雪ノ下は言葉を返さない。けれど、その沈黙こそが、図星を突かれた証だった。比企谷が何かを言おうとして口を開きかけたが、霜月が軽く手を上げて制する。
そして、再びため息をつきながら、ゆるく視線を雪ノ下へ戻した。
「雪ノ下、私は言ったはずよ」
その声は、まるで過去の自分の台詞をなぞるように、ゆっくりと響く。
「他人をいちいち気にしてたら、自分が
彼女の言葉は淡々としているのに、不思議と重く響いた。雪ノ下は視線を落とし、ペンを握る手に力を込める。けれど霜月は、そんな様子を見ても容赦しない。
「アンタは陽乃っていう完璧なモデルが目の前にあるせいで、自分もそうでなきゃって思ってる。でも、その理想が自分を潰してることに気づかないなら、それこそ滑稽よ」
一瞬の沈黙。雪ノ下の表情に、かすかに痛みが走る。その隙を突くように、霜月は軽く肩をすくめて締めくくった。
「責任感は美徳よ。でも、アンタの場合、それが呪いになってるわ」
比企谷はその言葉に、ゆっくりと息を吐く。
——まいったな、と心の中で呟きながら。
彼の目に映る霜月は、まるで雪ノ下の完璧な理屈の隙間を、的確に撃ち抜くスナイパーのようだった。しかも命中精度は百発百中。優しさの欠片すら見せないその正論に、彼は内心で戦慄する。
(……やっぱ霜月、奉仕部の中で一番現実見えてるのかもしれねぇな)
会議室にはまだ、張りつめた沈黙が残っていた。霜月はそれを見届けるように、わずかに口角を上げる。
そして——急に口調が軽くなった。
「まぁ、こんな事になったのはアンタの姉と、あの
その瞬間、比企谷が「え?」と声を上げるより早く、霜月の顔に黒い笑みが浮かんだ。
「だからツケはきっちり、きっかり払ってもらうわ……フフフフフ……」
まるで悪役幹部のような笑いを浮かべながら、霜月は机を軽くトントンと叩く。
比企谷は椅子から半分ずり落ちながら呟いた。
「……お前、そういうとこだけ元気だな」
「当然でしょ。恨みと根性は女の燃料よ」
そう言って霜月は立ち上がり、散らかった書類を片手でまとめる。その背中は妙に頼もしく、しかし近づくと確実に巻き添えを食らうタイプのオーラを放っていた。
そして残された比企谷と雪ノ下の頭上に、彼女の低く楽しげな声が落ちる。
その瞬間、会議室の空気がひんやりとした。雪ノ下は静かに、比企谷は露骨に青ざめる。
(……終わったな、あの二人)
と、心の中で合掌する比企谷であった。
次の日の昼下がりの放送室から響く校内放送が、サボっていた文化祭実行委員たちの心を震撼させた。
『実行委員の皆さんは放課後、大切な連絡があるので会議室に集合してください』
めぐり先輩の声による放送だった。昨日霜月による雪ノ下の説得により仕事体制を組み直すことになったからだ。
そして放課後まさかの事態が霜月達を襲う。
「え?雪ノ下が風邪で休み?」
会議室に先に集まった比企谷たちに、衝撃の報せが走った。いや、走るどころか全員の頭の中で雷鳴が轟いた。文化祭の要である副委員長・雪ノ下雪乃が倒れたのである。
「なんてこと……」
霜月は、手にしていたスケジュール表をゆっくりと伏せ、肩を落とした。その姿はまるで戦場で弾を撃ち尽くした軍師のようだった。霜月は特定の個人の極端な仕事量を減らすプランだった。しかし雪ノ下という精神的支柱が重要だった。彼女がいなければ指揮系統は混乱する。
霜月は一拍の沈黙のあと、スッと顔を上げる。その目には覚悟と……若干の狂気が宿っていた。
「仕方ない、プランMで行くわ」
「プランM?なんだよそれ」
霜月はにっこりと、まるで人を追い詰めることに快楽を覚える悪魔のような笑顔で答えた。
「プランMのMは——“みんなで強制的に頑張ろう”のMよ」
霜月は胸を張って言い放った。その笑顔は爽やかというより、もはや破滅の鐘を鳴らす笑顔である。
放課後の会議室。机の上には資料が山積み。雪ノ下雪乃が風邪で倒れたという衝撃が、未だ全員の思考を停止させていた。
比企谷は頭を抱えた。雪ノ下が抜けたことで文化祭の運営は完全に片肺飛行状態。いや、むしろ飛ぶどころか墜落コースだ。
「さて比企谷、アンタは私の右腕としてバリバリ働いてもらうから頼むわ」
「おい待て。なんでそうなる」
「私一人じゃ手が足りないし、アンタ、こういう時に“人のサポートが得意”って顔してるもの」
「誰がそんな顔してんだよ……」
霜月は軽く笑う。その口元の曲がり方はまるで“最初から計算済み”と言わんばかりだ。
実際、雪ノ下に休むよう説得したのは霜月自身。そして彼女は結果的に休んだ。つまり今の混乱は、巡り巡って霜月が蒔いた種である。
だが彼女は後悔しない。責任を取ると決めた女の顔をしていた。
……もっとも、今回の「責任を取る」というのは、自分と部下(比企谷)を全力で酷使する方向性だったのだが。
しかも抜け目ないことに、すでに比企谷には資料一式を念の為に見せておいた。仕事内容、各部署の連絡網、進行表、備品リスト。すべてが完璧に整理されていた。つまり、彼が逃げるという選択肢は存在しない。もちろん霜月も見ている。
(おい、これもう犯罪の域じゃねぇか……)
比企谷は悟った。これは雪ノ下雪乃が休んだ日ではなく、霜月澪がブラック企業を立ち上げた日である。
かくして、雪ノ下雪乃代理・霜月澪副実行委員長(臨時)が誕生した。
放課後――会議室にはすでに生徒たちがぎっしり詰め込まれていた。ちょっと遠い席には、いつになく真剣な顔の平塚先生。教師の威光を借りて指揮系統を安定させる、霜月の小賢しい布陣である。
そしてもう一人、厄介な存在。隣で、こちらを見つめる厚化粧の女――雪ノ下陽乃。霜月はその笑みを見て、内心そっとため息をついた。
(……あの人の「お手伝い」って、だいたい“現場を三倍混乱させる”って意味なのよね)
とはいえ、もはや後戻りはできない。彼女の力を遺憾なく発揮させて貰うとしよう。
「はい、そんなこんなで雪ノ下雪乃さんが皆さんの分の仕事をやり過ぎて過労で倒れたので、代理で霜月澪が務めさせてもらいます」
会議室がざわつく中、霜月はにっこりと笑って続ける。代理の説明としては霜月が雪ノ下に休めと言った張本人、その結果生じた穴は霜月が責任を取る という感じである。
「遅れた分はビシバシ働いて取り戻せるように頑張りましょう。それじゃあ、委員長、挨拶どうぞ」
その声音には「お前らがサボったせいで雪ノ下倒れたんだぞ」という非難が、丁寧にオブラートに包まれていた。
「は、はいっ!それでは、文化祭準備を始めます!」
こうして、文化祭実行委員会・緊急代行体制「プランM」が始動した。略して、“マジで死ぬほど働かされる”プランMである。