雪ノ下に方針を告げ、そのまま部室を後にした霜月は、特別急ぐでもなく廊下を歩いていた。窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。
不思議と、足取りは軽かった。正解かどうかは分からない。だが、少なくとも「自分で選んだ」という感覚だけは、確かに残っていた。
その日の放課後、帰り支度をしている最中にスマートフォンが震えた。短い通知文を一瞥した霜月は、わずかに目を見開き、それから小さく息を吐く。
雪ノ下雪乃、生徒会長立候補。
由比ヶ浜結衣も、同時に立候補。
「……まさか、由比ヶ浜までとはね」
独り言が、誰に届くでもなくこぼれ落ちる。だが、理由が分からないほど霜月は鈍くない。雪ノ下が生徒会長になれば、奉仕部に顔を出す時間は確実に減る。本人は否定するだろうが、あの性格だ。やると決めたら、限界まで自分を削る。
なら、その隣に立つ選択をする人間が出てくるのは、自然な流れだった。
(もう、覚悟は決めたってことか)
霜月は、それ以上考えるのをやめた。否定する資格はない。選んだのが彼女たち自身なら、口を挟む理由もない。
「私は私のやり方でやるわ」
霜月はグループラインに自身の方針を書き込み送信した。
3日後の朝、霜月は迷いなく一年C組の前に立った。この3日間霜月は一色に話す言葉を選別していた。無策で挑むほど霜月は愚か者ではない。彼女は軽く扉を開けるというより、遠慮なく押し開ける。
「一色、いる?」
教室のざわめきが、一瞬だけ止まる。
「あ、霜月先輩。どしました?」
間延びした声で返事をした一色いろはが、後ろの席から顔を出した。相変わらず、状況に適応するのが早い。
「話があるから、ちょっと来て」
「えー、今ですか?」
口では文句を言いながらも、一色はすぐに立ち上がった。周囲の視線を軽く受け流しながら、霜月の後を追う。廊下に出ると、教室の喧騒が一気に遠のいた。
「それで、なんですか?生徒会の件なら、もう色々聞いてますけど」
歩きながら、一色は探るような視線を向ける。
霜月は立ち止まり、振り返った。
「だから来た」
一色は、ほんの一瞬だけ表情を固くする。それを見逃さず、霜月は続けた。
「生徒会長になるメリットとデメリット、全部話す」
「……全部?」
「いいところも、面倒なところも、逃げられないところも」
一色はいったん視線を逸らし、靴先で床を軽く蹴った。
「それ、先輩的にはどうしてほしいんです?」
「どうもしない」
即答だった。
「選ぶのはアンタ。私は、材料を並べるだけ」
一色は、しばらく黙っていた。からかうような笑みも、愛想のいい相槌もない。
「……先輩って、意外とめんどくさいですね」
「知ってる」
霜月は短く答えた。
「でも、その“めんどくささ”込みで、ちゃんと考えなさい。逃げてもいいし、やってもいい。その代わり自分で決める」
一色は小さく息を吐き、困ったように笑った。
「ほんと、奉仕部って優しくないですね」
「優しさと楽さは別よ」
霜月はそう言って、再び歩き出す。
一色はいったんその背中を見つめてから、少し遅れて後を追った。選択を奪わない。答えを押し付けない。その不器用なやり方こそが、霜月澪という人間の、譲れない線だった。
霜月は、一色を校舎裏の自販機前まで連れてきた。
こんな時間帯で、人影はほとんどない。遠くから聞こえる朝練の運動部の掛け声と、金属がぶつかる乾いた音だけが、この場所が学校であることを思い出させていた。
「ここでいいわ」
短くそう言って、霜月は自販機の横の壁にもたれかかる。一色は一歩遅れて立ち止まり、所在なさげに鞄の肩紐を握った。
「それで……お話って?」
霜月はすぐには答えなかった。自販機の前に並ぶ飲み物を眺め、ボタンの色を一つずつ目でなぞる。
