「じゃあ、カプチーノで」
淡々とした声音だった。感情を隠しているわけでも、気を遣っているわけでもない。ただ、それが必要な注文だっただけだ。
葉山が店員に軽く手を挙げて注文を伝える。数分後、白いカップが霜月の前に置かれた。湯気の立つカプチーノから、かすかに甘い香りが立ち上る。
霜月はそれを一口含んだ。クリームの柔らかさと、エスプレッソの苦味が舌の上で絡み合う。
(悪くない)
そう思いながら、彼女は会話に割って入らなかった。比企谷と葉山は、修学旅行の件――比企谷の「自爆」について話していた。
霜月は黙っていた。今は、カプチーノタイムだ。
「犠牲?」
比企谷の声が低く、荒れる。
「ふざけんな。当たり前のことなんだよ、俺にとっては」
言葉を叩きつけるように吐き出す。葉山はそれを遮らず、ただ真正面から受け止めていた。その姿勢が、逆に比企谷の苛立ちを煽る。
「いつも、ひとりだからな。そこに解決しなきゃいけないことがあって、それができるのが俺だけなら、普通に考えてやるだろ」
独白に近い言葉だった。正当化でも、言い訳でもない。ただの事実として語っているつもりなのだろう。
葉山は少し間を置いてから、静かに言った。
「……君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているからじゃないのか」
その一言で、空気が変わった。
比企谷の顔が歪む。
一瞬、何かを噛み殺すような表情をしてから、短く吐き捨てる。
「違ぇよ」
それだけで終わらせるつもりだったのだろうが、言葉は止まらなかった。
「気持ち悪い同情を押しつけて、勝手に隣に並ぶな。そんなレッテル貼り、迷惑なんだよ」
吐き捨てるように言うと、比企谷は椅子を引き、背を向けた。そのまま階段へ向かい、二度と振り返らずに一階へ降りていく。
残されたのは、葉山と霜月だけだった。霜月はカプチーノを飲み干し、カップを置く。その仕草は妙に落ち着いていた。
「こっぴどく振られたわね、人気者の葉山隼人君?」
遠慮のない一言だった。葉山は苦笑する。
「……そうかもしれないな」
少し沈黙してから、彼は珍しく霜月の方を見た。
「霜月さん、君は彼をどう思う?」
その問いに、霜月は一瞬も考えなかった。
「自己犠牲を自己犠牲って言われたくない、めんどくさい奴」
間髪入れずに続ける。
「あるいは、自分の自由を捨てたどうしようもない奴」
あまりにも即答だった。葉山はさすがに目を瞬かせる。
「……手厳しいな」
「事実でしょ」
霜月は立ち上がり、空になったカップを指で軽く押した。
「カプチーノ、ごちそうさま」
それだけ言うと、振り返らずに階段へ向かう。背中越しに、葉山は彼女を見送った。比企谷を理解しようとして踏み込み、拒絶され、それでもまだ立ち尽くす男と、理解した上で距離を取る女。
その対比だけが、静かに店内に残っていた。
週を挟み月曜日。午前の授業が終わり、昼休みに入ってしばらく経った頃だった。
霜月は購買で買ったパンを半分ほど残したまま、机に突っ伏していた。噛むのが面倒になったから、というどうしようもない理由だ。そこへ、不意に教室の引き戸が開く音がした。
「霜月」
顔を上げると、そこに立っていたのは平塚先生だった。
「悪いが、奉仕部に行ってくれ。部員が集まっている」
その一言で、霜月の中の警報が鳴り響く。
(あー……これ、絶対ろくな話じゃない)
内心で盛大にため息を吐きつつも、表には出さずに立ち上がる。パンを紙袋に突っ込み、渋々と教室を後にした。
奉仕部の前に立った瞬間、嫌な予感は確信に変わる。
(もう、嫌な予感しかしない……)
ノックもせず、霜月は引き戸を開けた。
中には、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、そして比企谷八幡がいた。三人とも、選挙の話をしていたらしい。空気が重く、張りつめている。
