霜月は、一色いろはの言葉を確かに聞いた。
生徒会長をやる――迷いも、言い訳も挟まない、はっきりとした宣言だった。
「それがアンタの選択なら、私は何も言わないわ」
霜月はそう返した。評価もしない。称賛もしない。正しいとも、間違っているとも言わない。ただ、選択として受け取る。それだけだ。その態度が、かえって一色には可笑しかったのだろう。
「霜月先輩……いえ、しもっち先輩って、本当にめんどくさいですね〜」
冗談めかした声。先ほどまで張り詰めていた空気が、嘘のように緩む。霜月は、反射的に眉をひそめた。
(……今、しもっちって聞こえたんだけど)
「え、なんで由比ヶ浜が言ってたあだ名?」
じとり、と半目で問い返すと、一色は悪びれもせずに、むしろ揶揄うように言った。
「意外としっくりくるので。あ、あと連絡先交換しましょうよ」
距離感ゼロの勢いでスマホを差し出してくる。さっきまでの葛藤が嘘のような切り替えの早さに、霜月は思わず息を吐いた。
(……切り替えが早いのか、最初から強いのか)
「分かったわよ」
渋々、という体裁を取りつつ連絡先を交換する。
「じゃ、ホームルーム始まっちゃうので!」
一色はそう言って、軽く手を振り、教室へ戻っていった。その背中は、不思議とさっきよりも軽やかに見えた。
霜月はしばらく、その方向を見つめてから、自分のスマホに視線を落とす。
(……依頼、終わったわね)
奉仕部のグループラインを開き、状況報告を書こうとする。だが、その指が送信ボタンに触れる前に、無情にもチャイムが鳴り響いた。
「……タイミング悪い」
霜月はスマホをしまい、教室へと足を向ける。廊下を歩きながら、自然と考えが巡る。雪ノ下雪乃は、合理的な最善策を提示した。由比ヶ浜結衣は、人の気持ちを壊さないための覚悟を選んだ。
(二人とも、自分の案を出した)
それは逃げではない。それぞれの価値観に基づいた、正面からの選択だ。
(……でも)
霜月の脳裏に、もう一人の顔が浮かぶ。比企谷だ。彼だけは、まだ何も出していない。少なくとも、霜月の知る限りでは。
(アイツが、この状況を“そのまま”にしておくとは思えない)
比企谷は、正面からぶつかることを避ける。だが同時に、誰かが傷つく未来を放置することも、決してしない。だからこそ厄介だ。
(嫌な予感がする)
一色は「自分で選んだ」と言った。霜月は、その選択を尊重した。だが、他人が、その選択を“利用”しない保証はどこにもない。教室の扉を開ける直前、霜月は一度だけ立ち止まった。
(比企谷……アンタは何を考えてる?)
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。それはまだ形を持たないが確実に、次の波乱の兆しだった。霜月はそれを振り払うように、教室へと入っていった。
まだ、この話は終わっていない。
昼休みのざわめきが教室に満ちる中、霜月はようやくスマホを手に取った。雪ノ下と由比ヶ浜達に、例の件を整理して送ろう、そう思った、まさにその瞬間だった。
画面が震える。
「……いや、速いって」
思わず小さく呟きながら、通知を開く。送り主は一色いろはだった。
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『しもっち先輩、今すぐTwitter見てくれませんか!?』
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文字の勢いが、そのまま一色の慌てぶりを伝えてくる。霜月は眉をひそめた。
(Twitter?)
