会議室の空気は、最早「体育祭の会議」というより「嵐の前の静けさ」そのものだった。
「え、えぇと……他になにか意見のある人は……?」
相模が視線を巡らせるが、返ってくるのは無関心と、徐々に芽生えた不満の波だけだった。仕方なくアドバイザーとして呼ばれたのは、久しぶりの出番である材木座と海老名。
海老名の案は棒倒し。だが説明の途中、所々にBL要素が混じるのは、霜月の気のせい……ではない気がした。
材木座は「千葉市民対抗騎馬戦改めチバセン」を提案。
ルールは普通の騎馬戦だが、鎧を着た大将騎を複数用意して、それを倒した数で勝敗が決まるらしい。材木座本人は緊張で固まり説明が出来ない状態だったので代わりに比企谷が説明した。
結局、男子は棒倒し、女子は騎馬戦に決定。話はさらに進む。
「じゃあ、他に必要なものは……」
「目玉競技は全校規模なわけだし、現場総動員でいいかしら」
「あ、うん、そうだね」
(総動員か…サボりたかった……)
霜月は心の中でぼやく。
「すいませーん。目玉競技については全員参加でお願いします。担当はそれ以外のものを選んで書いてくださーい」
相模の言葉に、現場班がざわつく。口々にマイナスな反応が漏れ、なかでも二人、遥とゆっこはコソコソと相談しながら一歩前に出た。
「あのさ、南ちゃん。うちら、それ反対だから」
(え、マジで?」
霜月も一瞬たじろぐ。部屋は一気に静まり返るが、その静寂は長くは続かず、ザワザワと肯定派、動揺派、怯える派が入り混じった波紋のような騒ぎが広がった。
「え……」
相模は声を詰まらせ、何が起きているのか理解できない様子だった。
(やっぱり空気悪いと思ったらそういうことね)
「強制で全員参加っていうのは、あたし達、ちょっと協力できないかも」
「でも、みんなで決めた事だし……ね、ねぇ」
「部活があるし……ほかの競技にしたほうが……」
「準備が大変すぎるのも困る」
首脳部と現場班の立場の違いが、あからさまに対立構造を生んでいた。
そこに凛とした声が響く。
「そこまでにしておこう」
振り返れば、奉仕部顧問兼現国担当独身女教師平塚静先生が立っていた。肩書だけで圧がある。
「今日はもう遅い。一旦解散してまた話し合おう」
その一言で部屋の空気はピタリと止まり、霜月も比企谷も思わず頷く。鶴の一声とは正にこのことかと心の中で呟きながら。
平塚が淡々と「課題を整理しよう」と促したあたりから、室内に漂う空気はどこか重い。
相模はスマホを握りしめたまま伏せた視線を上げ、しかし内容の薄い言葉しか出てこない。
「えっと……現場の人たちが言うこと聞いてくれない」
それを受けて、めぐり先輩は苦笑しながら補う。
「そうなんだよね。今回はみんな部活動の大会が近いみたいで、時間と労力の余裕がほとんどなくて……」
雪ノ下は手早く方針を示す。
「各部活との調整をこちらで行いましょう。こちらで適切に割り振れば――」
だが比企谷が静かにその提案を否定した。
「無理だろ。今の空気じゃ、誰が何を言っても反発しかしない」
短く、それでいて妙に説得力のある口調だった。彼が続けた説明はもっとストレートだ。“感情で反発してる奴らを動かすなら、正論だけじゃ全然届かない。折衝なんて段階じゃない。まずは『納得できる状態』まで気持ちを戻さなきゃ無理だ。”
霜月もわかる。今回の問題は段取りの悪さじゃなく、空気そのものがぐちゃぐちゃなのだ。
……が、当然相模にはそこが理解できないらしい。
「よくわかんないんだけど……」
苛立ちの滲んだ声。それを見て霜月は肩をすくめ、比企谷の代わりに淡々と口を開く。
「簡単よ。こっちが正論言ったところで、今の連中には何言っても無駄ってことよ」
それは冷たく聞こえるが、真正面から現実を切り取った言葉だった。
「『こうした方が正しいから』じゃ動かないのよ。いま反発してる連中は『正しい・間違ってる』じゃなくて、『気に入らない』で止まってるの。ああいう状態は一番厄介よ」
