冬休みが終わって放課後、霜月はなるべく早く部室に向かう。そして雪ノ下が部室の扉を開けた瞬間、ふわりと暖気が肌を包んだ。暖房はすでに万全。冬の寒さにすっかり慣れきった身体が、思わず正直に反応する。
霜月は小さく息を吐き、そのままいつもの席へ腰を下ろした。目の前の机には、由比ヶ浜結衣が張り切って準備した、小さなホールケーキ。丁寧とは言い難いが、気持ちだけはやたらと詰まっているそれが、きっちり五等分されて並んでいる。
「お誕生日おめでとー!」
由比ヶ浜が元気よく両手を上げる。
「おめでとさん」
比企谷がやる気のなさを隠しもしない。
「おめでとうございますー」
一色はにこにこ。
「おめでとー」
最後に霜月の、感情がどこかに置き去りにされた声が響いた。四方向から祝福を浴び、雪ノ下雪乃はどこか居心地悪そうに視線を彷徨わせる。
「……ありがとう。その、えっと……お、お茶があった方がいいかしら」
そう言うや否や、逃げるように立ち上がり、紅茶の準備を始めた。かちゃかちゃ、と食器が触れ合う音が部室に広がる。
しかし霜月は隣の生徒会長に目線を向ける。そう、いつの間にか当然のようにそこにいる一色いろはである。霜月は内心で首を傾げたが、今さら突っ込むのも面倒だった。結果、誰も何も言わないまま、雪ノ下の誕生日会は進行する。ケーキを食べ終えたところで、由比ヶ浜がぱんっと手を叩いた。
「じゃ、気分を切り替えて……仕事始めといきますか!」
やたらと明るい声が響く。
「ええ」
雪ノ下もそれに応じるように微笑み、ノートパソコンを机に置く。
(仕事始め……新年一発目に聞きたくない単語ランキング上位ね)
霜月は深々とため息をついた。奉仕部の新年最初の仕事は、メールチェックだった。名目は「千葉県横断お悩み相談メール」。平塚先生がどこからか調達してきた、年季の入ったパソコンが部室の隅から引きずり出される。
(……まだやってたのね、それ)
起動ボタンを押すと、画面がうんともすんとも言わない。
(このまま沈黙してくれていいのよ)
霜月の祈り虚しく、数秒後がかっ、と嫌な音を立てて画面が点いた。
「起動したね」
由比ヶ浜が椅子を引きずり、雪ノ下の隣に並んで画面を覗き込む。
「あ、メール来てるね」
「三浦さんから、かしら」
「え、縦ロールから?」
その一言で、霜月の中で何かが終わった。画面にはこう表示されている。
〈yumiko★さんからの相談〉
『みんな文系と理系、どうやって選んでんの?』
(自分の進路から逆算。以上)
霜月は危うく声に出しかけた。これを真正面から三浦にぶつけたら、間違いなくキレる。
「進路、ですかぁ」
一色はフォークを口元に当て、ケーキをもぐもぐしながら興味深そうに聞いてくる。
「実際、どっちがいいんですか?」
比企谷が答えた。
「単純に受験だけで言えば、文系のほうが楽だな。私立なら三教科で済むし」
霜月が続ける。
「ただし、学費は国立の方が圧倒的に安いわ。そこを重視して選ぶ人も多いわね」
話がそれなりに真面目になりかけた、その時。
コン、コン。
ドアが二、三度叩かれた。全員が反射的に視線を向ける。返事を待つことなく、扉は無遠慮に開いた。
「……今、いい?」
空気が一気に冷える。
(態度が悪いから却下)
霜月は即座に内心で却下した。戸口に立っていたのは、縦ロールこと、三浦優美子。ゆるく巻かれた金髪が不機嫌そうに揺れる。
「優美子、どうしたの?」
由比ヶ浜が声をかける。
「……ちょっと話あるんだけど」
「そっか。じゃ、とりあえず入って入って」
三浦は頷き部室へ足を踏み入れちらりと、一色へ胡乱げな視線を投げた。
「あ、じゃあ私、生徒会の仕事あるので」
空気を読んだ一色は即座に立ち上がる。
「さいなら、一色」
「ではではー」
小さく手を振りそっと扉が閉まった。由比ヶ浜が椅子を勧め、自然と四人は横並びに座る。比企谷、霜月、由比ヶ浜、雪ノ下。その向かいに三浦。奉仕部の新年は、どうやら穏やかには始まらないらしい。
「話って……メールの件?」
由比ヶ浜が恐る恐る切り出すと、三浦は一瞬だけ視線を泳がせた。
