静まった会議室で。比企谷八幡は、たった今 “文化祭のスローガン” という重大任務を任され、ボードの前に立っていた。そして彼が堂々と書き込んだのがコレだ。
『人、よく見たら片方楽している文化祭〜』
……その瞬間、室内の空気は秒速1メートルで凍結した。
(比企谷……)
霜月澪は額を押さえる。しかしその横で、雪ノ下陽乃だけが腹を抱えていた。
「っははははははっ!! バカだ!バカがいる!最高!……ひ、ひぃ〜……お腹痛い……!」
笑いのボリュームが陽乃だけオーバーキルである。
「比企谷、説明を」
呆れていたはずの平塚先生が、気がつけば真顔で問い質していた。
比企谷は肩をすくめて言う。
「いや、人という字は支え合ってるって言うけど、あれ片方寄りかかってるだけっすよね。誰かの犠牲を前提としてるわけで。だから文実にふさわしいかなって」
「犠牲、とは具体的に何を指す?」
平塚先生の声に若干の低音が乗る。
「俺とかそうでしょ。アホみたいに仕事押し付けられてるし。それともこれが委員長の言う “助け合い” ですかね? 助け合った経験ゼロなので分かんないんですけど」
その瞬間、全員の視線が相模に集約された。ガタガタ震える相模。見ないふりをする委員会メンバー。
(まぁ私らが巻き返さなかったら、文化祭ガチで終わってたわね……)と霜月は心の中でつぶやいた。
そんな微妙すぎる空気を断ち切るように、霜月が手を挙げた。気まずさで目が泳ぎきっている相模は、もはや呼吸するだけで精一杯という様子だった。
「委員長、私も出来ました」
「……あ、じゃあ発表して……くれる?」
ひゅ〜っと空気が抜けるような声で相模が返す。霜月はスタスタと前へ出て、ボードをみせた。
『みんなで作った文化祭』
あまりに普通。比企谷の“問題作”の直後ということもあり、その健全さが逆に異様だ。むしろチープ過ぎる。
(なんだよこの急にまともな空気……こわっ)
比企谷は内心で身構える。平塚先生が霜月に促した。
「霜月、説明を」
霜月は、いつものやさぐれた雰囲気を少しだけ和らげて話し始めた。
「文化祭って、いろんなことが合わさって作られてるものだと思うんですよね。出し物何やるか、とか劇の練習とか」
そこだけ聞けば、至って真面目。比企谷が作った澱んだ空気が洗い流されかける。
――が。
霜月は続ける。
「バンドで盛り上げるとか、部活で企画したりとか、本当にいろんなものが合わさってると思うんですよ」
まだ普通だ。しかし、ここで霜月が一拍置いた。その間で比企谷は悟る。
(……来るなコレ)
そして霜月は、さらっと本音を放り投げた。
「でも正直……文化祭準備で“クラス優先”って言い訳してサボった奴とか、そいつらのために仕事のツケ払うのに苦労したこととかも“みんな”に含まれるのは、ハッキリ言って納得しませんけどね」
会議室が“ピシッ”と音を立てた気がした。全員の視線がゆっくりと相模へ向く。相模は決壊寸前のダムのように震えた。
「えっ……あ、その……っ」
霜月はあくまで真顔。刺している自覚すらなさそうな自然体である。
(いや絶対わざとだろこれ)
比企谷は心の中で総ツッコミを入れた。平塚先生は頭を押さえ、こめかみを揉む。
「……霜月。その“みんな”の内訳は、必要以上に詳しく説明しなくていい」
「そうですか? でも実体験ですし」
「言わなくていい!」
先生の声が裏返った。会議室には、気まずさと比企谷の“あの男やっちまった感”、そして陽乃の小さく漏れるクスクス笑いだけが漂っていた。
会議室に重苦しい沈黙が落ちる中、相模は比企谷と霜月の言葉によって、もはや隠しようのない醜態を晒していた。その様子を見ていた雪ノ下は珍しく、ほんの僅かに口元を緩め、噛み殺した小さな笑い声を漏らした。
すぐに彼女は表情を戻し、「今日は解散します。明日、改めて再検討を行います」と宣言したうえで、
「遅れを取り戻すため、今後は委員の強制参加を義務づけます」
と、副委員長として淡々と告げた。
その厳しさは本来の雪ノ下そのものだったが、彼女の目だけは、どこか愉しげだった。
会議室を出ようとしたとき、城廻会長が二人の後ろを通り過ぎる。いつもの柔らかな笑顔のまま、しかし声だけは聞き慣れないほど低く沈んで。
「残念だな……二人は真面目な子だと思ってたよ……」
その声は、思わず空気が凍るほどの落差を持っていた。
比企谷は何も返せず黙った。だが霜月は誤解を残したくないという一点だけで、静かに口を開いた。霜月が霜月という存在である為に。自己の存在を他者に決められない為に。
「城廻先輩。あなたが私をどう思おうとそれは、自由です。でも……あなたが思うほど、私は真面目じゃありません、私は自分の
その声音には反抗心でも怒りでもない、ただの事実だけが淡々と置かれていた。あの雪ノ下陽乃にすら使わなかった丁寧語に、城廻は驚いたように一瞬だけ目を瞬かせ、しかし悲しげな呟きと共に去っていった。
彼らが廊下へ出て、それぞれ帰路につこうとしていた頃――。
「……二人とも、いいの?本当に、アレで」
背中を壁に預ける姿勢で待っていた雪ノ下が、ぽつりと声をかけてきた。彼女の声音には、指摘よりも、静かな心配が滲んでいた。
