私の名は兵藤勇。冥神薬品工業の社長である。
右腕であり友人でもあった卯川工場長が、あの忌まわしい夜に死んでからというもの、すべてが微かに軋みを上げていた。歯車がひとつ欠けた機械のように、会社も、私自身も。
そして、その翌日に届いた一通の封筒。
黒い蝋で封じられた古びた招待状。
――まさか、これが運命の分岐点になるとは、誰が予想できただろうか。
私は冥神家の屋敷の大扉を押し開けた。
ぎしりと音を立てる扉の向こうには、湿った埃と冷気が満ちている。
その闇の中に、ひとりの男が立っていた。伊郷瑠。十五年前まで冥神薬品の生科学分室を率いていた男である。
小柄な体躯に似合わぬ威圧感をまとい、顔の造作は歪にねじれている。
見る者の心に不快なざわめきを残すその面差しに、かつての同僚の面影はなかった。
「ようこそ兵藤部長――いや、今では冥神工業代表取締役、兵藤勇社長でしたかな」
耳に張りつくような声。人ならぬ響き。
私は眉をひそめ、屋敷の奥を見渡した。燭台にともる炎がゆらゆらと影を伸ばし、壁の上で何かが蠢くように見える。
「伊郷瑠。空き家に火を灯すなど感心しないな。ここは先代の屋敷だ。火事でも起きたらどうする」
「そうですな……。どうぞ、お入りください」
その声には、氷のような笑みが滲んでいた。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。湿った板の匂い、木の軋む音、遠くの風に揺れる硝子の震え。
すべてが、私を試すかのようだった。
「さあ兵藤社長。冥神薬品工業の未来について――少し、お話をいたしましょう」
伊郷瑠の笑みは、炎に溶けて影となり、屋敷そのものが生き物のように歪んで見えた。
私は背筋に冷たいものを感じながらも、退くことはできなかった。
ここで誤れば、会社も、私自身も終わる。直感がそう告げていた。
そのとき、奥の扉の向こうから、低く笑う声が響いた。
――それは人の声ではなかった。悪魔の囁きのように、空気を震わせた。
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冥神家の人々――社長夫妻も娘の慶子も、十五年前の冬、軽井沢の別荘火災で焼死したとされている。
だが、伊郷瑠に案内されたのは、慶子の部屋だった。
扉を開けると、そこには時間が止まった世界があった。
西洋甲冑の並ぶ棚、愛犬ジェイソンとの肖像画、少女の香りを残したカーテン。
すべてが十五年前のままだ。
そして――微かに、キキキと車輪の軋む音が響く。
「……勇さん」
掠れた声。聞き覚えがあった。
振り返ると、車椅子に座る女がいた。顔は白いマスクで覆われ、表情はわからない。
だがその声、その呼びかけは、確かに慶子のものだった。
「伊郷瑠。――完成していたんだな。人工冬眠装置が」
「ええ。お嬢様には十五年間、眠っていただきました」
「……サイボーグも、完成したのか」
「その通りです。社長が亡くなった後、私が解雇されたのを契機に。
ですが、謎の出資者の支援により、研究を続けることができたのです」
「出資者……慶子には知らせていないのか」
「もちろんです。お嬢様の安全のために。目覚めの日まで、すべては秘密に」
マスクの奥で、慶子の瞳がかすかに光を宿す。
それは生の光ではなかった。
機械と人の境界に漂う、冷たい金属の輝き。
「これから、何をするつもりだ、伊郷瑠」
「これからは――社長。お嬢様の復活を見届けていただく時代です」
マスクの下の微笑が、わずかに動いた。
その笑みは冷たく、しかし陶酔に満ちていた。
十五年間、凍っていた時間が、いま再び動き始めた。
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慶子を名乗る女の左薬指に、銀の指輪が光っていた。
胸が痛む。まだ、それをつけているのか。――捨ててしまえばいいものを。
