部室に重たい空気が漂う中、霜月に公開説教という精神的ジャーマンスープレックスを食らった戸部は、ようやく恐怖の硬直から解放された。肩から力が抜け、ぎこちなく手を上げる。
「あの、実は俺…」
「ほら戸部、言えって」と大和。
「大丈夫だって、戸部」と大岡。
「……ごめん、もう帰りたい」と比企谷。
三者三様だが、戸部はさんざっぱら渋り続けてきた末に、やっと口を開いた。
「俺、海老名さんのこと、結構いいと思ってて?で、まぁちょっと、修旅で決めたい的なことなんだけど」
ほぼ暗号である。「結構いい」って何だ、「的な」って何だ、「決めたい」って何をだと霜月は真顔で突っ込んでいた。
「マジ!?」
由比ヶ浜がそれはもう花火のように弾けた。目がキラッキラである。戸部の依頼を整理すればこうだ。
『修学旅行で海老名に告白したい。だからサポートしてほしい』
だが依頼内容を聞いた霜月の心には、別の声が響いていた。
(人の告白準備とか、一番やりたくないのよ……失敗したら責任重いし、成功したら気まずいし、そもそも私なんで巻き込まれてんの?)
だが、
「ねぇねぇ!やろうよ!とべっち応援しようよ!」
由比ヶ浜の目が期待100%でキラキラしている。その瞬間、霜月は悟った。
(あ、これ断れないやつだ。)
雪ノ下は紅茶を持ったまま淡々と言う。
「依頼である以上、断る理由はないわ。やりましょう」
比企谷は頭を抱える。
「……リア充の告白を手伝う人生なんて想像したこともねぇんだけど」
霜月は椅子にもたれながら言った。
「分かったわよ。やるわよ。やればいいんでしょ……」
こうして、
“奉仕部史上もっとも胃が痛い青春サポート案件”が、またひとつ受理されたのだった。
そして数日後。奉仕部は再びノックの音に肩を跳ねさせていた。
「失礼しまう」
雪ノ下が返事をする前に、語尾からして既に緊張しすぎて事故っている挨拶が飛んだ。ゆっくり扉が開き、顔を覗かせたのは海老名である。
一瞬、空気が止まった。
「や、結衣。はろはろ〜」
「やっはろー!」
由比ヶ浜が元気に返す一方で、
(よりによってこのタイミングで来る?……嫌な予感しかしないんだけど)
霜月は頬杖をつきながら心の中で頭を抱えていた。海老名はもじもじと指先をいじり、頬を赤らめながら、でも勇気を振り絞ったように口を開いた。
「ちょっと相談したいことがあって来たんだけど……」
その視線が奉仕部メンバーを順番にさまよい、最後に比企谷で止まる。何かを察して比企谷はほんの少し目をそらした。
「とべっちのことで、ちょっと相談があって……」
その瞬間。
「と、ととととべっち!? な、なに!?」
由比ヶ浜が机から転げ落ちそうな勢いで海老名に詰め寄った。霜月は海老名を見ながら、
(ほら来た。修羅場は大体“告白関連”のあとに来んのよ)
と、もはや悟りに近い境地に向かっていた。海老名は小さく深呼吸し、勢いよく叫んだ。
「とべっち、最近、隼人くんやヒキタニくんと仲良くしすぎてるっぽくて!大岡くんと大和くんがフラストレーション!私はもっとギスギスした関係が見たいのに!これじゃトライアングルハートが台無しだよ!!」
……静寂。
いや、正確には“奉仕部全員の思考が止まった”音である。そして、その静寂を粉々に砕いたのは霜月だった。
「アンタの性癖に興味ないから要件を言って」
部室にこだましたのは、ストレートすぎる右ストレート。海老名がビクッと肩を揺らし、比企谷ですら思わず「ひでぇな」と小声でつぶやいたほどだ。
海老名は咳払いをし、ややトーンを落として続けた。
「うーん、なんかね……今までいたグループがちょっと変わってきちゃったのかなって感じがして……」
それは海老名の本音だった。さっきまでの腐った妄想はどこへやら、一転してしんみりした空気に。
比企谷が口を開く。
「まぁ、いろいろあるからな。人の考えてることなんてわかんねぇだろ。表に出してないだけで、仲良いのかもしんねぇし」
「それはそうかもね。でも、今までと違うことは確かでさ。違ったままでいるのはちょっと嫌かな」
海老名はふっと微笑んだ。それは腐女子モードではない、普通の女子高生としての、寂しげな笑顔。由比ヶ浜が胸を押さえる。
「……なんか……しんみりしてる……!」
「人間関係が変わるってのはそういうもんよ」
霜月も珍しく真面目に相槌を打ったが──
(……でも本当に本音? どうも引っかかんのよね)
鋭い観察眼は海老名の“ほんの少しの違和感”を見逃さなかった。そして海老名の相談が終わった瞬間、奉仕部にはまたひとつ、新しい爆弾が投げ込まれたのだった。
