陽乃のペースに染まり、相模はすっかり調子づいていた。「そ、そうですよねっ!」などと頷きながら、周囲もつられて拍手……まではいかないが、否定する声は上がらなかった。
霜月は机に頬杖をつき、ため息を吐く。
「……やるべきことを削って“楽しむ”って、それもう仕事じゃないんだけど」
皮肉を込めて呟くが、聞く者はいない。委員長と“元先輩”と“空気読まないバカトリオ”の前では、一介の実行委員が何を言っても無力だ。
そして、結論。
「——じゃあ、少しペース落として進めるってことで!」
相模のひと声で、会議は決まった。霜月は遠くを見るような目でぼそりと呟く。
「……うん、ツケが回るのが目に見える」
そう、まるで未来予知でもしたかのような声色で。
霜月が抱いた“嫌な予感”は、数日後、ある意味で最も鮮やかな形で証明されることになった。
——カタカタカタカタカタ……
会議室に響くのは、霜月の指がキーボードを叩く乾いた音だけ。見渡せば、広い会議室に人影はまばら。終電間際のファミレスの方がまだ活気がある。残っているのは、魂を吸われた比企谷と、机に突っ伏して寝ている誰か。
「……仕事が終わらない……」
「……ああ、終わらないな」
霜月がぼそりと呟けば、比企谷がゾンビのように同意する。二人の顔からは生命の輝きという概念が失われて久しい。
あの日——厚化粧(雪ノ下陽乃)が“降臨”した瞬間から、状況は地獄と化した。
委員会メンバーの間で「クラスの準備もあるんで~」という魔法の言葉が流行したのだ。結果、今この地獄を支えているのは、わずかな“残業適性者”だけである。
「記録雑務。先週の議事録が提出されていないのだけれど」
副委員長・雪ノ下雪乃の冷たい一言が飛ぶ。
霜月は無言でファイルを差し出した。完璧な議事録。ミスは皆無。提出を忘れていただけだ。だが、今の彼女が抱えるのはそれどころではない。
霜月の目の前には、会計用の書類とExcelの無限地獄。
「……おかしいな。私、記録雑務だったよね?」
現実は非情である。
霜月が担当しているのは、なぜか“会計監査”。議事録も終わって別の仕事をしないと行けないのに、なぜか数字と格闘している。横を見ると、比企谷はポスター印刷係にされ、プリンターの前で人生を悟っていた。
原因は単純——サボる奴が増えたから。
そして社会の理に従い、しわ寄せは最も真面目に働く人間へ集中する。
「青春の名を借りたブラック企業って、こういうことなのね……」
ため息まじりに電卓を叩きながら、霜月は心の中で毒を吐いた。
(あの馬鹿と厚化粧、マジで死ね)
もはや心の声が理性の検閲を突破していた。しかも、けっこう本気で思っている。彼女の指が再びキーボードを叩く。
——カタカタカタ。
——Enter。
そして、寝ている男子の肩を軽く叩くと、電卓を握りしめ、笑顔で囁いた。
「——起きて働け」
静寂。次の瞬間、会議室に響くのは、カタカタ音と、かすかな悲鳴。
その男子、2年D組の霜月のクラスメイト。実行委員の仕事をサボろうとしていたが、霜月の“笑顔(脅迫)”の前に陥落。以後、無言で真面目に働くようになったという。人は成長するものだ、恐怖で。
そして、霜月をさらにイラつかせる出来事が、静寂を切り裂いた。
「お茶」
「……は?」
唐突に、霜月の目の前へ“湯呑”が置かれた。置いたのは、どこの誰とも知れない女子生徒。たぶん先輩——だが、今この瞬間、霜月にとってその情報は砂粒ほどの価値もない。何故なら霜月の理性は今ので限界を超えたからだ。
彼女の眉がぴくりと動いた。
「待ちなさいよ、茶汲み」
立ち上がりざまに手を伸ばし、相手の肩をがっしと掴む。あまりの勢いに、相手がバランスを崩した。あだ名も茶汲みになっていた。
「は?先輩に何その——」
「アンタを先輩だなんて思ったことは一度たりともないのよ」
語尾まで言わせず、霜月の声が冷ややかに割り込む。怒っているというより、“完全に呆れている”トーン。その瞳の冷たさに、相手は言葉を失った。
「茶ぐらい自分で入れなさいよ」
淡々とした一言に、上級生は「……ご、ごめん」とだけ呟き、そそくさと退散。場には再びキーボードの音だけが残った。
——カタカタカタ。
霜月は何事もなかったかのように座り直し、Excelの海へ不本意にも帰還した数秒後、比企谷がぼそっと呟いた。
「……今の誰?」
「茶汲み」
「そうか....」
霜月は即答し、比企谷は納得した。その瞬間またひとり、実行委員会から人影が消えたきがした。