霜月による“会議という名の皮肉劇場”は、一旦の幕を閉じた。
怒鳴り声こそ飛ばなかったものの、会議室の空気は冬の校庭の朝より冷え込んでいる。霜月が撒き散らした皮肉は、火炎瓶みたいに派手ではないが、確実に場の熱量を奪っていった。
とりあえずの解散が告げられた後、首脳陣だけが別室に集められた。雪ノ下、比企谷、由比ヶ浜、霜月、めぐり先輩、そして相模。
顔ぶれだけ見れば“優秀な委員会メンバーによる戦略会議”だが、実際のところ雰囲気は“修羅場の反省会”に近い。
椅子に深々と腰を下ろした霜月は、顎に手を添えながら心の底でつぶやく。
(……めんどうね、全く)
疲労が首から肩にかけてどっと重くのしかかる。昨日から続くトラブル対応で、霜月のメンタルはとっくに限界を超えている。だが現場班との軋轢は、想像以上に根深い。放置すれば、騎馬戦どころか体育祭の基盤そのものが崩れる危険性があった。
いや、もう崩れ始めているのかもしれない。
雪ノ下は資料を閉じ、静かな、しかし疲弊を隠せない声で言った。
「……あれだけ文句の多い中でも、こちらの提案は筋が通っていたはずよ。けれど“感情的には”受け入れられなかったわね」
比企谷が両手をひらひらさせながら、呆れと諦観の中間みたいな顔で返す。
「そりゃそーだろ。文句を言う準備だけしてきて、話し合いをする気なんてなかった連中だぞ」
由比ヶ浜が紙パックジュースのストローをちゅーっと吸いながら、
「うーん……」
と考えているような、考えていないような曖昧な声を出す。そんな状況で副案はいくつか提案された。
・由比ヶ浜の説得による歩み寄り
・比企谷の現場班全入れ替えという強硬策
・霜月の“サボったどうなるか予測を突きつけ、選択させる案”
だが、どれも決定打にならない。それどころか、やりようによっては火に油を注ぎかねない。由比ヶ浜が思いつきで手をぴしっと立てて言った。
「どっちにしても、今いる人たちと協力する案を考えないとってことだね」
「けど……多分もう協力してくれないと思う……」
相模が申し訳なさそうに肩を縮めた。自分が強く出られなかったことを気にしているのか、声は消え入りそうだ。
その横で霜月が、まるで天気の話でもするかのように淡々と告げる。
「そうね。私も溜まってたストレス全部、皮肉ってアイツらにぶつけたし」
比企谷が微妙な顔になる。
(いや反省してねぇだろ、それ)
実際、霜月のあの皮肉劇場が“現場班の協力意欲を削った原因の何割か”であることは、誰の目にも明らかだった。
雪ノ下はこめかみを押さえ、深いため息を落とす。
「こちらとしても、マンパワーが足りないという最大の弱みを握られているようなものね……」
普段は冷静沈着で隙のない雪ノ下が、ほんの少しだが疲れた表情を見せる。額にかかる髪を指で払うその仕草は、完璧な彼女の僅かな“ほころび”を映し出していた。
霜月はその姿を横目に見ながら、心の中でつぶやく。
(弱み、ね……)
戦力の入れ替えができない以上、現場班の協力は絶対条件。彼らが動かない限り、体育祭は形にもならない。
つまり――
体育祭の成否は、現場班の手に握られている。
しかもその彼らが今、反抗の構えを見せているのだ。状況は、完全に“人質を取られている”に近い。霜月は天井を見上げた。そこにシミひとつない白い天井が広がっているのに、心の中だけは真っ黒だ。
(……なんで高校生活で政治劇みたいな会議しなきゃなんないのよ)
声に出せば雪ノ下に叱られるので、ごく小さな心の声として留めた。だが肩に沈む重さは、室内の空気と同じように、どうしようもなく重く感じられた。
そして、比企谷の口から「俺たちも同じような手口を使うか……」と漏れた瞬間、室内の空気がぴしりと硬直した。