「アレって何だよ」と比企谷が眉をひそめ、霜月も「何かあったっけ」と軽く返す。
雪ノ下は一拍置いて言った。
「……誤解は、解いたほうがいいと思うのだけれど」
「いや、誤解なんて解けねぇよ」
比企谷はため息まじりに返す。
「自分で解を出してるやつに言ったってムダだろ。もう問題は終わってんだよ。これ以上の“解きよう”なんてねぇよ」
霜月も横で静かに頷く。
「私も自分の言いたいことを言っただけ。言っちゃ悪いけど期待したのは向こうよ」
その一言に、雪ノ下はわずかに眉を寄せる。
「……どうでもいい時ばかり言い訳して、大事なときは言い訳しないのね。それってちょっと卑怯だと思うわ。相手も言い訳できなくなるじゃない」
比企谷はすぐに返した。
「言い訳なんて意味ねぇよ。大事なときほど、人間は勝手に判断すんだろ」
霜月も続ける。
「言い訳じゃなくて、本音よ。あれは」
二人の言葉に、雪ノ下はしばらく沈黙した。その沈黙は怒りでも失望でもない、もっと静かな“理解”のための間だった。
やがて彼女は小さく息を吐き、噛み締めるように呟く。
「……そうね。そうかもしれない。言い訳は無意味であって、同時に……本音でもあるのかもしれないわね」
その声が、静かな廊下にゆっくりと響いて消えていく。雪ノ下の横顔はどこか寂しげで、しかし確かに何かを受け止めた強さが宿っていた。
前日、“地獄のスローガン発表会”で議題が翌日に回された文実はなぜか今日はテンションが異様に高かった。長時間の討議の末に決まったスローガンは、
『千葉の名物、踊りと祭り!同じ阿呆なら踊らにゃ sing a song!!』
どこからどう見ても千葉音頭のパロディ。というか、ほぼそのまんまだ。
(……いや、だからパクってるわよねコレ。隠す気ゼロじゃない)
霜月澪は、頭痛の原因を見つけたかのように目を細めた。しかし文実メンバーは誰ひとり気にしていない。むしろ、やたら元気だ。
「野郎ども!ポスターの再制作だ!!」
「ちょ、待てって!予算まだついてねぇんだよ!」
宣伝広報の熱い魂の叫びに、会計監査がマジギレ気味に突っ込む。
「馬鹿野郎!算盤は後で弾け! 俺ァ今を生きてんだよ!!」
「張り直すなら画鋲全部回収しとけよ!アレも数えるんだからな!」
物品管理まで怒鳴り出す始末だ。部室内は例えるなら「文化祭前日のヤンキーの集会」あるいは「初めて麻雀を覚えた大学生たちのテンション」
そんな混沌が渦巻いていた。
(……人って、こんな急に変わるものなの? 少し前まで死んだ魚の目で仕事押しつけてきたくせに)
霜月は呆れながら状況を見渡した。もちろんツッコまない。ツッコむだけ無駄だからだ。
ただし、部屋の隅には“変われなかった人間”がいた。
比企谷八幡である。彼は.....終わっていた。
『……………………』
『……………………』
部屋の空気が、明らかに彼だけを避けて流れている。昨日、『人、よく見たら片方だけ楽している文化祭』なんてスローガンを出した男である。
文実メンバーの怒りは根深かった。仕事を渡す時も……もう声すらかけない。誰かが静かに近づき、スッ……と書類を置く。そして無言のまま去っていく。まるで地雷原に餌を置く作業のような慎重さだ。
比企谷が「これ、何の仕事……?」と訊こうと口を開けば、
無視。
誰もが、徹底して気配を消す。それでいて距離が離れた途端、囁き声で陰口が爆発する。
「マジ空気読めねぇんだってあいつ」
「なんで文実いるの?戦力外すぎ」
「昨日のスローガン、ほんと引いたわ」
教科書の例文より露骨な陰口である。比企谷は無反応で書類を仕分けていた。心が耐性100の男は、今日も安定して心が死んでいる。
文実メンバーが比企谷を“透明人間”として扱い始めた頃。その波は、同じく昨日の会議で毒を撒いた霜月澪にも、確かに向けられようとしていた。
彼女が掲げた『みんなが作った文化祭』という一見だけは優等生なスローガン。
しかし本質は、「サボってた奴まで“みんな”に含めるのは違う」という、とんでもなく冷徹な一言だった。当然、文実の中には“昨日サボってた側”が大勢いる。刺さった。思い切り刺さった。だから霜月を無視する方向”に舵を切りかけたのだ。
しかしそこで、彼らはある決定的な事実を思い出した。
霜月が地味に“有能”だったという事実だ。
雪ノ下雪乃ほどの怪物スペックではない。だが仮にも雪ノ下の代理を務めただけあって、平均値と比べれば明らかに高く、頼まれた仕事は淡々と、しかも三割増しで完成度を上げて返してくる。文化祭の準備にありがちな“本来関係ない雑務”すら、文句も言わず処理してしまうのだ。
結果、はこうなる。
「……霜月を無視?いや、あいつ仕事できるし。ていうか普通に怖いし」
「関わりづらいのに有能って、いちばん扱いに困るやつじゃん……」
そう、霜月澪は“厄介なほど働く皮肉屋”として君臨しはじめたのだ。そんな周囲のざわめきなど知らぬ顔で、霜月はひとり、資料の山を片付けながら内心でぼそりと吐き捨てる。
(……アホらし)
その顔はいつもの無気力そうな半眼だったが――誰も、その視線の前に立って反論しようとする者はいなかった。