一瞬考えてから、指を動かす。
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『Twitterって何よ。今はX(旧Twitter)でしょ』
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昼休みの軽口半分、違和感半分の返信、だが返ってきたのは、即座の反論だった。
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『そんなメタな話は後にしてください!Twitterで私を応援する人が多いんですよ!』
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霜月は、そこで初めて背筋に薄い寒気を覚えた。応援?多い?そんな話、聞いていない。言われるままにアプリを開く。そして、
――ずらり。
画面に並ぶのは、同じような文言、同じようなアイコン傾向のアカウント群。
「あなたを生徒会長に!」
「応援しています!」
フォロワー数をざっと見ただけでも、三桁後半。数えてはいないが、400は軽く超えているだろう。霜月は、無言のままスクロールを止めた。
(……多すぎる)
自然発生にしては、整いすぎている。文面も、タイミングも、熱量も。霜月は、すぐにメッセージを返した。
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『内容は確認したけど。アンタ、応援なんてやってた?』
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数秒後。
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『してませんよーそんなこと!さっき先輩から「こんくらい応援されてる」って言われただけで!まぁ、もう覚悟は決めてたんですけど……しもっち先輩、これどうなってるんですか?』
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霜月は、ゆっくりと息を吐いた。
(一色本人すら知らない応援アカウント、しかも400以上)
画面に映る応援の声は、どれも過剰で、どれも一方的だった。そこに本人の迷いも、覚悟も、揺れも存在しない。霜月の脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
(……比企谷)
霜月は、スマホを握り直した。その表情に、昼休みの緩さはもうなかった。
(さて……これは)
助けているのか。背中を押しているのか。それとも、選択を、また奪いに来たのか。画面に並ぶ無数の「応援」の文字を見つめながら、霜月は静かに考えていた。
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『一色、今どこに居る?』
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すぐに既読がついた。
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『元々先輩に呼ばれて図書室に行ったんですけど、今お手洗いに行くってフリして連絡してます』
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『分かった。今から図書室に向かうから、一色も戻ってて』
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送信ボタンを押した瞬間、霜月は席を立った。昼休みの喧騒が廊下に溢れている。購買に向かう生徒の列、騒がしく笑う声、どれもがいつも通りだ。だが、霜月の足取りだけが明らかに違っていた。早足で、無駄がない。
(……やっぱり、動いたわね)
予感はしていた。比企谷が「何もしない」ままで終わるはずがないことも、彼が選ぶやり方が真正面ではないことも。そして何より、一色本人が知らない「応援」が、あまりにも都合よく、あまりにも整いすぎていることも。
昼休みの図書室は、静かだが完全な静寂ではなかった。ページをめくる音、椅子が床を擦るかすかな摩擦音、遠くで聞こえる換気扇の低い唸り。