由比ヶ浜が、おそるおそる手を止めて首をかしげる。
「どういう意味?」
比企谷は、机に肘をつきながら視線を宙に漂わせた。頭の中で、今日だけで何度反芻したかわからない“面倒な現実”を再確認するように。
「要するに.これは俺たち首脳陣と現場班の主導権争いなんだよ。向こうはストライキ……というかサボタージュで自分らの要求を通そうとしてる。体育祭の開催そのものを人質に取ることでな」
「……ポタージュ」
なぜか由比ヶ浜はそこだけに反応した。きりっとした表情だが、中身は「美味しそう」の一点である。
霜月はこめかみに手を当てた。“なぜ食べ物で覚えるのよ.....”という呆れを押し隠しもしない。
「比企谷、由比ヶ浜に分かりやすく言ってあげて。このお団子頭、“ポタージュ”の部分しか理解してないから」
そんな問答をしていたとき、隣で雪ノ下が冷気すら帯びる視線を向けてきた。あの視線は“軽口は二言までよ”のやつである。けれど同時に“それでも続けなさい”とも言っている。
雪ノ下の指示は常に理不尽である。さらに、比企谷が“体育祭を人質にする”と口にした直後、相模の口から「はぁ?」という呆れと侮蔑が混ざった声が漏れた。
が、霜月の視線が相模に向いた瞬間、空気が変わった。霜月の目は、感情温度が一気に氷点下まで落ちるタイプの冷たさだ。
(ろくに案も出してないアンタがイキってんじゃないわよ)
というメッセージを、ただ目だけで叩きつけてくる。
相模は、まるで天敵と遭遇したウサギのように目をそらし、背筋を伸ばした。反射神経の無駄な良さを披露したとも言える。部屋の全員が黙る中、比企谷はもう引き返せなくなっていた。
「……つまりだな。あいつらの望んでる“楽しい体育祭”を奪って台無しにしてやる。それでもいいなら、かかってこいって示すんだよ」
言った瞬間、世界が止まったかのような静寂。
めぐり先輩は、口を半開きにしたまま完全にフリーズしている。由比ヶ浜は、何かを理解しようとしているが、多分理解していない。相模は、一周回って無表情になってしまった。
そして霜月だけが、腕を組んだまま「へぇ」と興味深そうに片眉を上げた。ただしその“へぇ”は、「面白い。採用したら死人は出るけど」というやつだ。由比ヶ浜が、手を挙げて尋ねる。
「ヒッキー……それって、えっと……体育祭やめちゃうってこと?」
「いや、やめない。ただ、本気でキレたら、ここまでやるぞっていうカードを見せるだけだ」
「ブラフってことね」
霜月がさらりと補足する。
「まあ、そうだ」
比企谷は椅子にもたれかかり、雪ノ下はこめかみを押さえながら深いため息をついた。
「あなた……悪手と分かってて、よくそんな策を平然と出せるわね」
「俺の人生、悪手を積み上げてなんとか形にしてきたからな。今さら良手だけ選べってのが無理な話だ」
その言葉に、霜月は少しだけ納得の息を漏らした。
(なるほど。根っからの悲観主義者ね、この男)
雪ノ下は、呆れながらも完全には否定しなかった。むしろその意見を、論理的に“最終手段として”棚に置いたような顔をしている。今の状況で唯一、現場班の主導権に揺さぶりをかけられる案。
それが比企谷の“禁じ手”だった。霜月は目を細め、静かに言う。
「……まぁ、選択肢の一つとしては悪くないわね。どうせ向こうも、本気で体育祭を潰す度胸はないでしょうし」
「だよな」
比企谷が小さく笑う。こうして、この部屋の誰もが、真正面からは口に出さないまま。
“こちら側にも、相手を揺さぶるカードがある”
という暗黙の了解が、テーブルの上にそっと置かれた。それは、使えば戦争になる。だが、使わなければ負けるかもしれない。
そんな首脳陣だけが共有する最終兵器が、静かに息を潜めて座っていた。