海老名が去ったあと、部室にはしばらく「ぽつん」とした静寂が残った。あまりにも濃い相談内容のせいで、部室の空気が一瞬で腐海へと変わったからだ。
「……なんだったのかしら、今のは」
雪ノ下が眉間を押さえながら問いかける。彼女にしては珍しく、明らかに処理しきれていない。
「あれを理解できるの、人類の方が少ないわよ。宇宙生物として見る方がまだ納得できるレベル」
霜月がストレートに切り捨てる。目つきは完全に“現実主義者のそれ”だった。比企谷は腕を組み、ため息をひとつついた。
「まぁ……戸部の相談が“地獄1丁目”なら、海老名さんのは“2丁目”って感じだな」
霜月は鼻で笑った。
「いや、2丁目どころか3丁目通り越して、観測するたびに地図が描き変わるタイプね」
「……RPGの裏ダンジョンかな?」
比企谷がぼそっとつぶやくと、
「裏どころか無限増殖ダンジョンよね。ラスボス倒したら第二形態で腐臭撒くタイプ」
霜月が即答し由比ヶ浜が少し距離をつめる。
「しもっちさぁ……姫菜に容赦なさすぎじゃない?」
「容赦してほしいなら、まず性癖を全力で投げつけてこないことね。てかアンタたち、よくあれで会話続けられるわね……」
霜月は本気で呆れていた。
(……とはいえ、本音で悩んでる部分もあったのは確か。けど“全部が全部”本音じゃない。どうにも引っかかる)
霜月は無意識に指で机をとんとんと叩きながら思考する。奉仕部の依頼は、大抵『言っていること』と『本当に抱えている問題』が違う。海老名もその典型だ。
「さて……で、どうすんのよ、これ」
霜月が口火を切ると、比企谷は眉をしかめる。
「どうするも何も……俺たち、もう二つ同時に地雷踏んでる状態だぞ。戸部の告白と、海老名さんの友情問題……地雷密度が高すぎる」
「京都巡りより地獄巡りね」
霜月がさくっと言い捨てる。
「もうちょっと修学旅行楽しみにしようよ旅行だよ!?」
由比ヶ浜が泣きそうな顔で抗議した。しかし、そんな彼女の叫びをよそに、比企谷は机に突っ伏す。
「……俺、修学旅行前に胃死ぬ気がする」
「安心しなさい、比企谷。死ぬ前にまず“メンタル”の方が壊れるから」
「安心できねぇよそれ?」
霜月は淡々と告げ、比企谷の声が部室に響いた。雪ノ下はふっと紅茶をすする。
「いずれにせよ、二つの件は慎重に対応しないといけないわ」
「そうそう。そこ、あたしも思った!」
由比ヶ浜も頷く。
「ま、どのみち“戸部の告白準備”は続行なんでしょうけど……裏で漏れ続ける“海老名の謎ムーブ”もケアしなきゃいけないわけね」
二つの依頼を受けた奉仕部は──地雷原のど真ん中で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
そして次の日。待ちに待ったような、正直そこまで待ってはいなかった修学旅行当日がやってきた。
霜月は少し早めに家を出て、東京駅へ向かっていた。理由は単純で、人混みは少しでも避けたいからである。改札へ向かって歩いている途中、ふとスマホにメモした“買ってきてほしいものリスト”を思い出す。
「えっと……母さんが生八橋で、父さんが普通の八橋と……お茶」
一瞬、指が止まる。
「しかも玉露って……なにげに高いの選んでるし……」
霜月はため息をひとつ。修学旅行のテンションよりも、土産代の現実が先に頭を殴ってきた。最寄り駅から数十分。人の流れに流され、ようやく東京駅に到着する。
「……人が多い」
霜月の感想はそれだけだった。もはや驚きすらない。東京駅はいつだって人が多い。分かっていたはずなのに、実際に見るとやはり気が滅入る。すでにテンションはじわじわと下降線。それでも霜月は、案内表示を頼りに2年D組が集まっていそうな場所へと向かう。
幸い、まだ全員集合というほどではなく、ホームに上がる前の待機スペースは比較的落ち着いていた。
(……このくらいなら、まだ許容範囲)
そう心の中で自己評価を下しつつ、霜月は壁際に陣取る。やがてグループ点呼と人数確認が始まり、問題なく全員揃ったところで新幹線ホームへ移動。霜月が割り当てられた席は、運のいいことに窓際だった。
(……勝った)
内心でガッツポーズを決める霜月。座席に腰を下ろすと、肘掛けに肘を置き、頭を窓側に預ける。そして、迷いなく目を閉じた。
「ついたら起こして……」
ぼそっと言い残す。
「え、これからなのに!?」
同じグループで、それなりに話す一人である泉志乃が思わず声を上げる。しかし霜月は返事をしない。なぜなら彼女はアイマスク装着し、完全なる就寝態勢であるからだ。新幹線が動き出す前から、すでに霜月は京都より先に、睡眠という名の楽園へ旅立って行ったのだった。