霜月は心の中で毒づく。
(話を最後まで聞けっての、ほんと雪ノ下ってそういうとこあるわよね……)
雪乃との会話が一段落すると、比企谷がぼそりと口を開く。
「じゃ、用も済んだし、俺は帰るから」
「雪ノ下、紅茶ごちそうさま」
「え、あ、あたしも……」
3人がカップを置き、立ち上がる。玄関で靴を履き替えていると、背中にふわりとした声が飛んできた。
「由比ヶ浜さん」
「え?」
雪ノ下雪乃は、靴紐を結ぶ由比ヶ浜の背中を静かに見つめていた。
「その……今すぐは難しいけれど、きっといつか、あなたを頼るわ。だから……ありがとう」
由比ヶ浜の手が止まり、目が丸くなる。
「あ、はい!? ……ゆきのん……」
「でも、もう少し考えたいから……だから……」
「うん……大丈夫」
そのやり取りは、まるで薄桃色のフィルターでもかかったかのような、妙に甘い空気を孕んでいた。
その空気に当てられながら、霜月と比企谷は、視線だけで会話を始める。
⸻
霜月が比企谷にチラッと視線を送る。
(比企谷……今、私たちの目の前で百合イベントが発生してるわ。どうすればいい……?)
比企谷はため息を飲み込みながら、目をそらさず答える。
(とりあえず、終わるまで待つか、帰るかだな)
霜月はさらに目を細めて突っ込む。
(てか比企谷、あの中に飛び込んでみない?)
比企谷が心底嫌そうな目で返してきた。
(ばっか、お前。百合の間に挟まる男は死刑って決まってんだよ。あの圧の中じゃ即死だ)
霜月は内心で肩をすくめる。
(……末路が気になってつい言ったけど。てか、アンタは既に挟まれかけてるようなもんでしょ?)
(冗談はやめてくれ、心臓に悪い)
自覚あんま無いのかよと思いながら...
(……比企谷、アンタは是非とも両耳にパンを当てて欲しい)
(なんでだよ?)
(“馬鹿のサンドイッチ”が完成するから)
(堂々と俺を馬鹿扱いすんな!!)
イギリス出身の超有名シェフの
そして──
「霜月さん」
突然、呼び止められた。雪ノ下雪乃の声だった。霜月は小さく肩を揺らし、振り返る。
「ん?」
「少し、残ってくれないかしら……」
その声音には、先ほどまでの凛とした冷たさは微塵もない。頼るような、すがるような、かすかな脆さすら混じっていた。
霜月は思わず目を瞬かせる。
「……え?」
その声に由比ヶ浜と比企谷の動きもぴたりと止まる。
沈みゆく夕陽のなか、“雪ノ下雪乃が誰かを頼る”──そんな稀有な瞬間が早くも訪れようとしている....かもしれない。
空気が、静かに変わった。
完璧主義者の住処は、住人の思想すら反映するのか、ひどく静謐で隙がない。そんな空間において――ただ一人浮いている存在がいた。
霜月澪である。
椅子に浅く腰掛け、帰りたいオーラを全身から撒き散らしその態度は、まるで「私は今ここにいません」と無言で抗議しているかのようだった。
やがて、堪えきれなくなったように口を開く。
「で、話って何?」
不機嫌を隠す気さえない声音。だが雪ノ下雪乃は、特に気にした様子もなく、背筋を正したまま話し始める。
「……あなたは前にこう言ったわ。『他人をいちいち気にしてたら、自分が
霜月は眉ひとつ動かさなかった。顔には「続けろ」という圧しか浮かべない。
雪ノ下は一度目を伏せ、小さな呼吸をひとつ置いてから口を開いた。
「……あの時、私はその言葉を完全には理解していなかった。いえ、正確には....理解したくなかったのだと思うわ。けれど……さすがに気付かされたわ」
(で、何の話?いやほんと流れが見えない)
霜月は心の声だけで盛大なツッコミを入れつつも、ここで口を挟むと絶対めんどくさいと判断し、仕方なく話に合わせる。
「で、なんで今さら気づいたの?」
雪ノ下は霜月を見つめ、逆の質問を返す。
「逆よ……あなたは、あのとき何故そんなことが分かったの?」
(いや質問が逆...会話のキャッチボールをしろよこの完璧マシーン)
心の中ではツッコミ大会が始まっているが、表情はひどくクールだ。
「アンタの会話の節々から丸分かりだったのよ。雪ノ下は、自分の理想に呪われてるって」
「……呪われている?」
「そう。理想で自己洗脳して、現実との境界線を見失ってるってこと」
雪乃の眉がピクリと揺れた。その言葉は、彼女の心臓に見事に刺さったらしい。
霜月はその反応を見逃さず、わざわざため息をつく。
「アンタ、完璧主義すぎるのよ。もうちょいサボる勇気持ちなさいって」
「……あなたみたいに?」
「言うじゃない。でも私は倒れない程度には仕事してからサボるわ。アンタは倒れた後にサボるでしょ?順番逆よ」
口角を上げて挑発的に笑う霜月。雪乃はわずかに視線をそらし、唇を引き結ぶ。
どちらが優勢とも言えない沈黙が落ちる。このふたりは仲が良いのか悪いのか――外から見れば喧嘩にしか見えないが、言葉の端々には、互いが互いを認める気配が微かに漂っていた。
やがて霜月が椅子から立ち上がる。
「……もう帰る」
「まだ話は終わってないわ」
「はいはい、続きは来世で」
その軽口に雪乃は何も返さない。霜月は面倒くさそうに玄関へ向かいかけその背中に、静かな声が落ちた。
「……やっぱり、あなたには敵わないわね」
小さな本音だった。霜月は振り返る。
「え?なんか言った?」
「いいえ。何でもないわ」
その瞬間、霜月はふっと微笑んだ。まるで、雪ノ下雪乃という厄介な少女の“本音”を一つ拾った気がしたのだ。
そして同時に思う。
(……また呼ばれるな、これ)
嫌な予感は確信めいていた。しかし雪ノ下雪乃の完璧なリビングの中で、霜月澪という異物は、なぜか空間に馴染み始めつつあった。