「復活を見守る? 私がか」
「十五年前の放火現場で、私は見たのです。兵藤部長……いや、社長。
なぜ貴方は、ご家族を……お嬢様を焼いたのですか。結婚も決まり、黙っていても会社は貴方のものになったのに」
「……社長に“ユニオン”のことを知られた」
伊郷瑠の顔に、燭光が青白く映る。
壁の影が長く伸び、闇が笑っているように見えた。
「そういえば昔、社長が話していた。武器商社から化学兵器製造の依頼が来たと……」
「社長はそれを断った。立派な決断だった。だが俺は派遣された。
娘可愛さに、婚約者の身辺を探偵に調べさせたのが運の尽きだった」
車椅子の慶子の手がぎり、と震える。
白い手袋の下で、金属が軋んだ。
「あなたの……あなたの慶子に対する思いは、すべて偽りだったの……?」
掠れた声。涙ではなく、十五年の絶望で濡れた声だった。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に、冬の朝の光と、微笑む慶子の姿が蘇る。
「……即死しないように、オイルを掛けて火をつけた。伊郷瑠が間に合うように。
銃で撃てば死んでしまう。少しでも救える可能性を残したかった。――伊郷瑠、お前はよくやってくれた」
伊郷瑠は黙っていた。冷たい目で私を見つめている。
時計の秒針が静かに刻む。カチ、カチ、カチ――。
慶子の胸に埋め込まれた駆動音がそれと重なる。
それは鼓動のようでありながら、まるで異なるものだった。
十五年の眠りを越えて蘇った彼女は、もはや人ではない。
それでも私は――彼女を愛していた。
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オイルの匂いが鼻腔を刺す。
――あの夜、彼女を焼いたオイルの匂いだ。
「悲しい……貴方を愛しているから、悲しいの」
慶子が差し出した手に、私は触れる。
黒い涙が、ぽたりぽたりと床に落ちる。
「熱い……熱かったわ。この匂いは、あなたが掛けたオイルの匂い……体が焼ける……」
彼女の体から、白い煙が立ち上る。
燭台の光が揺れ、煙は生き物のようにうねった。
ずるり、と音がして、慶子の顔の半分が溶け落ちた。
皮膚の下から覗くのは、歯車と金属の、冷たい機構。
「い、勇さん……」
その声に、私は凍りつく。
伊郷瑠が低く笑った。
「興奮状態が続くと、お嬢様の体は高温を発し、皮膚が溶けてしまう。
そこで我々は、酸に反応してゼリー状の硫酸に変わる人工皮膚を作り出したのです。――くっくっく……」
私は声を失った。
十五年の眠りから目覚めた“慶子”は、科学と復讐が交じり合った異形だった。
黒い涙がさらに流れ、白煙の向こうで、機械の瞳が私を見つめる。
それが愛なのか、憎しみなのか、もう私にはわからない。
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触れられた頬が、溶ける。
「キスをして……あの時のように……」
その声は掠れながらも、かつての柔らかさを残していた。
私は静かに頷く。
「良いとも……」
頬が焼ける。皮膚が爛れる。硫酸と煙の匂いが鼻を刺す。
それでも、私は彼女の顔に手を添えた。
触れるたび、愛した人の姿が崩れていく。
左薬指の指輪が、かすかに光った。
それが、私の見た最後の光景だった。
あの温もりも笑顔も、すべてが化け物の影に飲まれていく。
ただ、その指輪だけが、愛の証としてかすかに輝いていた。
二人が生き延びる程度の財産は残してある。
あとは伊郷瑠が上手くやるだろう。
だがその生存は、もはや人の幸福ではない。
科学と復讐と愛が混ざり合った、歪んだ奇跡にすぎない。
硫酸の匂いの中で、私は静かに目を閉じた。
慶子――いや、“彼女”の機械の瞳が、最後に私を見つめ返す。
それは愛だったのか、絶望だったのか。
もう誰にも、判別できなかった。