「それじゃなくて……。いや、それもあるけど」
歯切れの悪い言い方で言葉を濁し、三浦は顔を逸らす。だが、ひとつ大きく息を吐いた次の瞬間視線は一直線に雪ノ下へ向けられた。
「……ていうかさ。あんた、隼人となんかあんの?」
空気が、ぴしりと張りつめた。言葉も視線も鋭い。それが例の噂を指しているのは、霜月にも一瞬で分かった。
雪ノ下雪乃と葉山隼人が付き合っている。
カフェで偶然居合わせただけの出来事は、いつの間にか都合よく脚色され、今や教室どころか学校中を駆け巡る無責任な噂話になっている。事実確認もされないまま、感情だけが先行する。霜月が嫌うタイプの話だ。
(噂に尾ひれは付きものだけど……今回は特にくだらないわね)
そして葉山に最も近い位置にいる人間が、
「別に、何もないけれど。昔からの知り合いというだけよ」
あまりにも淡々とした返答。だが、三浦の射殺すような眼光は緩まない。
「……ほんとに?」
(しつこ)
この手の「確認」は、相手の言葉を信じたいからじゃない。自分の不安を正当化したいだけだ。その一言に、雪ノ下は心底うんざりしたようにため息を吐いた。
「私が嘘を吐くメリットが、一つでもある?」
静かな声だったが、鋭さがあった。
「……そういうの、昔から迷惑だったわ」
「は?」
三浦の眉が跳ね上がる。
「何その言い方。マジムカつくんだけど。あーし、あんたのそういうとこほんと嫌い」
その瞬間、霜月の内側で、何かがはっきりと“ズレた”。
「優美子!」
由比ヶ浜が咎めるように声を上げる。突然の制止に、三浦の肩がぴくりと跳ねた。ゆっくりと振り返った先で、由比ヶ浜は唇を尖らせ、珍しく強い視線を向けていた。その横で、霜月が声を挟む。
「つーか、縦ロールは葉山の何なの?」
三浦のこめかみが、わずかに引きつる。
「グループで一番距離近いのは知ってるけど、勝手に恋人面してるなら100パー嫌われるからやめた方がいいわよ」
それは確実に地雷だった。
「……は?」
三浦が霜月を睨みつける。だが霜月は怯むどころか、同じ温度で睨み返す。
「やさぐれは黙っててくれる? あーしは雪ノ下と話してるから」
「はっ」
霜月は鼻で笑った。
「そんな“やさぐれ”に指摘されてる時点で、アンタは相当単純ってことよ」
空気が一瞬で凍りつくも、由比ヶ浜が慌てて割って入り、必死に宥めにかかったことで、どうにか衝突は免れた。
(たっく...自由を履き違えてんじゃないわよ....)
他人の関係に土足で踏み込んで、噂を根拠に感情をぶつけて、挙句の果てに「嫌い」で片付ける。それは霜月にとって最悪の地雷だ。その間も、雪ノ下と三浦の視線は絡み続けている。
「……何かがあったとして」
雪ノ下が静かに口を開く。
「それを全部話したら、何か変わるのかしら?」
問い詰めるような口調。
「あなたは納得する? 周りは、それで満足する?」
三浦は言葉を失った。何か言い返そうとして、唇が動く。だが、声は出てこなかった。その様子を見て雪ノ下は浅く息を吐く。
「……結局、意味がないことなのよ」
その言葉は淡々としていて、だからこそ突き刺さった。
(本当意味ないわね。この会話)
霜月は内心で深いため息をつく。新年早々、感情論と噂話に振り回される。奉仕部らしいと言えば、これ以上ないほど奉仕部らしい光景だった。
「あんたの、そういうとこほんっと……ッ!」
それは、もはや言葉ではなかった。理屈も意味も伴わない、感情そのものの噴出だった。三浦は激情を吐き出すように叫び、椅子を弾く勢いで立ち上がる。床が軋み、空気が震える。内心霜月は、はっきりと苛立ちが臨界点に近づいているのを理解した。
「縦ロール、やめときなさい」
霜月の声は低く短い。怒鳴り声でも、警告らしい強さでもない。ただ事実を告げるだけの声音。だが、その言葉が届く前に。
「ちょっと、優美子!」
由比ヶ浜の制止は完全に遅れていた。比企谷も反射的に立ち上がる。椅子が床を擦る音がやけに大きく響いた。だが、三浦の視界にはもう雪ノ下しか存在していない。周囲も、声も、止める手も、すべてが意識の外へ押し出されている。
