一色の依頼――正確には「クリスマスイベントをどうにかしてほしい」という泣き落としに対し、比企谷は妙な顔つきで言った。
「俺個人が引き受ける」
奉仕部の空気が一瞬止まる。霜月は、その瞬間に理解した。
(あー、これ自己清算だ)
SNS工作で一色を担ぎ上げようとした件。雪ノ下と由比ヶ浜の覚悟を、善意という名の独善で踏みにじりかけた件。その全部を一人で背負って「俺がやる」で片づけようとする、比企谷という人間の悪癖。
責任感と自己否定が悪魔合体すると、だいたいこの形になる。霜月はある確信だけはあった。
(多分アイツ、潰れる)
なぜなら、意識高い系という生命体は、外部からの「現実的な提案」を栄養にして、それを三倍に希釈し、五倍に横道へ逸らし、最終的に「抽象論」に昇華するという、極めて厄介な生態を持っているからだ。
たとえば、
「地域密着型イベントにしましょう」
→「地域とは何かを定義すべきでは?」
→「そもそもクリスマスの本質とは?」
→「多様性を考慮するとツリーは排他的では?」
地獄である。
霜月は、首にかけていたアイマスクの紐を指先で弄びながら、廊下の窓から外を見た。夕焼けが、やけにきれいだった。
「……変なことにならないかね」
誰に向けたでもない独り言。その会議はどうやら今日あるらしく、比企谷と一色は奉仕部を後にした。
家に帰り、霜月のスマホには、一色からのメッセージが届いていた。
『会議が進まないです......』
「知ってた」
思わず独り言が口から溢れた。
『全員やる気はあるんです....でも何も決まらないんですよー』
「知ってた」
思わず2回も同じ事を呟いた霜月だった。
そして次の日、奉仕部に耳を疑う情報が飛び込んだ。
「……比企谷が、体調不良?」
霜月は思わず聞き返した。反射に近い。疑問というより、確認だ。雪ノ下が机の上のスマートフォンから視線を上げ、小さく頷く。
「ええ。今日は欠席だそうよ。一日休めば回復する、と連絡があったわ」
(え?)
霜月の脳裏に、偏見に溢れた意識高い系(笑)の会議が想像された。
円卓にホワイトボード。そして「ビジョン」「コンセンサス」「エンゲージメント」「シナジー」「マインド」「イニシアティブ」などの横文字。
意味のない横文字が雨あられと降り注ぎ、誰もそれを疑問に思わず、理解した“フリ”だけが静かに積み上がっていく。目的は曖昧、手段は抽象、結論は「次回に持ち越し」。
一瞬、霜月は本気で思った。
「まさか、あれでメンタルをやられた?」
何故なら、あの生命体、意識高い系は思考を削る能力に長けている。下手な拷問より効く。
(ついに比企谷も犠牲者に……)
そんな物騒な想像が膨らみかけた、その瞬間。
「普通に風邪だって」
由比ヶ浜が、あっさり言った。
「小町ちゃんによると、昨日の夜から喉が痛かったらしいよ?熱もちょっとあるって」
「……あ、そっち?」
「しもっちは何を想像したの?」
霜月はずっこけた。精神的ダメージ説は即却下だった。
「てっきり意識高い系に魂を削られたのかと……」
「えっ急にどうしたの?」
由比ヶ浜に心配された霜月だった。だが、よく考えれば比企谷八幡という人間は、精神耐久値だけは異常に高い。あの程度の会議で倒れるほど、繊細ではない。霜月は小さく息を吐いた。だが、次の瞬間、別の問題が頭をもたげる。
「……いや待って」
比企谷が倒れようが、喉が潰れようが、熱を出そうが合同クリスマスイベントの会議は、今日も容赦なく開催される。
比企谷がいない。それはつまり。
霜月の視線が、自然と一色のほうへ向く。一色いろはは、いつものように曖昧な笑顔を貼り付けていたが、その奥に隠しきれない不安が見えた。視線が泳ぎ、指先が落ち着きなく机の縁をなぞっている。
(ああ……)
霜月は悟った。今日も、あの合同クリスマスイベントの会議がある。そして、本来“突撃要員”だった比企谷は、戦線離脱中。
(……嫌な予感しかしないんだけど)
胸の奥で、鈍い警報が鳴り始めていた。そして、
「今日の会議……しもっち先輩に、一緒に来てほしくて」
「は?」
霜月は即座に眉をひそめる、せめてもの抵抗だった。
「......なんで私?」
一色は、もじもじと指先を合わせる。
「えっと……その……」
言い淀んだあと、小さな声で言った。
「仮にも、生徒会長になろうとした先輩たちに……また助けてくださいって言うの、今さら気まずくて……」
霜月は、ゆっくりと天井を仰いだ。
(……あー)
雪ノ下と由比ヶ浜は、あの一件で「選ぶ側」に立った。そこへ「やっぱ無理でした、助けてください」は、確かに空気が死ぬ。
「……分かったわ」
霜月は溜息混じりに言った。
「行く。行けばいいんでしょ」
「本当ですか!?」
「ただし」
霜月は人差し指を立てる。
「私、通訳じゃないから。意味不明な横文字は各自で翻訳してもらうわ」
「それで十分です!」
こうして放課後。霜月は、一色と並んで校舎を出ていた。夕焼けに染まる通学路を歩きながら、霜月は内心で何度目か分からない溜息をつく。
(本来なら、私はもう帰ってアイス食ってダラけてる時間なんだけど)
人生とは、ままならない。一色は隣で、落ち着きなく歩いていた。いつもの軽やかさは影を潜め、肩がわずかに内側に入っている。
「……しもっち先輩」
「なに」