霜月が入ってきたことにも、三人はすぐには反応しなかった。
沈黙を破ったのは、雪ノ下だった。
「客観的に考えて、私がやるのが最善だと思うわ」
声は淡々としていた。感情を抑え込んだその調子は、すでに結論を出している者のものだった。
「一色さん相手でも、問題なく勝てる。私一人でやるなら、誰かと足並みを揃える必要もない。他の役員のモチベーションも高くなるでしょうし、行事もこれまでより効率的に進むはずよ」
一度言葉を切り、雪ノ下は小さく息を吐いた。
「それに……私は、やっても構わないもの」
言い切った直後、ほんのわずかに肩が落ちる。その仕草は、周囲に向けた宣言というより、自分自身への言い聞かせに近かった。
「それはそうかもしれねぇけど」
低い声が割り込む。比企谷だった。
「そもそも、勝負しないって手もあるだろ」
雪ノ下は顔を上げる。
「あなたの案のことを言っているの?」
「ああ」
一瞬、雪ノ下は視線を逸らした。だがすぐに比企谷を睨み据える。その目には、鋭い拒絶が宿っていた。
「あなた一人の言葉や態度で、全校生徒が動くなんて思い上がりよ。それだけで解決するとは、私は思わない」
言葉が途切れる。窓を叩く風の音だけが、やけに大きく部室に響いた。
「あなたと、私のやり方は違う」
俯いた雪ノ下の拳は強く握られている。細い肩が、寒さのせいか、それとも別の理由か、かすかに震えていた。
「……そうだな」
比企谷はそれだけ言った。由比ヶ浜は二人の間で言葉を失っていた。視線を落とし、しばらくしてから小さく呟く。
「そっか……ゆきのんは、そうするんだ」
誰も続く言葉を出せない。時間だけが、じわじわと凝り固まっていく。
やがて、雪ノ下が比企谷を見る。
「まだ、何か?」
「……いや。確認がしたかっただけだ」
そう言い残し、比企谷は部室を出ていった。扉が閉まる音がやけに大きく響いた。その余韻が消えきらないうちに、霜月が口を開いた。
「雪ノ下」
低く、逃げ場を与えない呼び方だった。呼ばれた雪ノ下は、ゆっくりと視線を向ける。その瞳には警戒と、わずかな覚悟が混じっている。
「アンタ、一色の件は……彼女が選んだ結果を受け入れるって方針よね?」
問いというより、最終確認だった。答えを限定するための言葉だ。
「ええ、そうよ」
雪ノ下は即答した。迷いはない。少なくとも、そう見せることに躊躇はなかった。
「じゃあ、私の方針を言うわ」
霜月は腕を組む。その態度は議論を始める者のものではない。すでに結論を置いた者のそれだった。
「一色を生徒会長にするって案、あれは間違ってた」
空気が一瞬、凍りつく。由比ヶ浜が思わず息を呑み、目を見開いた。
霜月は視線を雪ノ下に固定したまま続ける。
「私がやったのは、一色が決めるべき選択を奪っただけ」
淡々とした声だった。だからこそ、その言葉は重い。
「結果だけ見れば“正しそう”に見えたかもしれない。でもそれは、一色の人生を勝手に短絡させただけ。私が楽になるための答えだった」
自嘲も後悔もない。ただの事実として語られていた。
「だから、方針を変える」
霜月は、はっきりと言い切る。
「一色に、生徒会長になるメリットとデメリットを全部話す。その上で、選ばせる」
雪ノ下の眉が、わずかに寄る。
「それでは、依頼の解決にならないわ」
静かな声だったが、拒絶の意志は明確だった。
「一色さんが、“選ばない”選択をしたらどうするの?」
霜月は即答した。
「それは一色の選択よ」
そこに迷いは一切ない。説得も、妥協も含まれていなかった。
「そこから先は、そもそも奉仕部が踏み込んでいい領域じゃない」
助けることと、決めること。その境界線を、霜月ははっきりと引いた。一拍置いて、さらに言葉を重ねる。
「それに、いざとなったら、アンタが生徒会長になるんでしょ?」
視線が、真正面から雪ノ下を射抜く。