「前からなんなわけ、ほんとっ!」
吐き捨てるように叫び、一直線に雪ノ下へ詰め寄る。勢いのまま、腕を伸ばした。その瞬間だった。霜月が、一歩踏み込む。速い。だが大きな動きではない。三浦の手首を、横から、逃げ道を塞ぐように掴んだ。
「……っ?」
次の瞬間、三浦の身体が前に出ることはなかった。霜月は力任せに引いたわけではない。関節の角度と重心だけを、ほんのわずかにずらした。
「座りなさいよ」
低く、短い声。有無を言わせない、命令だった。三浦の身体は逆らえず、そのまま霜月に制御される形で方向を変えられる。椅子の脚が床を擦る音がして、三浦はそのまま――座らされた。
「……っ!」
反射的に立ち上がろうとしたが、霜月の手は離れない。手首を掴む指先は冷たく、力は必要最低限。だが、逃げられない。由比ヶ浜は、思わず息を呑む。
「し、しもっち……?」
比企谷も言葉を失い、雪ノ下は静かに目を伏せていた。霜月は、三浦を見下ろしたまま、淡々と続ける。
「ここは殴り合う場所じゃないっての...」
霜月は手首を離す。三浦は怒った。怒りの矛先は、当然――霜月。
……の、はずだった。
だが三浦は、睨まなかった。正確には、睨もうとしたが——できなかった。下から見上げた霜月の瞳は、あまりにも静かだった。怒りも、苛立ちも、軽蔑すらない。そこにあったのは感情のほぼ全てを切り離した視線。人を人として扱うかどうかを判断した表情だ。
見つめられているだけで、身体の芯から熱が奪われていく。喉が鳴り、背筋に冷たいものが走る。恐怖という感情とも違う。威圧でも殺気でもない。
ただ、本当にどうでもいいものを見る目。
それが、何よりも三浦を追い詰めた。霜月は、淡々と口を開く。
「三浦」
声は低く、抑揚がない。いつもの気怠げな、皮肉混じりの調子とは似ても似つかない。
「アンタは葉山の何なの?葉山を『自分のものに近い存在』として扱ってるように見えるのは私の気のせい?」
言葉が空気を切り裂く。逃げ道を許さない、真正面からの問い。
「もう一度言うけど恋人気取りはやめなさいよ。アンタがやったのは自身の感情を免罪符にした侵害なのよ?自分の感情を正当化してあまつさえ、人に暴力を振るおうとしたって自覚あんの?」
その瞬間、部室の空気が完全に凍りついた。
誰も息をする音すら立てられない。怒鳴っていない。声を荒げてもいない。霜月にとって三浦は論理で説明する価値がない段階に入っただけだった。それが、何よりも残酷だった。
そして霜月は、そのまま続けることも、畳みかけることもしなかった。ただ、立ったまま、静かに三浦を見下ろしている。
彼女は、そのときになってようやく気づいた。霜月は、さっき「三浦」と呼んだのだ。一瞬、聞き流しそうになったその呼び方が、遅れて胸に刺さる。
今まで、散々「縦ロール」そう呼ばれてきた。揶揄であり、軽口であり、皮肉混じりのあだ名。腹は立つが、同時に“距離があるからこそ許される呼び方”でもあった。少なくとも、完全に無関係な相手には向けられない。
だが――今、霜月はそれを使わなかった。苗字だけ。感情も、装飾も、含意も削ぎ落とした呼び方。それは、知人でも、仲間でも、対等でもないという宣告だった。口喧嘩の相手ですらない。ただ、「線の外にいる他人」。
これ以上踏み込めば、完全に排除される。そう直感的に理解してしまうほどの距離感。三浦は息を呑んだまま言葉を失う。怒りも、反論も、涙も出てこない。
由比ヶ浜が、震える声で三浦の名前を呼んでいる。比企谷が、場を収めるべきか迷ったまま立ち尽くしている。雪ノ下は、唇を引き結び、何も言わない。
そして霜月はふっと視線を外し、興味を失ったように椅子へ戻った。さっきまでの冷気が、嘘のように消える。
(……くだらない)
内心でそう吐き捨てるように思いながら、深く背もたれに身を預ける。
部室に残ったのは、凍りついた沈黙と、言葉にされなかった「越えてはいけない一線」、そして霜月という人間が、どれほど冷静に、容赦なく距離を切れる存在なのかという、逃れようのない現実だけだった。