体育祭の実行委員長に相模を据える案。雪ノ下が投じた一石は、奉仕部の空気をぴくりと震わせた。
「トラウマと同じよ。一度失ったものは、それと同等以上のものでしか購えないわ」
雪ノ下のその理屈は、いかにも彼女らしい切れ味だった。だが、めぐり先輩の顔は渋い。過去の文化祭で相模がやらかした前科が、しっかり脳内に保存されているのだろう。
「うーん、さがみんかぁ……前みたいなことになっちゃうと」
由比ヶ浜の心配はもっともだ。霜月も内心「だろうな」と思う。が、雪ノ下はまっすぐ言い切った。
「そうはならないわ。私がそうさせない」
その自信満々の宣言に、比企谷と霜月は「おいおい」と眉を寄せる。
「アホか。文化祭のときの二の舞になったら意味ねぇだろ。倒れるまで働く気かよ」
「雪ノ下が勝手に独りで抱え込んで私達がカバーして、見舞いに行くコースなんてのは二度と御免よ」
真正面から突っ込まれ、雪ノ下はぽかんと口を開けた。珍しくフリーズしている。
「……なんだよ」
「い、いえ……意外だったから」
耳までほんのり赤い。由比ヶ浜が覗き込めば、雪ノ下は咳払いひとつ。
「あなた達の心配は杞憂よ。体育祭は一日だけのクローズドイベントだもの。文化祭ほど負担は大きくないわ。だからこそ、相模さんでも回せる余地があるの」
さらりと言ったが、由比ヶ浜はジト目を向けた。
「ていうか、それ、ゆきのんががっつり働く前提じゃん」
図星を刺されて雪ノ下の言葉が止まる。そんな空気をなかったことにしようと、雪ノ下はむりやり話をつなげた。
「そ、そこで……由比ヶ浜さん。あなたにも手伝ってもらいたいのだけれど」
「任せて!」
会長がぱちんと手を叩く。
「じゃあ決まりだねっ!相模さんには私と雪ノ下さんで話しに行くよ。明日でいいかな?」
「あ、あたしも行く!一応見張っとくし!」
「霜月さんは?」
「私はパスで」
霜月は即答した。過去に相模を皮肉り、文化祭では説得させた張本人である。交渉に行けば確実に空気が荒れる。判断は正しい。
「じゃ、次はクラス確認しよっか!私は赤組だよ!」
めぐり先輩の明るい声に、比企谷は手短に答える。
「赤」
由比ヶ浜も続く。
「赤!」
雪ノ下が続く。
「赤」
最後に霜月。
「赤」
全員、まさかの赤組オールスター。めぐり先輩の顔が花火みたいに輝いた。
「すごい!じゃあみんなで優勝目指してがんばろー!おー!」
急激に跳ね上がったテンションに、奉仕部の三人は一瞬固まる。
(これ、”はい”を押すまで永遠に続くヤツじゃ……?)
「「「お、おー……」」」
ようやくめぐり先輩の拳が下がり、室内に静寂が戻った。こうして相模の“再チャレンジ企画”は、訳ありだらけのメンバーで幕を開けたのだった。
次の日の放課後の部室は、微かに日の残る窓から差し込む光に照らされ、静かだった。
霜月と比企谷は机に向かい、互いに本を開いたまま、ほとんど会話はない。あっても、「……全くね」「はぁ」といった一言二言で終わる。
理由は単純だ。雪ノ下と由比ヶ浜、めぐり先輩が今、相模を説得しに行っている間、2人は“留守番”という名の待機役を任されていたのだ。何しろ相模はこの2人に対していい印象を持っていない。
霜月は事実を淡々と突きつけ、比企谷は淡々と心を見透かす。それで嫌ってないと言えるなら相模のメンタルは、正直すごい。そんな静寂を破ったのは、扉の雑な開閉音だった。
「はぁ〜、疲れた〜」
「……全くね」
入ってきた雪ノ下と由比ヶ浜、めぐり先輩は、ややうつむき加減で部室の奥まで歩いてきた。交渉は相模の頑なさゆえにかなり骨が折れたそうだ。
「お疲れさん」
「おつかれ」
霜月と比企谷が声をかけると、3人は短く溜息を吐き、こくんと頷いた。
「相模さん、結構渋っちゃったけど、何とか引き受けてもらえたよ」
「一応だけどねー……」
「一応?」
雪ノ下はこめかみを押さえ、短く息を吐き、窓の方を見やった。