逃げ道はない。覚悟を口にするか、沈黙で認めるか。その二択しか残されていなかった。
雪ノ下は答えなかった。だが、その沈黙は否定ではない。目を逸らさず、ただ静かに霜月を見返している。
霜月が、一瞬曇ったガラス越しに中庭を見た。
冬の光に照らされた校舎の影はやけに整いすぎていて、そこに人の気配はあるはずなのに、まるで舞台装置のように静まり返っている。
(ああ……これだ)
胸の奥に沈殿していた違和感が、ようやく形を持った気がした。
言葉にできなかった感覚が、輪郭を伴って浮かび上がってくる。
一色いろはの依頼は、表向きには単純だった。
クラスメイトの悪ノリで生徒会長に立候補させられた。自分はやりたくない。だから、阻止してほしい。
だが霜月には、最初からそれが“全部”だとは思えなかった。
恥をかきたくない。
負ける姿を見られたくない。
無名の誰かに敗北する——そんな未来だけは、どうしても避けたい。
その感情は、浅ましいものでも、醜いものでもない。むしろ、驚くほど現実的で、年相応で、普通だった。だからこそ、霜月は自分の胸に浮かんだ感情に苛立った。
(私は、楽な方を選んだ)
一色を生徒会長に据えてしまえば、話は早い。彼女は「選ばれた側」になる。誰にも負けないし、恥もかかない。周囲は納得し、学校は円滑に回り、奉仕部は“解決”という成果を得る。
誰も損をしない。少なくとも、表面上は。
だがそれは、一色自身が決めた結果ではない。霜月は、その事実から目を逸らせなかった。それは、
短絡的で、独善的で、そして何より、自分が一番楽になるやり方。
そのことに気づいた瞬間、霜月は自分自身に腹が立った。彼女は知っている。選択を奪われた人間が、後になってどんな顔をするかを。
「あなたのためを思って」
「これが一番正しいから」
そう言われて進んだ道ほど、後から呪いたくなるものはない。誰かの善意や正論によって、自分の人生が“最短距離”に矯正されていく光景を。そして気づけば、いつも責任だけが本人に残る。
霜月は、そういう光景を何度も見てきた。そして同時に、自分がそれを奪われる側になる可能性も、常に感じて生きてきた。
『助けること』と、『救うこと』は違うように、『助言すること』と、『決めること』は違う。手を貸すことと、舵を奪うことは、決定的に別だ。
雪ノ下のやり方は、正しい。誰よりも合理的で、効率的で、結果が出る。一色が不幸にならない未来を、”最短距離”で用意できる。
だがそれは、雪ノ下雪乃が選んだ正解だ。
一色が必要としているのは、答えではない。後になって、「自分で選んだ」と言える余地だと、霜月は思っている。
その為に、生徒会長になるメリット。権限、影響力、評価、将来への加点を。そして、責任、批判、失敗、逃げ場のなさ、笑って誤魔化せない立場というデメリットを
それらを全部、隠さず、誤魔化さず、打ち明ける。その上で「やらない」と言うなら、それは一色の人生だ。「やる」と言うなら、その覚悟もまた、彼女自身のものになる。
霜月は、その先に踏み込まない。踏み込む資格がないと、はっきり分かっている。何故なら、
奉仕部は、選択の代行業ではないからだ
誰かの人生を“正解ルート”に矯正する場所でもない。その結論に至ったとき、霜月の中で迷いは消えていた。霜月は自分が面倒な人間だという自覚はある。遠回りで、不器用で、優しくもない。たぶん、多くの人間から見れば「非効率」で「不確定」だ。
それでも、選ぶ権利だけは、誰からも奪われるべきじゃない。
だから霜月は言うのだ。全部を話す。全部を見せる。その上で、選ばせる。結果がどう転んでも、それだけは譲らない。
その面倒さこそが、彼女のやさぐれた優しさだった。
この回は前々回の作者自身の反省と戒めでもあります。霜月澪というキャラは相手に選択させるキャラであって、安易に相手の選択を奪うような案を言わせてしまった私自身にすごく後悔しました....