霜月の静かな説明に、雪ノ下でさえ小さく息を呑む。
「……つまり、説得ではなく、まずは状況の改善が必要ということね」
「そう。空気が悪いまま進めても、火種に水じゃなくて油注ぐだけ」
淡々と放たれた“現実”に、相模は小さく口を閉ざす。
比企谷はうんざりしたようにため息をつき、由比ヶ浜は「だよねぇ……」と沈み、会長めぐりだけは苦笑しながらも丁寧に頷いた。
平塚は霜月の言葉を確認するように、最後に静かに締めた。
「というわけだ、相模。まずは『正しいかどうか』より『皆が動ける状態に戻すこと』が必要なんだ」
その場の全員がそれを理解しているようで、理解していないのは……相模ただ一人だった。
霜月は平然とした顔で、雪ノ下と相模のやり取りを見つめていた。雪ノ下の冷めた表情は普段と変わらない。
だが、その目つきは普段よりも冷たく、相模に事実を突きつける刃のようだった。
「ここで降りてもかまわないわ。もともと私たちがお願いしたことで、純然たる相模さんの意志ではないもの。無理に続ける理由はないでしょう」
相模は小さく息を詰め、言葉を探すように口を開く。
「で、でも……」
雪ノ下は視線を少し下げ、淡々と答えた。
「お願いしたのは私なのだし、その責は私自身が負うわ」
霜月は心の中で呟く。
(まさか雪ノ下、私が使った“逃げ道を塞ぐ戦法”を再現している....?)
確かにあのときは、相模が自分から委員長になると宣言したからこそ成立した手法だ。だが今の状況は違う。相模は今回推薦で就任しており、自発性も自信も薄い。それでも、なると決めた以上、責任を全うする義務はある。
しかし雪ノ下なら、相模以上に仕事をやり遂げることができるだろう。それは文化祭で証明済みだ。ただし、独りで勝手に倒れなければ、だ。
平塚先生は静かに問いかける。
「相模。君はどうする」
相模は視線を伏せ、震える声で答えようとする。きっと、誰かに慰めてほしい、引き留めてほしいと願っているのだろう。
霜月は内心で思う、分の悪い賭けだ。負けず嫌いの雪ノ下が、無策で臨むはずがない。追い詰められた相模を見極めるこの戦法には、必ず勝算がある。
「後のことを気にしているなら、その心配は無用よ。任せてもらってかまわないわ」
雪ノ下の言葉は、まるで気遣いのように見える。しかしその実、相模の存在を完全に無視して、結果を最優先する断定の一撃だった。
霜月は冷静に分析する。
(……違った。これ“確実に選択肢を潰す”やり方だわ...まぁ、私も似たような問い詰め方したけど...)
あの時の霜月は、はっきり言って今までの態度と最後の最後に責任放棄しかけた相模に相当苛立っていため、口も普段より悪くなった状態で相模を説得させた。
しかし、かなりキレた状態でも「逃げる自由」と「立ち向かう自由」を相模に与えている。
確かに相模は承認欲求の塊で、トラブルを呼ぶ地雷女だ。今回も深く考えずに委員長を引き受けたのだろう——それは霜月自身、よく理解している。
だが形がどうであれ、雪ノ下は“文化祭で委員長を務めた実績”を表向きの理由に相模を推薦した。本当は相模の
なら、雪ノ下は少なくとも相模の自信を建て直す為に、委員長をやると決めた相模を信じなければならない。その上で相模の責任を全うさせる。という考えが霜月の脳裏にうつる。しかし雪ノ下は、
「辞めてもいい」
「その責任は私がとる」
「でも辞めたらあなたが苦しむ」
という、逃げ道を与えてから確実に潰すやり口を持ち出した。理屈としては正しい。正しいが——霜月の考える『自由論』の1つに、はっきり抵触していた。
「自分の自由を他者に押しつけることは許されない」
たとえ正論でも、相手の選択肢を“事実”で縛って自由を奪うのは好きじゃない。相模が怯んで口を閉ざしたのを見て、霜月はため息まじりに口を開いた。
念の為に説明しておきますが、ここでの自由論はJ.S.ミルの『自由論』とは違います。