霜月澪発案のプランMが、いよいよ本格的に始動した。だが開始からわずか数十分、誰の目にも明らかだった。これは地獄だ。まごうことなき、労働地獄である。
会議室には活気……いや、もはや戦場の熱気が満ちていた。書類が飛び交い、印刷音が響き、誰かが叫び、誰かがため息をつき、誰も休んでいない。まさに地獄絵図。
この空間に限っては、休む者こそが悪であり、働く者こそが正義なのだ。
「ここの収支、合ってないんじゃないの?ちゃんと電卓叩いて確かめて」
霜月は指先で表を叩きながら、淡々と指示を飛ばした。
「こっちの紙はここにミスあるから直して。単価の桁がずれてる。それとフォント——バラバラで読みにくい。体裁くらいは最低限合わせといて」
霜月の声は冷静で、でも妙に通る。会議室の空気が一瞬引き締まるようだった。色々な質問が霜月にやってくるが全て捌き、数十分経った頃。
「……えっと、この修正版って誰に渡せばいいですか?」
「その紙は有志のところに回して。締切近いから、あいつらが後で騒ぐと面倒だからって....え?有志の人と意見が合わない?」
生徒が遠慮がちに尋ねると、霜月は比企谷に目を向けてこう言った。
「比企谷、行って来なさい。有志の説得、詳細はあの子から聞いて」
「....了解」
会議室に“休む”という概念は存在しなかった。それもそのはず、休んでた奴らのツケが今すべて回ってきているのだ。
完全に事務処理の使いっ走りと化した比企谷はもはや、無言のデリバリーボーイ。無言で書類を抱えて走ったり説得したりなど。霜月の指示が飛ぶたびに、彼の労働ポイントが確実に加算されていく。
そして肝心の霜月はというと、机に積み上がった書類を片手でめくりながら、もう片手で別の資料にサインを入れ、それが終われば高速でタイピングという超人的マルチタスク を発揮していた。書類を捌き、文字を打ち口では次の指示を飛ばし、脳内では三手先の進行を計算している。
誰よりも働き、誰よりも冷静に指示を出している。だが、その実、霜月の頭の中では——
(……雪ノ下雪乃ってほんとバケモンだわ……!これ全部一人でやってたの?人間辞めてるでしょ……!)
と、しっかり心の中で悲鳴を上げていた。
ちなみに、相模も珍しく仕事をしていた。いや、正確には「今までサボってた分を霜月に睨まれて強制的に働かされていた」だけで、ようやく人間の労働レベルに達しただけである。
それでも雪ノ下雪乃が担当していた頃と比べれば、今の仕事量はまだ可愛いものであり、霜月の真の秘策は、別方向にあった。
またまた、ちょうどいいタイミングで帰ってきた比企谷。肩で息をしながら霜月に報告する。
「有志の説得……一応、形だけは了承してくれた」
「よかった。じゃあ比企谷、あの厚化粧にこの仕事押し付……渡して来て」
「今、“押し付け”って言ったよな?」
「気のせいよ。ほら、早く渡して来なさい。時間は待ってくれないのよ」
霜月の口元に浮かぶのは、悪魔のような笑み。そう彼女は、雪ノ下雪乃すら凌駕する存在、雪ノ下陽乃に面倒ごとを投げるという荒技を使ったのである。
彼女の社交性と圧倒的コミュ力を活かし、面倒ごとをすべてそちらへ回す。これが霜月流・負担分散術だった。もちろん本人の同意など、あるはずもない。
「陽乃さん、追加の分です……」
「比企谷くん、お姉さん悲しいなぁ。こんな仕事押し付けられて……ちょっとショック....」
比企谷は完全に地獄の橋渡し役であった。陽乃の圧と霜月の圧の間で、まさにサンドイッチ状態。魂が削られていく音が聞こえる。
「文句なら霜月に言ってください……」
「ふふっ、じゃあ今度、ちょ〜っとだけ“お返し”しておこうかな?」
とぼとぼと背を向けた瞬間、雷鳴のような声が飛んだ。
「比企谷、こっち来て!」
書類の山に埋もれながらも鋭い目つきでこちらを見つめる霜月。彼女の周囲だけ、時間の流れが一段早い。
「比企谷、コレどう思う?」
「ここ……変えた方がいいと思う」
「分かった、すぐにそう伝えるわ。あっ比企谷、これから会計のとこ行って、なんか予算の事で揉めてるらしいから」
「分かった.....」
霜月はそのまま別の委員のもとへ書類を滑らせ、比企谷にも指示を飛ばす。
(おいおい……これ、俺が返答するたびに仕事が倍速で増えてねぇか……?)
