霜月の容赦ない皮肉が、部室の空気を切り裂いたあと、しばらく誰も口を開かなかった。比企谷は視線を落としたまま、何かを探すように唇を動かしかけては、結局何も言えずに黙り込む。
その沈黙を破ったのは、霜月だった。
「まぁ、思ったことは結構言ったけど」
声音は落ち着いていた。怒っているわけでも、責め立てているわけでもない。ただ、淡々と事実を並べる口調だ。
「雪ノ下だって、少なからず感じてるはずよ」
そう言って、霜月は隣に立つ雪ノ下へ視線を向ける。雪ノ下は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。その表情は複雑だった。否定も肯定も混ざり合ったような、言葉にしきれない感情が揺れているのだが、彼女は逃げなかった。
「……うわべだけのものに意味なんてない、と言ったのは」
静かな声が部室に落ちる。
「あなたのほうだったはずよ」
冷たくもあり、どこか柔らかさも含んだ声だった。それは責める響きでありながら、同時に、裏切られた者の痛みを含んでいた。比企谷は顔を上げる。雪ノ下はまっすぐ彼を見つめていた。逃げ道を与えない視線だ。
「……変える気は、ないのね」
問いかけというより確認だった。
「ああ」
比企谷の返事は短く、そして妙に迷いがなかった。霜月はそれを横目で見て、内心で小さく息を吐く。
(そこは、はっきりしてんのか)
良くも悪くも。自分が何を選んでいるのかだけは、彼は誤魔化さない。
だが、それが正しいかどうかは、別の話だ。
「……そろそろ帰るわ」
唐突に、比企谷がそう言った。誰の返事を待つでもなく、彼は椅子を引き、鞄を手に取る。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。部室には、残された4人分の沈黙だけが落ちる。霜月はしばらくその場に立っていたが、やがて時計を一瞥する。
「私も出るわ」
誰に言うでもなく呟き、霜月は部室を後にする。廊下に出た途端、胸の奥に溜まっていたものが、ため息になって溢れた。
「めんどくさくなってきたわ.....」
誰もいない廊下に、独り言が消えていく。問題は何一つ解決していない。ただ、隠していた本音が露わになっただけだ。
それでも――。
霜月は歩きながら、比企谷の背中を思い浮かべる。彼は変わらない。そう思っている自分自身が、いつの間にかこの部活に深く関わっていることを、霜月は少しだけ面倒に感じながら、校舎を後にした。
家に帰ると、霜月は鞄を玄関に放り投げるように置き、靴も揃えずにそのまま部屋へ向かった。廊下を歩く足取りに目的意識はなく、帰宅というより「流れ着いた」という表現のほうが正しい。
制服のままベッドに倒れ込み、うつ伏せになったまましばらく動かない。天井を見上げるでもなく、スマホを触るでもなく、ただ時間だけが無意味に過ぎていく。
「……動きたくない」
小さく呟いた声は、誰に聞かせるでもなく空気に溶けた。
一応、空腹は感じていた。感じてはいたが、わざわざ台所に立つほどの切迫感はない。結局棚にあった、カップ麺を食べることにした。3分待つのか通例だが2分でも美味いという情報を信じて食べる。
(意外といける....)
食べ終えると容器は捨てたが箸は洗ってない。洗うのが面倒だからだ。
そのまま部屋に戻り、再びベッドへ。
制服を着たまま寝転がる――その時点で、普段なら母である綾の雷が落ちる案件だった。「シワになる」「だらしない」「行儀が悪い」と三点セットで説教されるのが常だ。
だが今日は違う。母は帰りが遅くなる日だった。つまり、今日の家は、霜月の支配下にある。
「……私だけの時間だぜ」
柄にもない漫画のセリフを、小さく、しかし確かな満足感を込めて呟く。
ベッドの上で仰向けになり、枕元に転がっていたゲーム機を手に取る。起動音が鳴るまでの数秒すら待ちきれず、ぼんやりと天井を眺める。
プレイを始めても集中はしない。画面を見ながら、さっきの奉仕部の空気や、雪ノ下の表情、比企谷の言葉が断片的に頭をよぎる。
「……考えても無駄よね」
そう言って、考えるのをやめる努力をする。努力の割に、指は自動的に操作を続けていた。時間はだらだらと溶けるように過ぎていき、部屋にはゲーム音とエアコンの微かな駆動音だけが残った。そんなとき、静かな部屋に不意にスマホの着信音が響いた。霜月は一瞬、無視しようとしたが、画面を見て眉をひそめる。
由比ヶ浜だった。
「……嫌な予感しかしないんだけど」
そう呟きながら、しぶしぶ通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あっ、しもっち!急に連絡してごめん!』
聞こえてきたのは、いつもより切迫した由比ヶ浜の声だった。