人の気配が薄い分、視線や間の変化がやけに目立つ場所だった。
霜月は足早に通路を進み、目的のテーブルを見つけた瞬間、内心で短く息を吐いた。
(いた)
窓際の長机。向かい合って座る一色いろはと比企谷八幡。テーブルの上には、数枚の紙が無造作に広げられている。比企谷が最初に気づいた。霜月の姿を認めた途端、露骨に顔を歪める。まるで1番この場で出会いたくなかったという表情だ。
(ああ、この顔。十中八九クロね)
霜月は、何事もない風を装って歩み寄る。
「あ、しもっち先輩〜」
一色が手を振る。ついさっきまでの切迫感が嘘みたいな、軽い調子だった。
「おー、一色」
霜月も続くが、声は妙に乾いていた。
「……え、何お前らそんな仲良かったの? つか、なんで霜月がいんの?」
視線が刺さる。だが霜月は肩をすくめるだけだった。
「図書室に用があっただけよ」
嘘ではない。だが本命は、別にある。霜月は二人の間にある机に視線を落とした。霜月は、紙から目を離さずに言った。
「で、比企谷。その紙、何?」
声は低く、抑揚もない。問いというより確認だった。比企谷は一瞬だけ言葉を失った。その沈黙はほんの刹那だったが、霜月には十分すぎるほどだった。
「……一色を応援するTwitterアカウントのフォロワーだよ」
投げやりに、吐き捨てるように言う。
「ま、もう一色がやる気だったからな。無駄に終わったけど」
結果だけを強調する言い方。“うまくいったかどうか”だけを基準に、手段を過去形にする癖。霜月は、その言い回しを聞いた瞬間、ほぼ確信した。
「あー……」
小さく、乾いた声が漏れる。理解した、というより、腑に落ちた音だった。
「私が一色に、“やるかやらないか”を選ばせたからね」
比企谷の眉が、わずかに動く。感情を隠すより早く、身体が反応してしまった。
「……やっぱ、お前だったか」
低く、苦々しい声。苛立ちと諦めが同時に混ざっている。霜月はそこで初めて、彼を真正面から見た。
「で?」
短い一言。だが、逃げ道を与えない圧があった。比企谷は無意識に肩をすくめる。
「そのアカウントとフォロワー。一色は最初から知ってた?」
その問いに、一色が即座に反応した。
「全然知りませんでしたよー!」
慌てたように首を横に振る。
「さっき先輩に見せられて、え、何これ!?ってなって……」
霜月は一色の顔を一瞬だけ確認するが作り物じゃない。驚きも困惑も、本物だ。
「本人は関与してない。しかも“見せられた側”」
視線を紙へ戻し、霜月は頭の中で静かに整理する。散らばっていた点が、一本の線になっていく。
「フォロワーの増え方が不自然ね」
霜月の声は淡々としていた。感情を挟まない、事実だけの声。
「短時間で、しかも同じ時間帯に集中して増えてる。応援文も似たような構文ばかり。熱量はあるように見えるけど……当事者感が薄い」
比企谷は、思わず小さく舌打ちしそうになるのを堪えた。
「偶然だろ。応援するだけなら、別に違法でも何でも――」
「フォロワーの書き込み先」
霜月は、ぴしゃりと遮った。
「気になって遡ってみたらね。葉山や雪ノ下、他の候補を“応援してた痕跡”が残ってるアカウントが混じってた」
紙の端を、指先で軽く叩く。
「なのに、ある日を境に一斉に“一色応援”に切り替わってる。不思議よね」
霜月は顔を上げ、比企谷を見る。
「まるで、フォロワー数がそこそこ集まってから表示名と応援対象だけ書き換えられたみたいね」
言葉は静かだった。だが、その一文一文は、確実に逃げ道を潰していく。図書室の空気が、張りつめる。ページをめくる音も、遠くの足音も、やけに大きく聞こえた。
比企谷は何も言わなかった。否定もしない。その沈黙こそが、答えだった。霜月はため息をつくでもなく、責めるでもなく、ただ淡々と結論を置いた。
「……一色を“その気にさせる”ための演出ね」
その言葉に、一色が小さく息を呑むみ、霜月は続ける。
「結果だけ見れば、確かに有効よ。アンタのやり方はいつもそう」
視線を逸らさず、比企谷を見据える。
「でもこれは、本人が“選んだ”ことを、あとから歪める」
比企谷は、しばらく視線を落としたまま黙っていた。指先がわずかに動き、紙の端を掴んで離す。その仕草は、言葉を探しているというより、どこまで踏み込むかを測っているように見えた。
「……歪めた、ね」
比企谷は低く呟く。
「じゃあ聞くけどさ。何もしなきゃ、一色はどうなってた?」