まるで、頭の中を整理する時間をわざと作っているかのように。霜月は視線を一色に戻し、淡々と言った。
「生徒会長になるメリットは難しく考えなくていいわ」
少し間を置いてから、言葉を選ぶ。
「まず、発言力が上がる。これは事実。クラスの意見を出す側じゃなくて、学校全体の“決める側”に立てるってこと」
一色が、わずかに視線を上げたのを確認して、霜月は続ける。
「行事の方針、予算の使い方、ルールの運用。全部、最終的に関わる立場になる。誰かに頼む側じゃなくて、判断する側」
曖昧に頷く一色を見て、霜月は一度だけ鼻で息を吐いた。
「嫌いでも、立ってしまえば影響力は持てる。それから、一年で生徒会長ってだけで、校内では確実に目立つ。良くも悪くも名前は残る」
少しだけ、現実的な声になる。
「推薦とか進学の場で“何をやったか”を聞かれた時に、一年生のときから生徒会長って肩書きは強いわね。実績としては、十分すぎるくらい」
一色は何も言わない。ただ、小さく瞬きをした。
「行事の主導権を握れる。人脈も増える。成功すれば、“悪ノリで担ぎ上げられた可哀想な子”じゃなくて、“やり切った人”になる」
霜月は一度言葉を切った。
「ここまでが、プラス」
風が吹き抜け、自販機の排気音が一瞬大きくなる。
「次、マイナス」
霜月の声の調子は変わらない。だが、言葉の角度だけが鋭くなる。
「責任は全部来る。失敗したら矢面。言い訳は通らない。誰かがやらかしても、最後に名前を呼ばれるのは生徒会長。後、他校から一年って理由で舐められる可能性が有るわ」
一色の喉が、小さく鳴った。
「好かれる保証はない。むしろ、嫌われる可能性の方が高い。悪ノリで推薦してきた奴らは確実に妬むか恨む。仕事をすればするほど」
霜月は視線を逸らさない。
「最後に、途中で投げたら、“逃げた人”って評価が残る。これは、卒業するまで消えない」
「ここまで。感情抜き」
霜月はそこで初めて問いを投げた。
「なんか質問ある?」
「……ないです。っていうか質問する気もなくなりますよー」
一色の返事は、思ったよりも素直だった。
霜月は軽く頷く。
「じゃあ、本題」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「アンタが一番嫌なのは、生徒会長を“やること”じゃない」
一色の肩が、わずかに跳ねた。
「恥をかくこと。負けること。評価が下がること」
霜月は言葉を選ばない。選ぶ必要がないと思っている。
「誰かよく分からない無名の生徒に負けて、“ああ、一色ってこの程度なんだ”って思われる未来」
沈黙が落ちた。一色は唇を噛み、視線を足元に落とす。
「……違う?」
返事はない。だが、その沈黙は十分すぎる答えだった。
「それは悪いことじゃないわ」
霜月は、責めるでも慰めるでもなく言う。
「普通だし、年相応。むしろ健全」
一色は、はっとしたように顔を上げた。
「え……?」
「ただし」
霜月は一度、言葉を切る。
「それを“やりたくない”って言葉で誤魔化すと、話がズレる」
視線がぶつかる。
「アンタが避けたいのは、責任でも注目でもない。“負けた自分”を見ること」
霜月は、そこで止めた。答えを出さないために。背中を押さないために。
「ここまでが、私が言うこと」
一色は、すぐには何も言えなかった。霜月は続ける。
「ちなみに、雪ノ下と由比ヶ浜は生徒会長に立候補するつもりらしいわ」
「えー、そっちに任せた方が楽じゃないですかー?」
一色はからかうように言った。だが誤魔化すようにも霜月は聞こえた。
「そうね。楽よ」
霜月は肯定する。
「でもそれは、アンタが“選ばなかった”んじゃなくて、“選ぶ前に降ろされた”って形になる」
一色の笑顔が、わずかに固まった。
「それ、私は嫌なの」
霜月は静かに言う。