『今から駅のところのビジョンにあるカフェに来てくれる?なるべく早く!』
霜月は思わず顔をしかめる。
「え....今から?もう夜の八時だけど」
わざわざ「夜の」と強調するあたり、露骨に行きたくない気持ちが滲んでいた。
『とにかくお願い!』
それだけ言い残し、由比ヶ浜は一方的に通話を切った。
「……めんど」
短く呟き、霜月は深くため息をつく。だが、結局行かないという選択肢は取らなかった。
「ちょうど制服着てるから行くか……私服に着替えるのもめんどいし」
言い訳めいた独り言を残し、霜月は家を出た目的地まで、およそ20分。駅前に着き、辺りを見回してから、霜月は由比ヶ浜の言葉を思い出す。
「……ビジョンって言ってたけど」
そして思い出す
「……あ、カフェか」
駅の中にある、見慣れたカフェ。霜月は気怠げな足取りで、なるべく早くそこへ向かった。店内に入ると、店員に軽く会釈し、待ち合わせだと伝えてから周囲を見渡す。しかし、一階にはそれらしい姿はない。
「……二階席ね」
そう呟き、階段を上る。
そして、二階に足を踏み入れた瞬間——霜月はその場の光景に、わずかに足を止めた。
比企谷八幡。葉山隼人。そして、見慣れない制服を着た2人の女子高校生。さらに、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣。
「……なに、この組み合わせ」
思わずそう呟く。だが、霜月には一つだけ、はっきりと分かることがあった。
(楽しい集まりじゃないわねぇ、これ)
場の空気が、あまりにも張り詰めている。雑談や世間話の類で集まった顔触れではなかった。霜月は小さく息を吸い込み、覚悟を決める。そして、いつもの気だるさを纏ったまま、比企谷たちが座るテーブルへと歩み寄った。
足音に気づいたのか、ほぼ全員の視線が一斉に彼女へ向く。居心地の悪さを隠す気もなく、霜月は立ったまま口を開いた。
「……いきなり呼び出して、どういう状況これ?みんな仲良くパーティーってわけでもなさそうだし」
第一声から、遠慮のない皮肉だった。一瞬で空気が凍りつく。誰が答えるのかと視線が彷徨う中、口を開いたのは意外にも葉山だった。
「俺が結衣に頼んで、霜月さんを呼ばせてもらったんだ」
霜月は軽く眉を動かしただけで、特に驚いた様子も見せなかった。
(ああ、なるほど)
葉山が自分の連絡先を知らないことも、直接呼ばなかった理由も、すぐに腑に落ちた。葉山は続ける。いつもの柔らかな笑みはなく、その声音には珍しく硬さがあった。
「比企谷は、君たちが思っている程度の奴じゃない」
その言葉に、霜月は一瞬だけ目を細めた。
葉山の視線は、向かいに座る女子生徒たちへと向けられている。睨みつける、という表現が一番近い鋭さだった。普段の“爽やかな葉山隼人”からは想像できない圧に、彼女たちは言葉を失っている。
「君たちよりずっと素敵な子たちと親しくしてる。表面だけ見て、勝手なことを言うのはやめてくれないかな」
その示す先にいたのは、雪ノ下、由比ヶ浜、そして霜月だった。霜月は心の中で小さく息を吐く。
(……巻き込むなっての)
居心地の悪さに耐えきれなくなったのか、女子生徒たちはぎこちなく立ち上がり、目も合わせずに一階へと続く階段へ向かっていった。残された席に、妙な静けさが落ちる。雪ノ下が説明するには、生徒会選挙について話があり、霜月だけが状況を知らないのはフェアではないという判断で呼ばれたらしい。
「そういうことなら、事前に言いなさいよ」
霜月は肩をすくめるが、その口調に本気の怒りはない。しかし、さらに空気を悪くする存在が現れた。喫煙席のほうから、霜月にとって“見たくもない人影”が近づいてくる。正確には、最初から気づいてはいた。ただ、意図的に無視していただけだ。
「……厚化粧」
ぼそりと漏れた言葉は、本人にも聞こえたかもしれない。雪ノ下陽乃だった。案の定、陽乃は妹に絡み、軽薄な言葉を投げかけ、場の空気をかき乱す。雪ノ下の表情が険しくなり、由比ヶ浜も居心地悪そうに視線を泳がせる。
結局、陽乃は満足したのか、適当な言葉を残して去っていった。それに引きずられるように、雪ノ下も席を立ち、由比ヶ浜も慌てて後を追う。そしてテーブルに残ったのは、比企谷、葉山、霜月の三人だけだった。
「え、まさか……呼ばせるだけ呼ばせておいて、このオチ?」
霜月が呆れたように言うと、葉山は苦笑しながら頭を下げた。
「すまない。急に呼び出してしまって……何か奢らせてくれ」
その言葉に、霜月は小さく鼻で笑う。
「迷惑イケメンってあだ名、やっぱ間違ってなかったわ」
彼女はメニューに視線を落とし、迷いなく告げた。
「じゃあ、カプチーノで」
淡々と、しかしどこか棘を含んだ声だった。