顔を上げる。霜月を真っ直ぐ見るその目には、開き直りよりも、覚悟に近いものがあった。
「空気に流されて、誰かの期待に飲まれて、自分で決めたつもりで、結局何も選べないまま終わってた」
言葉が、少しずつ鋭さを帯びる。
「俺は“選択肢”を見せただけだ。背中を押したって言うなら、その程度だろ。本人がやる気になった。それで結果が出た。だったら――」
肩をすくめる。
「誰も不幸になってない」
一色の方をちらりと見て、視線を戻す。
「理想論で何も動かないより、汚い手でも動いた方がマシな時もある。お前だって、そこは分かってるはずだ」
言い切った。それは比企谷なりの、誠実さだった。誰かが傷つくなら、自分が嫌われ役を引き受ける。その代わり、結果だけは残す――そういう人間の論理。
図書室の空気が、さらに重く沈む。霜月は、すぐには返さなかった。一拍置いてから、ゆっくりと息を吐く。
「……なるほど」
唇の端が、わずかに歪む。笑みとも、ため息ともつかない。
「“誰も不幸になってない”」
その言葉を、反芻するように繰り返す。
「便利な言葉ね。それ」
霜月は紙を机に置き、椅子にもたれかかった。視線は比企谷から外さない。
「アンタ、自分が嫌われることで帳尻合わせてるつもりなんでしょ」
淡々と、だが容赦なく。
「“自分が悪者になれば、他は丸く収まる”。だから手段は問わない。結果さえ出ればいい」
一歩、踏み込む。
「でもそれって、自由を奪ってる自覚がないだけじゃないの?」
比企谷の眉が、わずかに動く。霜月は続ける。
「選択肢を“見せただけ”?違うわ」
指で紙を叩く。
「アンタがやったのは、“選びたくなる状況”を作ったこと。選ばないと、自分が臆病者みたいに見える空気を用意した」
声は静かだが、逃がさない。
「それは説得でも支援でもない。ただの誘導よ」
比企谷が口を開こうとするより早く、霜月は言葉を重ねる。
「自由っていうのはね、選んだ結果じゃない。“選ばなかった可能性”まで含めて成立するものなの」
視線が鋭くなる。
「アンタはそれを、最初から切り捨てた。“やらない自由”を、黙って消した」
一色が息を詰めるのが、霜月の耳にも届いた。霜月は一色を見ず、あくまで比企谷だけを見る。
「自分で決めたって錯覚させておいて、実際には選択肢を狭めてる。しかも、後から『結果は良かっただろ』で蓋をする」
小さく、鼻で笑う。
「優しい独裁者気取りは楽でいいわよね」
その言葉が、静かに刺さった。
「他人の自由を削っても、“自分が憎まれる役をやったからOK”で済むんだもの」
霜月の声は冷えていた。
「でもね」
一拍置く。
「それ、自己犠牲じゃないわ。ただの支配よ」
比企谷は、反論できなかった。怒りでもなく、否定でもなくただ、言葉を失っていた。霜月は淡々と告げる。
「アンタは、一色が“やらない自分”を選んだ場合にどう見られるか、どう扱われるか、そこを全部先に潰した」
静かに、しかし確実に追い詰める口調。
「それで残る選択なんて、実質ひとつでしょう?」
比企谷は、唇を噛んだ。
「……それでも、やらなきゃ動かなかった」
霜月は、薄く笑った。
「そう。だから厄介なのよ、アンタは」
その笑みは、嘲りに近い。
「“正しい結果”を人質にして、“正しい過程”を黙らせる」
一色が、息を詰める。
霜月は続けた。
「私はね、他人の自由を奪うことも、自分の自由を押しつけることも、自分の自由を放棄することも、同じくらい嫌い」
比企谷を、まっすぐ見据える。
「でも今回で一番許せないのは“奪った自由を、本人の選択だったことにする”やり方」
沈黙が落ちる。
「善意でやってる分、なおさらね」
霜月はそう言って、視線を紙から完全に離した。
「アンタのやり方は効率的よ。合理的で、きっと何度も成功する」
一拍置く。
「でもそれ、誰かが“自分で決めたと思い込まされる世界”を増やすだけ」
静かな声だったが、重さは変わらない。
「私は自分の自由を奪われるくらいなら、失敗する自由の方を選ぶ」
視線を伏せ、静かに言う。
「たとえその結果が、見ていられなくても」
比企谷は何も言えなかった。反論の言葉は、頭の中にはあった。だが、それを口にすればするほど、自分が“正しさ”の名の下に踏み越えた一線が、より明確になる気がして。霜月は、もう彼を責めなかった。ただ、事実と思想を並べただけだ。それが一番、残酷だった。