「アンタがどうするかは、アンタが決めなきゃ意味がない。他者が勝手に選んだ正解なんて意味ないのよ」
それ以上は、言わなかった。自販機の前に、また静寂が戻る。霜月は、しばらく視線を逸らしたまま口を開いた。
校舎裏の壁に落ちる影を見つめ、その視線は一色を捉えていない。まるで、今ここにいない誰か、あるいは過去の自分に向けて言葉を投げているようだった。
「別に私は、アンタにやれなんて言わない」
声は低く、感情の起伏が削ぎ落とされている。怒りでも、優しさでもない。ただ事実を述べるためだけの温度。
「やらなくてもいい。今すぐ教室に戻って、全部なかったことにしてもいい」
一色の胸が、わずかに強く脈打つ。“なかったことにしていい”その言葉は、救いのようでいて、同時に恐ろしかった。
霜月はようやく一色を見る。そこには期待も、失望もない。ただ、相手を一人の選択主体として見ている目があった。
「それがアンタの自由」
一色の喉が、ひくりと鳴った。反射的に何か言おうとして、言葉が喉の奥で絡まる。今まで、誰もこんな言い方はしなかった。
「やった方がいい」
「向いてる」
「期待されてる」
「逃げるな」
いつも、“やる理由”だけを積み上げられてきた。やらない理由は、怠けだとか、卑怯だとか、弱さだとか、そういう言葉で切り捨てられてきた。
「でもそれって……」
一色が口を開きかけた、その瞬間。
「ただし」
霜月の声が、空気を切る。
その一言で、世界の輪郭がはっきりした気がした。逃げ道を塞ぐための言葉ではない。むしろ逆だ。曖昧だった境界線を、はっきり引くための区切り。霜月は、一色を真正面から見据えていた。見下ろすでも、迫るでもない。ただ、誤魔化しだけを許さない視線。
「それを“逃げた”って言うか、“選んだ”って言うかは、アンタが決めなさい」
一色の胸の奥で、何かがきしむ。
逃げた。
その言葉は、一色の中にずっとあった。口にされなくても、勝手に自分を責め続ける声として。でも同時に、“選んだ”と言い切るには、覚悟が足りなかった。
クラスの悪ノリ。生徒会の都合。奉仕部の“正解”。
それらは全部、一色の外側にあるものだ。守ってくれるようでいて、何かあったときに責任を取ってくれるわけでもない。霜月は、それを一つずつ切り落とすように言う。
「クラスがどうとか、生徒会がどうとか、奉仕部がどうとか全部関係ない」
その声には、苛立ちも説得も含まれていない。ただ、“そういう理由は理由にならない”と事実を並べているだけだった。
「それは全部、アンタが決めなくていい理由でしかない」
一色の胸が、じくりと痛んだ。
責められているわけじゃない。否定されているわけでもない。
見抜かれていた、言い訳にしようとしていたものを、きれいに言語化されただけだ。
「それに縋ってる限り、アンタはずっと“やらされた側”のままよ」
霜月は、小さく息を吐いた。吐き出されたその息には、諦めとも、覚悟ともつかない重さが混じっていた。
彼女は、一色を突き放しているようでいて、実際には逆のことをしている。守るために逃げ道を用意しているんじゃない。選ぶために、言い訳を奪っている。
「やらないなら、それでいい」
きっぱりとした断定。そこには評価も、価値判断もない。
「でもそれを“私はこうした”って言えないなら、それは自由じゃない」
沈黙が落ちる。遠くで、運動部の掛け声が響く。誰かの笑い声が、校舎の向こうから流れてくる。世界は何も変わらず動いているのに、ここだけが切り離されたみたいだった。
一色の中で、二つの未来が並ぶ。
生徒会長になる未来。ならない未来。
どちらも怖い。どちらも、何かを失う。
でもどちらも、“自分で選べる”。霜月は最後に言った。
「アンタは自由よ。だから選べる」