「ええ。私たち、というよりは葉山くんが頼んだ結果、と言ったほうが正しい感じだけれど」
どうやら説得の決め手は、迷惑イケメン・葉山の一言だったらしい。
「うん……そんな感じ」
霜月は小さく口角を上げ、毒を込めてつぶやく。
「迷惑イケメンらしいわね」
それからめぐり先輩が立ち上がり、口を開いた。
「それじゃ、早速だけど……行こっか」
「どこへですか?」
「これから運営委員会の会議があるの」
霜月の顔は、一瞬「え?」と戸惑いに染まる。
「え、帰れないんですか?」
「帰れないの、ごめんね?」
窓の外に落ちる夕陽を背に、めぐり先輩は申し訳なさそうに笑う。しかし、部室に残った霜月と比企谷の心は、既に会議の地獄を想像して軽く戦慄していた。
運営委員会の会議室は、体育祭用と言いながらも文化祭の時とまったく同じ部屋だった。霜月と比企谷にとっては、ここは狂ったように働いた悪夢の場所。思い出すだけで体が勝手に拒絶反応を示す。
「ご苦労さま〜」
会長の声が響く。見上げると、そこには生徒会役員たち。見慣れた面子で、比企谷や雪ノ下を見ると一斉にぺこりと頭を下げる。
ざっと見回す限り、運営委員会は彼らと奉仕部が中心で、他の運動部有志は現場班として動くらしい。
「当日のお手伝いのために各運動部から人を出してもらってるんだ。流石に手が回らないところもあるから」
「そういうことね」
霜月は納得する。首脳部と現場班、役割がはっきりしているわけだ。
会長は後ろの奉仕部メンバーを見て、満足そうに頷く。つまり今回の依頼も、平塚先生の手引きによるものだろう。
「はい、先生の言うとおりにしてよかったです」
霜月は心の中で軽くため息。やっぱりな、といった感じだ。しばらくすると、相模が遅れて会議室に入ってきた。
「遅れてごめんなさーい」
(軽いわね……いや、今回は推薦で就任した身。私も好き勝手は言えないわね)
霜月は冷静に観察する。相模は取り巻きの遥とゆっこに声をかけるが、二人の表情は硬い。
「ではでは、今日の議題は体育祭の目玉競技についてです」
「みんなアイデアを出してこ~!意見ある人は手を挙げてっ!」
めぐり先輩の声に皆顔を見合わせて沈黙。由比ヶ浜が手を挙げて案を出すも、平塚先生に「配慮」を理由に却下される。
「はい、雪ノ下さん!」
指名されると、雪ノ下は落ち着いた声音で提案する。
「借り物競走」
「生徒個人の所持品を扱うと紛失や破損のトラブルにつながることも多くてな……」
間髪入れず、平塚先生が却下。過去の悲劇が頭をよぎったのだろう。
またまた由比ヶ浜が手を挙げて「パン食い競争」と提案する。だが平塚先生は即座に、衛生面と喉に詰まる危険性を理由に却下。
霜月も何も出さないのはマズイと思い「障害物競走」という提案を出す。しかし、派手に怪我されたら困るという理由であっさり却下される。
その後も案は続々と出される。
『大食い競争』
『玉入れ(意味深)』
『玉転がし(意味深)』
『デカスロン』
『デカメロン』
『ボッティチェリ』
『チムチムチェリー』
『大岡はチェリー』
しかし全て却下。
「……誰よ、大岡」
霜月はホワイトボードを見つめながら小さくつぶやく。ホワイトボードと平塚先生を交互に見た雪ノ下が、思わず果てたように呟く。
「配慮ばかりですね……」
「平塚先生、総武高校って自由を謳ってるんですよね?今、全く自由がないんですけど?」
霜月は溜まったストレスをぶつける。
「最近はどこもうるさくてなぁ。何かと規制が多いのだよ」
平塚先生もどこかうんざりしている様子だった。霜月は思わず舌打ちする。雪ノ下も小さく肩を落とす。
「はぁ……自由って、遠い言葉ね……」
会議室に漂う空気は、自由という名の幻を求める霜月たちのため息で満たされる。
みなさん、障害物競走には気をつけましょう!※体育祭で怪我した経験あり