比企谷の脳裏に浮かんだ疑念は、すぐに確信へと変わる。そう、彼はもう完全に霜月の“即応型右腕”としてシステムに組み込まれていたのだ。
「よし……ノンストップで、このペースなら、あと2時間で終わるわね」
比企谷はその言葉を聞いて、静かに頭を抱えた。
(……いや、普通に地獄だろ、それ)
こうして霜月発案のプランMは、誰一人休むことを許さない“総動員地獄モード”として稼働を続けていた。
そこへ、雪ノ下陽乃が書類を持って現れた。押し付けた仕事を終わらせるあたり、やはり彼女はハイスペックなのだ。
「はいこれ」
「……どうも」
霜月の内心は冷め切っていた。
(渡したんなら帰りなさいよ……)
「……何かご用でもあるんですかね?」
仮にも先輩だろうと敬語を使う気はない。霜月らしい冷淡さだ。
「いや、中々雪乃ちゃんの代わりに頑張ってるなーって」
霜月は書類の束を片手に、淡々と言い放った。
「誰かさんのせいで遅れを取り戻さないといけないから、戦力になる人はフルで働かせてんのよ」
その声音は低く静か。しかし、忙しすぎて言葉が尖る暇すらない人間特有の“冷えた温度”があった。
「そうだねぇ、ほとんど貴方が押し付けた仕事だけど」
雪ノ下陽乃は涼しい笑顔のまま返す。柔らかい声の方が、霜月にはより腹が立つタイプのやつだ。だが霜月は眉一つ動かない。無表情のまま息を整え、次の球を投げた。
「ああ私、アンタに一つ質問したかった事があるのよ」
その瞬間だけ、霜月の瞳がわずかに細くなる。情報を解析する時の“静かな獣の目”だった。
「え、なになに?なんでも聞いて。今なら答えてあげる」
陽乃はしれっと顎を傾ける。挑発なのか好奇心なのか判別しづらい、あの“嫌な余裕”だ。霜月は口で息を吐き、核心を突いた。
「じゃあ早速……なんであん時、相模を肯定したわけ?」
陽乃の呼吸が、ほんのわずかに沈んだ。
「ん?」
気の抜けた返事。だが視線だけは警戒色を帯びている。
霜月は続ける。
「“私のときもクラスの方、みんな頑張ってたな〜”なんてふざけた事言って、仕事のペース落とすの肯定した理由よ。おかげでサボる奴は増えて雪ノ下は身体を壊した。アンタにも責任があんじゃないの?──『厚化粧』」
その一言が、空気を切り裂いた。陽乃の笑顔から温度がすっと消える。周囲の気配が静まり、空調の風さえ遠くなる。それでも霜月は怯まない。
むしろ気怠げに目を細め、陽乃を正面から射抜く。
「仮にもOGなんでしょアンタ。文化祭ぶっ壊したいの?文化祭嫌いなの?冷血硬派なの?」
陽乃は霜月を無言で見つめ続けた。挑発を理解した目。挑戦を歓迎する目。
やがて、ゆっくりと口元を上げる。
「わたしが何かを言って、貴方はそれを信じるの?」
柔らかい声。だがそれは“解答権を与えない”人間が使う声だった。一方で霜月は、陽乃から答えを得る気なんて毛頭ない。
「アンタみたいな人間ほど信じたいと思わないわ。だから勝手に当てる。──厚化粧、アンタ……雪ノ下雪乃のためにやってんでしょ?」
その瞬間だった。
陽乃の表情に、ごくわずかな揺らぎ。普通なら絶対に気づかない“ノイズの一瞬”。霜月は逃さなかった。
「どうして雪乃ちゃんのためって言えるの?」
陽乃の言葉は試すようで、少しだけ刺々しい。霜月は内心で”やっぱり”と呟く。
「アンタの言動って、全部雪ノ下中心じゃん。あと比企谷と雪ノ下を同時に試してるでしょ……顔に出てんのよ、厚化粧の癖に」
そして締めくくる。
「別に雪ノ下の成長に首突っ込むのは勝手だけどね。周り巻き込まないでくれる?雪ノ下雪乃は雪ノ下雪乃であって雪ノ下陽乃じゃないのよ。人に同じ成果を期待するなっての。アンタのおかげでこっちは膨大な仕事を片付けなきゃいけないのよ。だから追加の仕事お願い」
そう言って霜月は追加の仕事を陽乃にわたす。その声は怒りではなく、淡々としていた。だからこそ、陽乃には余計に刺さる。陽乃はひとつ息を吐き、軽く笑った。
「ふーん……面白いね、貴方。気に入ったかも」
霜月は即答した。
「気にいったなら仕事して」
刃のような切り返し。その瞬間だけ、陽乃の肩が小さく震えた。笑ったのか、悔しがったのか、それは誰にも分からない──ただ、陽乃が霜月を“特別枠”に入れたことだけは明らかだった。