一色の視線が、わずかに揺れる。その言葉は、背中を押さない。引きずりもしない。ただ、扉を開けて、立ち去っただけだ。残されたのは、選択肢と責任だけ。一色は、しばらく俯いたまま動けなかった。
正直に言うと、この人の前に立っているの、ちょっと怖い。
霜月先輩は、声を荒げたりしない。責め立てもしない。命令もしない。なのに、逃げようとした瞬間だけ、足元の地面がすっと消える。怒鳴られる方が、まだ楽だった。「やれ」って言われたら、「無理です」って反発できる。「逃げるな」って言われたら、「怖いからです」って言い訳できる。
でも、この人は違う。
逃げ道そのものを、最初から用意しない。代わりに、「選べる場所」だけを、ぽつんと置いていく。
先輩が「回避するべきだろ」って言った時、霜月先輩は淡々と「脳内ハッピーセット野郎」って切り捨てた。その時は、正直ちょっと引いた。マジで怖かったし、あんな言い方普通しない。
でも今なら、分かる気がする。あれは、優しさじゃない。正しさでもない。「ご都合主義で人の人生を片付けるな」っていう、線引きだ。
「アンタは自由よ。だから選べる」
その言葉が、さっきからずっと胸の奥に引っかかっている。
自由。
それは、聞こえはいい。でも実際は、一番ずるくて、一番残酷な言葉だ。私はずっと「やりたくない」って言ってきた。生徒会長なんて無理だし、面倒だし、責任も重いし。
でも、それって本当だったんだろうか。
違う。
本当は――負けるのが嫌だった。笑われるのが嫌だった。「一色って、その程度だったんだ」って思われるのが、どうしようもなく怖かった。だから逃げたかった。誰かに止めてほしかった。「やらなくていいよ」 って言ってほしかった。
そうすれば私は、“選ばなかった人”じゃなくて、“やらせてもらえなかった人”でいられる。責任を背負わずに済むし、後悔を他人のせいにできる。卑怯だって分かってる。でもそれが私だ。
霜月先輩は、その全部を言語化した。
生徒会長になるメリット。発言力が上がること。校内で「決める側」に立てること。一年で生徒会長という肩書きが、進学や推薦で確実に意味を持つこと。
そして、デメリット。責任。批判。失敗した時に、逃げ場がないこと。途中で投げたら、一生残る評価。
全部、隠さなかった。誤魔化さなかった。でも「だから、やれ」とは言わなかった。それが、逆にきつい。誰かに背中を押されるより、誰かに止められるより、「選んでいい」と言われる方が、ずっと怖い。だってそれは、失敗したら、全部自分のせいになるってことだから。
でも。
このまま教室に戻って、「やっぱ無理ですー」って笑って、雪ノ下先輩や結衣先輩....後、先輩に全部任せて。その時、私は胸を張って言えるだろうか。
逃げたんじゃない。選んだんだ。
……言えない。
絶対、後で思い出す。文化祭の準備とか、行事のたびに、「もしあの時、生徒会長やってたらどうなってたんだろ」って。
それが一番、嫌だ。
失敗するのも怖い。叩かれるのも怖い。
でも、“何もしなかった自分”を正当化し続ける方が、たぶんずっと、きつい。
私は、小さく息を吸った。喉が渇いて、心臓がうるさくて、声が震えそうになる。ここで黙れば、また誰かのせいにできる。ここで曖昧に笑えば、逃げられる。
でも。
霜月先輩は、何も言わないし、急かさない、おまけに助け舟も出さない。あの人はもう少し後輩に対しての優しさが必要だって思うけど。
けど、ただ待っている。それが「選ばせる」ってことなんだ。完璧じゃなくていい。失敗するかもしれない。嫌われるかもしれない。
それでも。
「……生徒会長、やります」
声は、思ったよりちゃんと出た。怖い。でも、不思議と少しだけ、胸が軽かった。
これが、逃げないってことなのかもしれない。少なくともこれは、誰かに決められた答えじゃない。
私が選んだ答えだ。