「やっぱり、先輩に……無理させちゃいましたかね……?」
霜月は、少しだけ考えてから答えた。
「無理はしてたでしょうね。本人が選んで」
一色が、少しだけ俯く。
「……私、生徒会長になったばっかりなのに、もう人任せで……」
「違うわ」
霜月は即座に切った。
「“助けを求める”のと“丸投げ”は別物よ。一色」
足を止め、一色を見る。
「今のあんたは、自分の手で抱えきれないって判断してるだけ。むしろ健全」
「……」
「問題は」
霜月は前を向き、歩き出す。
「助けを求めた相手が、ただの地雷原ってことだけよ」
「ひどいー!」
コミュニティセンターは、総武高校から少し離れた場所にあった。外観は小綺麗で、ガラス張り。いかにも「地域交流拠点」らしい顔をしている。霜月は、その入口を見上げて、嫌な予感を確信に変えた。
(意識高い系の巣だわ)
エレベーターで三階へ。一色が「ここです」と指さした先には、会議室のプレートが貼られていた。扉の向こうから、すでに聞こえてくる。
「だからさ、そこは“イベントの意義”を先に共有したほうが、全体のモチベーションが上がると思うんだよね」
「そうそう、目的が明確じゃないと、アクションに落とし込めないし」
「変なことにならないかね……」
呟きは、ほぼ祈りだった。一色が扉をノックする。
「し、失礼しまーす……」
扉が開いた瞬間、空気が変わった。ホワイトボード、プロジェクター、ノーパソ、飲み物は何故かブラックコーヒー。円卓を囲む数名の生徒。その全員が、こちらを“ウェルカム”な笑顔で見た。そして、その中心にいた男子生徒が立ち上がる。
「僕は玉縄。海浜総合高校の生徒会長を務めている。よろしく!」
爽やかで声がやたら通る。霜月は軽く会釈した。
「今日は比企谷先輩の代理として、こちらの――」
「霜月澪」
一色の紹介を待たずに名乗った。玉縄は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔を作り直す。
「なるほど、多様なバックグラウンドを持つ方が参加してくれるのは、シナジー的にもありがたいね」
「……え、日本語?」
霜月の第一声は、反射だった。会議室が、ぴしっと凍る。
「し、しもっち先輩!」
一色が小声で注意する。
「仮にも初対面の人に何言っちゃってんですか!これじゃ私がヤバイ人連れてきたって思われるじゃないですか!」
「いやあれ、日本語に近しい未知の言語でしょ、マジで何語よ。つか、アンタ自己保身は忘れないのね」
小声でそんな会話をしていると、玉縄は、数秒だけ瞬きをしてから、より一層“理解あるリーダー”の笑みを浮かべた。
「はは、率直な意見だね! そういうフラットな視点、大切だと思うよ」
(通じてない……)
霜月は悟った。この男は、“通じない”のではない。“通じた気になって前に進む”タイプだ。
玉縄は、昨日比企谷たちが作っていた議事録に目を落としていた。薄く開いたマックブックエアを前に、指が軽快にいや、やたら自信満々にカチャカチャカチャッ、ターンと音を立てる。
仕事してる感だけは一流である。しばらく画面を睨んだあと、疲れ目なのか眉間をきゅっとつまみ、満足したように頷いた。
「うーん……まだちょっと固まりきってないね。だから今日は、昨日のブレストの続きからやっていこう」
霜月は、内心で即座にツッコミを入れた。昨日の会議は知らないがどうせ碌に進んでいないだろう。
(ブレスト。うん、知ってる。絶対固まらないやつ)
ブレスト――ブレインストーミング。
複数人で特定のテーマについて、自由にアイデアを出し合い、批判をせず、量を重視し、発想を広げることで、創造的な解決策や新しい価値を生み出す集団発想法。教科書的には、そう書かれている。
だが、霜月はこれが嫌いである。
なぜなら、霜月流に言えば、ブレストとは、批判を禁じることで思考を保護し、根拠を不要とすることで発言を促し、結果として「誰も考えていない状態」を全員で合意形成するための高度な技術だからである。
もっと簡潔に言えば。
『結論を急がない』という言葉を盾に、結論に至らないことを正当化する装置だ。
もちろん、ちゃんとした人間がやれば、ブレストは有効だ。議論の前段階として、思考を広げるフェーズとしては、確かに価値がある。だが、今ここに集まっているのは、
「じゃあまず、アイデアをどんどん出していこう。質より量で!」
「そのアイデア、シナジーあるね!」
「それ、アウフヘーベンできそうじゃない?」
「ビジョン的にはアリだと思う!」
こういう人種である。霜月は、机に突っ伏しそうになるのを必死で堪えた。ただし目は死んでいる。
(ダメだ……この空間、単語だけが前進して中身が一ミリも動いてない。つーか弁証法って、単語を唱えれば前に進む魔法じゃないんだけど……ヘーゲル先生がいたら泣くわよ)
アイデアは出る。否定はされない。だが、選別も決断もされない。
つまり――
(永久機関が完成したわね、デンジ君もビックリだわ)
横で一色が、必死にメモを取っている。書いている内容の半分以上は、たぶん後で読んでも意味が分からない。霜月は、天井を見上げた。
「……帰りたい」
誰にも聞こえない、小さな呟きだった。
だがその声には、意識高い系会議という名の迷宮に迷い込んだ人間だけが持つ、確かな絶望が詰まっていた。